そして、夜。
 恋次の部屋。

「やっぱり一方的だよ、龍ちゃん」
 和風の木目調に統一された空間の中央に置かれたミニテーブル。冬にはこたつへと様変わりするそれを間に、向かい合う恋次が苦笑した。
「やっぱり、恋ちゃんもそう思うだろ?」
「いや、そうじゃなくて……一方的なのは龍ちゃんのほう。俺は入倉の気持ちのほうがわかるな」
「…………」
 一人を除けば誰より身近な存在の幼なじみに言われ、龍太はしゅん、と肩を落とした。恋次が淹れてくれた熱いココアをすすりながら、テーブルの上に置かれている自分の携帯電話へと目を向ける。
 コト、と湯呑みを置く音に顔を上げれば、恋次もまたそれを見下ろしていた。
「実際、俺だってその場で出れることのほうが少ないし……まあ、便利なようで不便だよな、ケータイって」
 安易な繋がりを一度知ってしまうと、それが繋がらなかったとき、心に覚えてしまう不安の芽。
 知らないことが強みとは、案外こういうものなのかもしれないな、と恋次が再び頬を苦笑に染める。
 穏やかな恋次の声音に、龍太も小さくうなずいた。
「恋ちゃんの言うことはわかるよ。中学んときはケータイ持ってなかったし、持ってないときはそれが当たり前で、別に必要だとも思わなかったし……」
 龍太はまたひと口ココアをすすると、携帯電話を手に取った。
 使い慣れ、手になじんだレモンイエロー。
 二つ折りのそれを開いて、また閉じて、そっとテーブルの上へ戻す。
「今だって、ケータイなんかなくたって人は生きられると思ってる。ケータイなんて、ただのおもちゃだよ」
「ただのおもちゃとは……よく言い切ったな」
「だって、そうじゃん。無意味にゲームできたり、無意味に音楽聞けたり……でもさ、やっぱり友達からメール来たりするのって、単純にうれしくない? メール打つときって、相手のこと考えるだろ。今、何やってんのかなーって。そうやって俺のこと考えてくれたんだーって思ったら、うれしいじゃん」
 そこまでひと息に話し、またココアをひと口含んだ。甘いミルクの匂いごと飲み下し、両手でカップを包み込む。たちまちその熱に手のひらがじんじんとしびれだした。
「今日、俺が直也に言いたかったのって、それだけなんだけどなー……」
「それだけ?」
 恋次が小首を傾げる。
「うん、それだけ……」
「それだけ……」
 この口が発した言葉の意味を考えるように、恋次がその声で繰り返す。
 こんなときの幼なじみの声はたまらなく好きだ。
 龍太はカップを置くと、両手で頬杖をついた。そうして、手のひらから伝わる熱の心地よさに瞳を細める。
「ケータイってさ、携帯電話なんだよ、恋ちゃん」
「え、うん……」
「今はメールとかゲームとかウェブとかいろいろできるけど……始めは電話だけだったんだよ」
「……そうだな」
 うなずきながらも、恋次はまだよくわからない顔だった。
「うーんと、だからね……」
 そんな相手へ語るための言葉を探す。そうして、その短い逡巡( しゅんじゅん )こそが答えなのだと知る。
「俺、何がどうなって電話ができてんのかわかんないけどさ、電話の始まりって発信することだよね。で、電話が鳴るってことは、受信してるんだよ」
「…………」
「受信してるってことは、誰かが発信してるんだよ」
「……発信してくれなきゃ、受信できない?」
 ぽつ、とつぶやかれた幼なじみの言葉に、大きくうなずいてみせた。
「そう、それ! こうやって、今、恋ちゃんが俺の前にいてくれるみたいに、すぐそばに相手がいるなら、言葉にしなくても顔見るだけでわかるものもあるけど、そんないつもいつも誰かと一緒になんていられないだろ。でも、そばにいない相手にあ、今伝えたい≠チて思うことって、やっぱりあるじゃん。携帯電話って、そこから始まったと思うんだよ、俺……」

 伝えたい気持ちから、それは生まれたと思う。
 それを考えると、人はなんて寂しがりな生き物で、忘れっぽい生き物だろう、と思う。その瞬間に感じたことを、そのままに抱き続けることができないのだから。
 でも、だからこそ、そんな一瞬を愛しくも思う。

「これが鳴るとき、誰かがそのとき俺に伝えたい言葉があるってことなんだよ。それって、すっごくワクワクしない?」
 満開の笑みを咲かせて、目の前の幼なじみの顔を見る。
「俺、自分のケータイが鳴ると、すっごくうれしいもん! ドキドキする。誰からだろう? って、ワクワクする。メールでもうれしいし、でも、電話だともっとドキドキする」

