ピーター・パンもサンタクロースの存在も信じてると言えば、笑われた。
「そんなこと言うなんて、やっぱり龍太はお子様だ」
 例えばそれが途方もない絵空事であれ、些細な日常に転がっていることであれ、願いを簡単に口にすることは幼稚だと、他人( ひと )は言う。

 ――でも、想っているだけで叶う願いなんて、本当にある?

 口に出せば全てが叶うとは、さすがに思わない。だけど、言葉にしなきゃ伝わらない願い( 想い )を相手に伝えようとしないのは、そんな願い( 想い )、相手にとって存在しないと同じ。
 発信しなきゃ、決して受信してはもらえない。
 それをそのまま形にしたものが、今、きっと君のすぐそばにもあるだろう。



       



 新しい季節の到来を告げる風も、とうに過ぎ去った。
 芽吹いた緑のほのかな芳香と少しのけだるさの混じりあった、穏やかな春の晩。
 龍太は自室で、泣いていた。
「……っく……うっ……ぅ…………」
 消されたばかりのテレビの画面の前で、嗚咽と鼻をすする音が響く。
 お気に入りの青縁のメガネは今はテーブルの上。リモコンを握ったままの右手で目元をこすり、ティッシュの箱へと伸ばした左手は、しかし空をつかむばかり。
 顔を上げた龍太は目の前のそれがすでに空になっていることに気づくと、立ち上がり、部屋を出た。
 向かう先は隣の部屋。
 ノックもせずにドアを開けると、頼む前からティッシュの箱が飛んできた。スコン、と乾いた音を立てて、箱の底面が見事にこの鼻の頭に命中する。
「ててっ……」
「親しい仲にも礼儀ありっていうでしょ? いくら兄妹だからって、女の子の部屋に勝手に入んないでよ」
 ずり落ちた箱の向こう、さらに涙腺を刺激されてにじんだ視界に、わずかに顔をしかめた妹が映る。勉強でもしていたのか、デスクチェアに座ったままこちらを向いていた。もしかしたら、手紙でも書いていたのかもしれない。
 龍太は大きな瞳を瞬かせて涙の膜を拭い落とすと、ごめん、と素直にうなずいた。
 いまだ痙攣( けいれん )を繰り返す横隔膜にヒック、ヒック、と急かされながら、足元に落ちたティッシュの箱を拾い上げれば、今度は呆れた声音が返ってくる。
「また泣いてたの? 今日、そんなにいい番組やってた?」
「うん……やってた……」
 鼻をかみつつ、龍太はうなずく。
「キトがね……」
「キト?」
「捨てられたにゃんこ、が……かっ、かわいそうで……っく……でも、し、幸せになるん、だよ……」
「またー、そういうドキュメンタリーにほんと弱いよね、龍太」
「み、実月( みつき )だっ、て……ヒック……キライじゃな……くせ、に……っく……」
「そりゃあ、だてに16年も君の分身やってないですから」
 にっ、と漆黒色の大きな瞳を細める妹、実月。
 龍太も涙に濡れていた顔をぱっと輝かせた。そうして、鏡を合わせたように妹と似通う笑顔で、一歩、部屋のうちへと足を進める。
 と、
「はい、ストップー。今日はそこまで。あたし今忙しいから、幸せになったにゃんこの感動を伝えるなら、誰かほかの人にしてね」
 椅子から立ち上がった実月が歩み寄り、トン、と龍太の胸を手のひらで押す。
 よろけた龍太はムッと顔をしかめた。けれど、妹への文句よりも先に口からこぼれ落ちたのは、盛大なしゃっくり。
「――ヒック!」
「はい、これあげる。水でも飲めば、少しは治まるかもよ」
 机の上で光っていたミネラルウォーターのペットボトルを渡され、後はそのまま部屋の外へと追い出される格好。目の前でパタンと閉められたドアを、龍太は悔しげに見つめた。

 ……ちょっとくらい聞いてくれたっていいじゃん。

「……あんまり俺に冷た、くすると……っく、恋ちゃん、に嫌われるよ。俺……っく、恋ちゃんに言っ、ちゃおうっと」
「へえ、いつからそんな了見の狭い小舅( こじゅうと )になったの?」
 そんな台詞は痛くもかゆくもないとばかりに、さらりと返ってきた妹の声。それへ返す言葉の代わりに、閉じられたままのドアに向かって龍太は小さく舌を出した。