 電話をかけるのは、その相手と話したいから。相手の声を聞きたいから。相手に自分の声を届けたいから。
 そう、誰でもいいわけじゃない。
 そして、届けたいのは声だけじゃない。発信音に乗せて、気持ちも送ってるんだよ。むしろ、本当に届けたいのはそっち。
 直也にわかってもらいたかったのは、ただそれだけ。

「……これって、一方的かな?」
 膝を抱えてちらりと見上げれば、返ってきたのはやはり苦笑顔だった。
「うん、やっぱり一方的だと思う。すごく龍ちゃんらしいし、皆が龍ちゃんみたいな考え方だったら、この世の中どれだけ平和になるだろうとも思うけどな」
 くす、といつもの艶めいた笑みをこぼす恋次。
 やっぱり一方的か、と龍太はため息を抱えた膝の上にこぼした。さらりと頬にかかった髪を指で梳き、口をとがらせる。
「だって……直也のやつ、いまだに汐浜のことばっかりなんだもん。何かあったとき、話を聞いてもらいたいって思ったとき、直也がきっと一番に思い浮かべるのって汐浜の友達なんだろうなって考えたらさ、ちょっと寂しくなる」

 友達は皆それぞれ違うところがあって、それぞれに大好きだけれど。
 直也を思うときには、そのことがほんの少し心に特別なフィルターをかけてしまうことがあってもいいと思ってる。
 もしかしたらそれは単に、相手が同じ場所にいても違う街を思っている歯がゆさに煽られた、つまらないものかもしれないけれど。
 心に鍵をかけるのは苦手だ。だからこれまでだって、きっとそんな感情を発信し続けてきたはずなのに。それすらも一方的だったなら。

 ……やっぱり、寂しいなー。

「俺が恋ちゃんと離ればなれだったら、どうなってたかな……」
 ふと、思った。
 いや、直也を見るたびにそれは繰り返し思っていたことだ。
「どうなってたと思う?」
 今は目の前にいる相手に訊ねれば、いつもの笑顔が返ってくる。
「そうだな……たぶん、何も変わらないよ」
「……そっか。じゃあ、直也も変わらないのかな」
 これからも、そばにはいない友人たちを思って過ごすのだろうか。
「それは、どうだろうな。入倉と龍ちゃんは違うだろ。入倉の昔なじみがどんなやつらなのかは知らないけど……」
「うん――」
 うなずいて、今また思い出されたのは今日の直也の顔だった。
 見るからに苛立ち、神経を尖らせた表情で、けれど、こちらが何かあったのかと訊ねれば、今度はなぜかバツが悪そうな表情になっていた。「むかつくやつがいた」んだ、と。
 はっ、と龍太は髪を揺らす。

 ……もしかして。

「龍ちゃん? どうした?」
 短い物思いに沈んでいた心が、恋次の穏やかな声音に拾い上げられる。
「な、恋ちゃん。今日、体育のときにあったおもしろかったことって?」
 唐突な問いだったせいか、え、と恋次は驚いた顔。が、それもすぐに笑顔に変わる。
「綾井と入倉を引き合わせたんだよ。後は、想像つくだろ?」
「……やっぱり寿人か」
「やっぱりって?」
「直也がむかつくやつがいた≠チて言ってたから、寿人のことかなって思ってたんだよ」
「それはご名答だな」
 今また思い出し笑いに肩を揺らす恋次を前に、龍太もまたその瞳を細めた。そうして、つぶやく。
「入口、見つけたかも……」

 いや、すでにその扉は開き始めたのかもしれない。

「え? 何か言った? 龍ちゃん」
「ううん、なんでもない! 俺もそのときの直也と寿人、見たかったなーって」
「うん、龍ちゃんにも見せてあげたかった」
 そのとき、テーブルに置かれたレモンイエローがにわかに歌いだした。
「電話?」
「ううん、メール」
 龍太は手の中に携帯電話を握り締めたまま、首を振る。
「見ないのか?」
「誰からかなーって、考えてるんだよ」
 笑ってそう返せば、恋次はたちまち苦笑顔。すっかり温くなった湯呑みを取って、残った茶をひと息に飲み干した。
「そりゃあ、龍ちゃんにとったらケータイもおもちゃになるわけだ」
 電子音が鳴るごとにそんなに楽しそうな顔になれるのなら、と。
「だから、言っただろ」

 相手によって着信音は分けていない。この機種にはサブ画面もない。閉じたままでは、それが誰の発信によるものかはわからない。
 誰からなのか、すぐにでも知りたい。
 でも、誰からだろうって考えてワクワクするのも楽しい。
 そんな気持ちがぶつかり合うこんな瞬間が、たまらなく好きだ。まるで、中身の見えない宝箱を開ける気分。開けた先に待っているのが、必ずしも幸運な宝物とは限らないけれど。

 開いてみると、そこに表示されていた名前は、
「あ……直也だ」
 今まさに考えていた相手。そして、意外な相手。
「直也からメールって、めずらしいな。なんだろ」
「ケータイ替えた報告じゃないのか?」
「替えるのは明日かあさってって、言ってたもん」
 受信メールを呼び出せば、しかしそこに書かれていたのは恋次の言葉通りの件だった。


  FROM 直也
  Sub. 新しい番号
  ――――――――――――
  090‐××××‐△△△△
  メアドは前と同じ



 いたって簡潔な文面が、あまりに直也らしい。
「恋ちゃん、ちょっとごめんね」
「べつにいいよ」
 お茶淹れ直してくるから、と恋次が席を立つのを横目に、すぐにその番号へと発信した。

 ……繋がるかな。

 数えた発信音は三度。

『やっぱりかかってきた』
 聞こえてきたのは、いつもの少し不機嫌そうな声。
 心が、はしゃぐ。
「直也? 俺、龍太!」
『おう』
 うなずく相手の声に、時折り風の音が入り混じる。
「あれ、外?」
『家に帰ってる途中。部活の後、そのままケータイ替えに行ったから』
「明日かあさってって言ってたのに」
『……べつに、充と寄り道したら、たまたま近くにショップがあったんだよ』
「へー、そう」
『……なんだよ』
「ううん、べつにー。あ、もしかしてさ、新しい番号教えてくれたの俺が最初?」
 茶化して訊ねてみれば、さも当然とばかりのうなずきが電波越しに聞こえた。
『メモリの最初に入ってんの、龍太だから』
「あ……そうなんだ」
『もう切っていいか?』
 同じ用件を伝えなければならない相手がまだいるから、と直也の言葉に龍太は二度三度うなずいた。
「あ、そうだよな。ごめ……あっ! 直也」
『あ? なに?』
「ありがと!」
『ありがとって、何が?』
「だから、一番に教えてくれて」
『すぐに教えろって言ったのは龍太じゃねえか。んじゃ、またな』
 また明日学校で、と聞こえた笑い声が、すぐにツーツーと無機質な音の向こうに消える。
 けれど、龍太の顔にはまだ笑みが消えずに残っていた。
「楽しそうだな」
 部屋へと戻ってきた恋次が、湯気立つ湯呑みをテーブルへ置きながら艶(えん)な笑顔。
 それへ、うん、と大きくうなずき返した。
「直也のメモリ、登録してあるの俺が最初なんだって」
「龍ちゃんのケータイだって、そうだろ?」
「うん! そう!」


 高校の入学祝いにと携帯電話を買ってもらったのは、入学式の二日前。
 高校で最初にできた友達をメモリの最初に登録するんだ、と胸高鳴らせたことを今でも昨日のことのように思い出せる。
 そして迎えた入学式の朝、教室で最初に声を交わしたのは、一つ前の席に座っていた茶色い髪に猫のような目をした小柄な少年だった。


 ……そっか、一番か。

 龍太は満面の笑みで携帯電話を閉じると、カップに残っていたココアを口に含んだ。だいぶ温くなっていたが、今はその甘さが舌にちょうどいい。
「そういえば龍ちゃん、部活紹介の話聞いてる?」
「聞いてるよ。10日に集まって順番決めるんだよね」
「うん、そう。それで今年は…………」

 なんでもない穏やかな春の晩がまた少し、特別に思えた。



♪ ♪ ♪



「あれ、陸部は主将自ら部活紹介に出んの?」
「そうだよー。こんなときこそ、主将の俺がしっかりしないとね。あ……」
 放課後の308教室。
 数日後に行われる新入生を対象にした部活紹介。それに参加する上級生が各団体から一名ずつ集まっての今日は説明会だ。
 ほぼ2年生ばかりが集まった中、窓際に茶色くあせた髪が風に揺れるのを見つけ、龍太は鼻歌まじりに歩み寄る。
「バスケは直也が代表なんだ」
「当日は神田さんと光( ひかる )も出るけどな」
「へえ……」
 相づちを打ちつつ、すぐ後ろの席に腰を落ち着けた。横向きに腰かけている直也の手元が自然、すぐ目の前に見える。
「あ、それ、新しいケータイ?」
「おう」
 直也の手の中にいかにも真新しい携帯電話が光っていた。鮮やかなオーシャンブルーにホワイトのストライプが清々しい。
「かっこいーね、それ」
「そうか?」
 答える直也は先程から手の中のそれを操ることに忙しいらしい。
「メール?」
「ん……」
 うなずいた相手が、唐突に笑い出した。そして、つぶやく。
「ミナトのやつ、何やってんだか……」