 ……恋ちゃん、まだ帰ってないだろうな。

 自室に戻り、ちらりと見上げた壁の時計は日曜日も午後9時を示していた。
 言いつけるも何も、恋次は今あの居心地のいい部屋にはいないはずだ。

 梅田家は一昨日の夜から家族総出の旅行中。そして、旅行とはいえ家族総出であるからには、ただの気楽な観光のはずもない。梅田家の嫡男≠ニして表に出るからには、その旅路で恋次がわがままなど言えないことも、これまでの長年の付き合いで重々承知している。
 連絡を取ることは不可能ではないだろうが、今頃は気疲れしているだろう幼なじみの様子もたやすく察することができる。

 実月の話よりも、伝えたいのはもちろん、先程の自分に湧き出てあふれた感動のほう。
 恋次は、わかってくれる。適当に相づちを打ったり、打たなかったりしながら、それでもいつも最後までちゃんと話を聞いてくれる。
 けれど、

 ……今一番伝えたいのって、ほんとに恋ちゃんかな。

 ふと浮かんだ疑問に小首を傾げ、龍太はペットボトルの飲み口をくわえた。
 その瞬間、
「――ヒック!」
 再び横隔膜が激しく痙攣した。
「ぷはっ、ゴホッ……!」
 あふれた水が勢いよく顎を伝って流れ落ちる。
「つめた……」
 考えこんでいたときには大人しくなっていたはずなのに、と恨めしい表情で龍太はびしょ濡れになったTシャツの胸元を見下ろした。指先でそっとつまんで、はあ、と小さく息をこぼす。
「これ、せっかく直也にもらったのになー……」
 青地に星が散りばめられたこのTシャツは、昨年、16歳の誕生日の夜に贈られたものだ。そのとき隣にいたもう一人の友人からは、同じデザインの黄地のものを。仲良く色違いのTシャツが包みから顔をのぞかせていた。
 水に濡れて濃さを増した青い色。それを見つめていた龍太は、はっと顔を上げた。
「そうだ!」
 さっきの感動を伝えるには、恋次よりももっと適役の相手がいた。いや、本当に伝えたかった相手が誰なのかを探し当てた。
 龍太はベッドに飛び乗ると、枕元に置かれていた携帯電話を手に取った。アドレス帳から迷わず一つの名前を呼び出し、ためらうことなく発信ボタンに指をかける。
「へへ……」
 話す前から胸の中のワクワクが抑えられない。抱えた膝小僧を意味もなく指で弾いた。相手が応じてくれるまでの数秒が、たまらなく長く感じる。
 いつもの発信音が聞こえないことに気づいた刹那、プツ、と電波の切り替わる音がした。
「あ、もしもしっ、直也っ? 俺、りゅう――」
『おかけになった番号は、電源が入っていないか、電波の届かない所に…………』
 返ってきたのは、あまりに無機質な音声だった。
 龍太は大きな瞳をきょとん、とさせて通話を切ると、再び同じ番号へ発信する。
「直也? 俺――」
『おかけになった番号は、電源が入っ――』

 もう一度。

「なお――」
『おかけになった番号は――』

 …………。

 何度かけてもつながらない。
 三連敗の事実に、背を預けていた壁もやけに冷たく感じられる。龍太は携帯電話を握り締めたまま、布団の上へとゆっくり身体を沈めた。
「あーあ……」
 それまでが炭酸のように弾けて軽い心地だっただけに、沈んだときの落差もまた大きい。
 ベッドに寝転んだ格好で、ちら、と部屋の隅のテレビに視線を向ける。

 ……今、話したかったのにな。

 明日学校で会えることはわかっている。忘れない自信はある。けれど、あのとき湧き出てきた100%の想いを伝えることには、自信がない。今ですら、一瞬一瞬のうちに色あせていくのがありありとわかる。明日の自分に残った感動はきっと、50%もないだろう。
 文字にして送ろうかという考えは、浮かばなかった。メールにすれば、たとえ今相手にはつながらなくとも、こちらの想いを形にして送ることはできる。
 だが、メールは苦手だった。いつも打っている途中で、そのもどかしさに耐えられなくなる。自分の声で伝えたい欲求に勝てなくなる。自分の一言ひと言に返してくれる相手の気配を、感じたくて仕方なくなる。

 ……もう一回だけ。

 リダイヤルのボタンを押して、仰向いた。天井をじっと見上げ、いつもの少し不機嫌そうな声が返ってくるのを待つ。
『おかけになった番号は…………』
 流れてきた無感情な言葉の列を表情変えずに最後まで聞いた龍太は、一言、そこに自分の言葉を残した。
「俺、生まれ変わったら猫になりたい」



♪ ♪ ♪



 翌朝。
 始業前の3階の廊下はざわざわと賑わっていた。
 金曜日に行われた始業式から土日を挟んでの今日、進級後の登校日としてはまだ二日目。1年次とは違う教室へ来ることが新鮮なのか、それとも春という始まりの季節がもたらす印象のせいか、廊下を行きかう生徒たちの表情も明るく、どこか初々しい様子だ。

 龍太は正面玄関から校舎に入ると、たいていの生徒が使用する中央階段の横を通り抜け、いまだひんやりと静謐( せいひつ )な朝の空気が漂う東階段へと向かう。
 それはこれまでの一年間通い続けた登校ルートと同じ。目指す教室は、一つ隣にずれるけれど。1年次に2組だった龍太にとっては、4階から3階へと階は下がるものの、校舎の東端にある1組の教室には親しみがあった。
 2年次から3年次への進級の際にはクラス替えは行われない。ということは、三年間この東階段にはお世話になるわけだ。
 もちろん、階段なんてものはどこを通ってもいい。どの階段を使おうと、同じ校舎内、目的の場所には必ず辿り着く。それでも、できるならあまり無駄な時間を使いたくない登校時に、わざわざぐるりと遠回りをして教室へ向かおうとする生徒は少ないだろう。
 校舎入口となる正面玄関は横に長い校舎のちょうど中央に位置する。玄関をくぐれば、中央階段はすぐ前方に見えている。となれば、必然的に朝のこの時間、東階段へ足を向けるのは1、2組の生徒だけというのが、どの学年でも共通するところだった。
 それがどことなく特別めいていて、龍太は好きだった。
 一段目へと足を置く手前で一度立ち止まり、誰もいない階段へとペコリと頭を下げる。
「今年もよろしくお願いしますっと!」
 そうして鼻歌まじりに階段を駆け上った正面にある2年1組の教室へ龍太が飛び込んだのは、始業のチャイムが鳴るわずか二分前のことだった。


「みんな、おはよーっ!」
「おう、龍太……って、えっ?」
「あれっ、龍ちゃん?」
 こちらの挨拶に振り向くなり目を丸くしたのは、1年次にもクラスメイトだった数人の生徒たち。
「早いじゃん! まだチャイム鳴ってないのに!」
「チャイムと龍太、どっちが早いか今年もヨシと賭けるの楽しみにしてたんだぜ?」
「教室に一番乗りか、遅刻かのどっちかしかできなかった龍太がこの時間に来るなんて、キセキだな」
 黒板の上に掛けられた時計とこちらの顔とを見比べて驚いた顔の彼らを前に、えへん、と龍太は胸を張った。
「だって、今日は2年になって最初の授業だもんね」
「へえ、がんばったんだ」
「そうだよ、沖本龍太はやればできる子だもんっ」
「じゃあ、今年は遅刻の龍太≠ヘもう返上?」
 これからは毎日始業前に来れるのか、と当然のように問われた龍太はサラサラの黒髪を揺らしてうなずいた。
「沖本龍太はやればできる子だもんっ」
「……やればできる、やればできるって、やけに強調するな」
「それってつまり、やる気がナイってことだろ?」
 やっぱり2年になっても龍太は龍太だ、と笑い声に迎えられて龍太は教室のうちを歩んだ。新顔のクラスメイト一人ひとりに「俺、龍太。よろしく」と声をかけながらようやく辿り着いた窓際、前から三番目の席。
 けれど、そこにはすでに先客がいた。
「おはよ、やればできる子の龍太くん」
「麻季( あさき )、おはよっ」

 1年次にもクラスメイトで仲の良さを互いに認め合っていた女子、穂積麻季。
 窓から射し込む朝日に長い黒髪が照らされている。その輝きが、去年までとはいささか違って見えた。そういえば教室の明るさが今までと違って感じるのは、やはり一つといえど階が下がり、教室が隣に移ったせいなのかと、彼女の姿を見て気づく。
 なにげない今朝が、また少し特別に思えた。