 ……ミナト。

 耳に入った名前には覚えがない。汐浜の友人だろう、とすぐに思い当たる。
 今も携帯電話を見つめたままの直也の横顔は、実に楽しそうだ。知らない人は、どこが楽しそうなんだ、と首を傾げるかもしれない。それほど小さな笑顔だけれど。
 その小さな画面越しに会話する相手が自分であるときも、目の前の友人は同じように、こんな笑顔でいるのだろうか。
 ついそんなことを考えてしまう自分に気づいて、龍太はコツンと自分の頭を軽く小突いた。
 と、直也が顔を上げる。
「……なにやってんだ、龍太」
「ん? んーん、べつになんでも」
 えへら、と笑い返し、龍太は椅子の上で両膝を抱えた。
「陸部は?」
「え?」
「陸部は当日、龍太のほかに誰か出んのか」
「うん、賢ちゃんも一緒。できれば最後になるとうれしいんだけどなー」
「俺はさっさと終わらせて教室に帰りてえ」
「えー? せっかく堂々と授業サボれるのに?」
「最後がいいって、そういう魂胆かよ」
 勉強嫌いは2年になっても相変わらずだな、と直也が小さく笑みをこぼし、立ち上がった。
「まだ始まんねえよな」
「トイレ?」
「ん」
 歩き出した直也の置き土産が机の上。
 それを見下ろし、龍太は直也の背中へ声をかけた。
「な、ケータイ、ちょっと遊ばせてもらっていい?」
「べつにいいけど」
「使いやすかったら、俺もこの機種にしようかな」
「龍太には地味だろ」
「そうかな」
 手に取ったオーシャンブルー。

 ……サブ画面ついてるんだ、これ。

 思いついたのは、ほんの小さなイタズラ。
 二つ折りのそれをそっと開いて、カメラのマークをついたボタンを押してみる。パッと撮影モードに切り替わった画面。どうやらロックはかけていないらしい。鮮明な画質にさすが新機種は違う、と感心しながら、くる、と手の中の携帯電話を反転させる。
 ざわざわと談笑の声が響く教室のうちに、小さなシャッター音。
 もう一度画面を見下ろし、そこに自分の顔があるのを確かめ、素早く操作する。

 ……俺の名前、ほんとにメモリの最初にある。

 呼び出した自分のデータ、その画像にたった今撮ったばかりの写真を設定した。
「……これで、よしっと」 
 元のように閉じたところで、教室の入口に直也の姿が見えた。何も知らずに戻ってきた相手が、触り心地の程を訊ねてくる。
「うん、使いやすかったけど、俺にはちょっとカラーが地味かも」
「だから言ったじゃねえか。龍太は服でもなんでも主張したがりだもんな」
 机の上に並んで置かれたオーシャンブルーとレモンイエローを見下ろし、直也が笑う。
 目の前にある笑顔を、龍太も瞳を細めて眺めた。

 ……今はまだ気づいてもらえてないんだろうけど、さ。

 きっと、もうすぐ気づいてくれるだろう。

 ……気づかなきゃ、もったいないぞ。直也。

 九条( ここ )も捨てたもんじゃないってさ。
 これから、楽しいこといっぱい起こるんだから。
 一緒にそんな時間を過ごすんだから。
 目の前で、すぐそばで、たくさんの友達が笑うんだから。
 楽しいだけじゃないかもしれないけど。
 そんなときも、俺はすぐそばにいるから。
 今はまだ……ううん、これからも、俺たちが一番じゃなくても構わない。
 でも、俺はこの街で直也と一番に友達になったんだって自負があるから、これからも発信し続けるよ。
 目の前にいるときも。
 いないときも。
 直也に伝えたいことがあったら、遠慮なんかしないですぐに直也のこと呼ぶから。
 だからそのときは、せめて……たとえその瞬間は声を交わして繋がれなくても、俺の顔見て、すぐに俺のこと思い出してよ。



 口に出せば全てが叶うとは、さすがに思わない。
 だけど、言葉にしなきゃ伝わらない願い( 想い )を相手に伝えようとしないのは、そんな願い( 想い )、相手にとって存在しないと同じ。
 だから、俺は発信し続けるよ。
 
 そのケータイが鳴ったとき、俺の想いがどうか君に――



「君に、届きますように」





End.

本編「SKILL」のなかでナオが『こんな写真いつ撮ったんだ?』って疑問に思っていた部分(第10話「Replies」の3ページ目・参照)の、これが答えになってます。
第1話で描かれてる「寿人と直也が出会った日」の龍太視点ともいえますね。
ここから本編が始まった、みたいな。

さてさて、龍ちゃんの想いが届いているのか、いないのか……「SKILL」を読んでくれた方にはどう感じてもらえてるでしょうか。
それにしても、最大の誤算は、実月ちゃんがここでまさかの初登場しちゃったことです。。。笑


チコリ。






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