「あれだけ遅刻常習犯だった龍太が始業前に登校してきたんだから、がんばったのは認めるけど……」
 穂積がこちらと入れ替わるようにして席を立ちながら、くすっと笑った。
「2分前じゃなくて、せめて5分前に来てあげればよかったのに」
「来てあげればって?」
 龍太は自分の席へと腰を落ち着け、すぐ隣に立った相手を見上げ、首を傾げる。
「入倉がずっと待ってたんだよ。1限に遅れるからって、もう戻っちゃったけど」
「直也が?」
 うん、とうなずいて、穂積がまたおかしそうに瞳を細める。
「あたしも聞かせてもらっちゃった」
「何を?」
 大きな瞳をきょとん、とさせて再び首を傾げた龍太だったが、
「伝言だよ、伝言」
 入倉のケータイのね、と穂積の言葉に、すぐにその首の傾きを正した。
 昨晩の一件のことらしい。
「ああ、あれか……」
「わけがわからねえ≠チて、こーんなに顔をしかめてたよ、あいつ」
 直也のそのときの表情を真似するのか、穂積が女の子にあるまじきひどいしかめ面をしてみせる。
 穂積を通じて眺めたあまりに「らしい」友人の姿に、龍太も思わず吹き出した。
「あはっ、そっか!」
「でも、入倉じゃなくてもびっくりするよ、何の前置きもなくあんなのが留守電に入ってたら……あれ、どういう意味?」
「んーと、だから……」
 そうして龍太は、昨夜のあらましを穂積へと語って聞かせた。

 偶然テレビのチャンネルを回したら流れていたドキュメンタリー番組。
 そこで語られていた一匹の捨て猫キト≠フ、もの哀しくも幸福に満ちた短い一生。

『キトは、わたしたちに何も語ってはくれません。それでもわたしたちは、その小さな命の生き様から、確かに何かを得ることができたと思うのです。
 キトが歩いた道の上には、ただキトの世界があった。キトはそこで、あるがままに生きていた。
 そして、キトがその道の上で見上げていたあの青い空。同じ空の下で、わたしたちもまた、生きているのです。
 この道の上に存在する全てのものと、互いに影響し合いながら……』

 聞いた穂積が、ふぅん、とうなずく。
「なるほどねー、いかにも龍太が好きそうな番組」
「うん、俺、すっごい泣いたもん! ほら、俺んちでも前に、拾い猫飼ってたし……」
 語りながら自分の言葉に再びぶり返した感動の熱。
 けれど、ああ、やっぱりと思う。一夜の眠りを越えた今では、もうその熱をうまく伝えきれない。いや、その熱すら昨夜とは温度が違うことを心の肌で感じる。
「で、それを入倉にも伝えたかった、と……」
「うん! 直也に! ……それなのに、全然つながんないだもん……」
「それはしょうがないんじゃない? いくらケータイが便利だっていっても、いつもいつも出られるわけはないでしょ、さすがに。みんなそれぞれの生活のペースがあるんだしさ……龍太の気持ちもわからなくはないけど、もうちょっと後先考えられるようにならないと、自分が自分に振り回されて疲れちゃうよ?」
 ね、と今度は穏やかに目を細める穂積を見上げ、うん、と龍太も素直にうなずく。うなずいた拍子にずり落ちたメガネを直しながら、
「でも、伝えたかったんだもん……」
 ぽつりつぶやけば、小さなため息が降ってくる。
「そこまで自分に正直になれるのも、ある意味才能だよね。ちょっとうらやましいわ……」
 本気半分冗談半分といった調子の穂積の声に、始業のチャイムが重なった。
 それを合図に自分の席へと歩き出しかけて、けれどすぐにまた足を止めて彼女が振り返る。その表情は、いつもの明るい茶目っ気にあふれていた。
「ねえ、その話、入倉が聞いたらこう言うでしょ、絶対。嫌味にしか聞こえねえな≠チて」



♪ ♪ ♪



 休み時間ごとに直也の元へと出向くタイミングをうかがっていたが、ようやくその機会が巡ってきたのは5時限目も終わってからだった。
 2時限目と3時限目の間にあるSHRで決めてしまうはずだったクラス内委員の選出に、思いのほか時間がかかったためだ。おかげで、その後の休み時間が全てその話し合いに費やされ、そろそろ皆もうんざりした顔つきになっていたところ。
 今年のクラスのまとまりと積極性は、どうやら今ひとつ。

 ……ま、始まったばかりだから仕方ないか。

 3年次まで持ち上がりのクラスだ。焦る必要もない。時機が来れば、おのずと自分たちの形なんて出来上がるもの。
 中央階段の横を過ぎ、ロの字型の回廊に出たとたん、窓から射し込む陽の光で視界の明るさが増す。階段前の開けた窓辺で中庭を見下ろしながら談笑している生徒も多い。
 見知った顔を見つけるたびに手を振りつつ歩き、ようやく辿り着いた6組の教室。体育委員らしき一人の生徒がちょうど入口の鍵を開けているところだった。その横顔に見覚えがあった。
「おーっす、トモ。5限、体育だったんだ?」
「あ、龍太。うん、そう。俺らんとこ3コマともバラけてるからさ、今年の体育はつまんなそう……」
「へえ? ウチは木曜に3、4限で続いてるよ」
「いいなー。そのほうが絶対楽しいよな。リーグ戦とか燃えるのに」
「残念だったね」
 ほんとに残念だよ、とため息をつく彼に続いて教室のうちへと足を踏み入れた。当然ながら、そこには生徒の姿はまだない。
 龍太はきょろきょろと教室中を見回して、見覚えのあるバスケットボールを探す。

 ……あ、あった。直也の席、あそこか。

 それは窓際の前から二番目に見つかった。

 椅子を拝借して待つこと、数分。
 クラスメイトとともに戻ってきた相手はこちらの顔を見るなり、何を語るよりも先に露骨に顔をしかめた。
「龍太、あの留守録、意味わかんねえよ」
 わざわざ残すんなら、もっとマシな言い方にしろ、と吐き捨てる口調がやけにとげついている。もともと無愛想で不機嫌そうな物言いをする相手だが、今は実際に神経がささくれ立っているらしい。
「5限で何かあったの?」
 何気なく訊ねてみれば、直也は黙り込んだ。その無言が何より今のこちらの問いを肯定している。

 ……相変わらず不器用だなー。

 どこか微笑ましい思いで龍太は机に頬杖をつくと、じっとそのしかめ面を見上げた。
 すると、相手はバツの悪い顔で一言、「むかつくやつがいた」とつぶやいた。
 つぶやいて、再び直也がしかめ面。舌打ちもおまけにつく。
「……そんなことより、昨日のあれは何だよ」
「うん、それを話しに来たんだよ」
 そうして龍太は穂積にも語った話を再び、いや、ようやく届けたかった本人の耳へと届けた。
 聞いた直也は頬を引きつらせ、吐き捨てる。
「捨て猫のドキュメンタリーって……嫌味にしか聞こえねえな、それ」
 俺の前で猫の話はすんじゃねえって言ってるだろ、とふてくされた顔で二度目の舌打ち。

 ……麻季の言ったとおりだ。

 さすがは一年間ケンカ友達をしてきただけのことはある、と龍太はメガネの奥でわずかに瞳を細める。
 と、目の前の相手はそれを見逃さなかったらしい。
「なに笑ってんだよ、龍太」
「え、今俺が笑ったのわかった?」
「わかるに決まってんだろ。そんだけ正直な面してりゃあ……」
「ふぅん……正直、か」
「……なんだよ」
「べつにー。とりあえず、俺が話したかったのは、そういうこと! あー、スッキリした!」
 以上、オシマイ、と勢いよく立ち上がれば、怪訝な表情をしていた直也が不愉快そうに眉根を寄せた。
「一方的過ぎねえか」
「そう?」
「……俺が出れるときなら聞いてやらなくもねえけど、つながんねえってわかってる相手に残しておくようなことじゃねえだろ。何件も不在着信入ってるからよっぽどのことかと思って伝言聞いてみりゃ、あれだし……」

『俺、生まれ変わったら猫になりたい』

 唐突過ぎて、意味も意図もわからない。
 呆れられても文句は言えないだろう、と実際に呆れ顔の直也。
「恋次もつかまらなかったのか?」
 その問いに、龍太もまたムッと顔をしかめた。
「恋ちゃんは関係ない。俺は直也に話したかったんだよ」
 そう、誰でもいいわけじゃない。
「直也に伝えたかったんだよ」
「…………」
 まっすぐに見上げれば、直也は何も言わずに自分の席へと腰を落ち着けた。長めの前髪をぞんざいにかきやり、左肘で机に頬杖をつき、同じ机の脇に掛けられたバスケットボールへと目を向ける。
 その仕草を見れば、この気持ちが伝わったのだろうことはわかった。わかっただけに、直也の今の気持ちがどこに向いているのかもわかって、正直複雑な気持ちにもなる。
 そこに在るボールがただのボールではないことを本人の口から聞いたのは、二ヶ月前のこと。
 龍太は窓枠に背を預けると、その場にストンとしゃがみ込んだ。抱えた膝の制服の柄を指先でそっとなぞりながら、まだボールを見つめたままの友人の横顔を見上げた。
「汐浜、行ってたの?」
 ぽつり訊ねれば、すぐさま視線が返ってくる。
「だったら、なんだよ」
「なにってことはないけどさ……ケータイの電源切っておくほど邪魔されたくないのかなーと思ってさ」
「……は?」
 一度目を見張った直也が、すぐに噛みついてきた。
「汐浜とそれとは何の関係もねえだろ? 最近、やたらむかつくことが多いから電源切ってるだけだよ」
「むかつくことって?」
「だから、イタズラとか間違いとか……」
「……そんなの着信拒否でどうにでもなるじゃん」
「ロックNO.忘れて変更できねえんだよ」
「……あ、じゃあ、俺が当ててあげようか! 俺、そういうの得意なんだよ」
 ふい、と直也の視線が再び横へそれる。
「いいって、別に。どうせもうすぐケータイごと替えるつもりだし。俺からかけるとき以外は電源切ってるって、あいつらには言ってあ――」
「俺は聞いてないもん!」
 我慢ならずに龍太は立ち上がった。
「じゃあ、その間、俺は何も知らないで発信し続けて、でも直也はそれを知らないで……そんなの……そんなの、直也のほうこそ一方的じゃんかっ!」
「な……なんでそんなに怒るんだよ」
 明日あさってにでも替えるつもりだった。そうしたら新しい番号もすぐに教えるから、と困惑の顔で語る相手に、龍太は憤りを込めてかぶりを振った。
 直也の話すケータイ事情=B
 理由はわかるけれど、納得はできない。

 ……だって、俺だってわかってもらいたいのに。

「……龍太?」
 直也の声音はまだ戸惑っている。
 龍太は唇を噛み締め、うつむいた。
「おい、龍太……」
「…………」
 ひとしきり自分の足元を見つめていた龍太は、やがてゆっくりと顔を上げた。鼻の頭にずり落ちたメガネを直し、歩き出す。
「じゃあ、新しい番号、すぐ教えてね」
「……おう」
 小さく、直也がうなずいた。
 廊下に出る一歩手前で肩越しに見やれば、直也はまだ呆気にとられた表情でこちらを見ていた。
「あ、龍太だ。龍太って、今何組なの?」
「体育祭、同じ団になれるといいね」
 笑顔で声をかけてくる元・クラスメイトたちに手を振り返し廊下へ出れば、また違う声が横からかけられた。
「龍ちゃん」
 振り返らずとも、誰の声だかわかる。
 見れば、思い浮かべたとおりの相手がいた。漆黒の髪に、大人びた微笑がそこにある。
「恋ちゃん、昨日何時に帰ってきたの?」
「10時過ぎ、かな」
「大変だね」
「いや、慣れてるから。それより、6組に来てたの? もしかして、入倉に用事?」
 入倉、と名前を口にしたとたん、恋次の表情に堪えきれない笑みが浮かんだ。
「どしたの、恋ちゃん」
「いや、ちょっと……さっきの体育でおもしろいことがあって」
 恋次が肩越しにどこかを見やった。
 視線の先には、体育館からばらばらと歩いて教室に戻ってくる7組の生徒たち。
 その中に目立って色素の薄い一人を見つけ、龍太はうなずいた。
「ふぅん……」
 
『むかつくやつがいた』
 
 思い出すのは先程の直也の表情と声音。
 恋次の笑顔の理由と直也の苛立ちの理由は、もしかすると同じ。

 そう察しながら、今は努めて興味のないふりをしてみせる。
 すると、こちらを見下ろした恋次が穏やかな顔で小首を傾げた。
「どうした? 龍ちゃん」
「うん……」
 龍太はうなずいて、しばしうつむく。頬にかかる黒髪を指で梳きながら、再び高いところにある幼なじみの顔を見上げた。
「恋ちゃん、今日時間ある?」
「今日?」
「うん、放課後とか」
「あー、学校ではちょっと無理だな」
「じゃあ、夜、恋ちゃんの部屋行っていい?」
「いいよ」
「じゃ、8時ごろ行くね」
 わかった、と快くうなずいてくれた相手に龍太もうなずき返し、それじゃ、と歩き出す。
 回廊の窓ガラスの向こう、中庭に降り注ぐ陽の光に一度目を細め、カーディガンのポケットへと手を入れた。取り出したレモンイエローの携帯電話。今は無言のそれを見下ろし、小さく息をつく。
「一方的、かー……」



[ 2 ]に続く





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