* * *




「それじゃ、これ、俺の携帯番号です。何かわかったら、すぐに連絡ください。いつでも出れ――」
 いつでも出れるようにしておくから、と松岡が言いかけたそのときだった。
 会室に響いた着信音に、はっと一瞬、部屋の空気が変わる。
 宇野が開きかけたドアを素早く閉じ、松岡が緊張の面持ちで須賀を見つめている。
「もしもし……うん、あたし……まだ会室にいるよ。うん……え? ……うん、わかった。じゃあ、一丁目の日和(ひより)公園で待ってて。そう、太陽の形の時計があるとこ。10分で行くから。それで何かわかったことは……うん……うん、それじゃ……」
「今の栗原さんからスよねっ? 狙われてたっていう彼は大丈夫スかっ? 相手について何かわかりましたかっ?」
 須賀が携帯電話を耳から離したとたん、勢い込んで訊ねたのは宇野。松岡は緊張の面持ちを崩さずに、静かに須賀の言葉を待っている。
「うちの生徒については、とりあえず大丈夫。詳しいことは言えないけど、ちゃんと自分の足で歩けるって。それと……」
 そこで須賀が一つ息を吸うと、ごく、と宇野が喉を鳴らした。
「相手は篠高生じゃないそうです」
「へ? うちのやつじゃないんスか? なんだ……」
 ほっと安堵の息をもらす宇野の横で、松岡は難しい表情のままだ。
「それは、わかってるんですか?」
 それは確定情報なのか、と言外に示す松岡の問いに、須賀が小さくうなずく。
「そうとってくれてかまわない、と栗原が」
「そうですか……」
「何難しい顔してんだよ、ガッくん。相手がうちのやつじゃないってわかってよかったじゃん。もっと喜ぼうぜ」
 宇野が気さくに笑ったのを合図に、それまでの張り詰めた空気が日常へと戻るよう。
「それじゃ、取材の続きは来週、日を改めて……」
 今日のアクシデントについて篠ヶ崎の生徒会は現状関与しないが、万が一篠高生に関連する事実がわかったなら、必ず情報提供を。
 約束し合い、会室を後にする。
 事務室の窓口で退校手続きを済ませ、須賀と月島の見送りを受けて、松岡と宇野は雨の街へと踏み出した。
 激しく傘を叩く雨粒を宇野がうっとうしげに一度見上げ、ついで隣を歩く相棒の横顔を見下ろす。
「なんだか、とんでもない一日だったなー。ま、実際、巻き込まれずに済んでよかったけどさ。な、ガッくん」
「……宇野、これがどういうことかわかってるか」
「へ? だから、相手がうちのやつじゃないってことだろ?」
「篠高生を騙(かた)った誰かってことだよ」
「だから、さっきからそう言ってるじゃん。どうしたの?」
 変なガッくん、と笑う宇野を、今度は松岡がじっと見上げる。
「例えば九条に制服がなかったとして、宇野はこの街で堂々と自分を九条生だって偽れるか?」
「制服じゃなきゃ、そりゃ……や、無理だろうな。九条生って、制服着てなくてもたぶん、ひと目でわかる。どこがって聞かれてもうまく答えらんないけど、なんか俺たちとは違ェんだよなー」
「つまり、そういうことだよ」
「そういうことって?」
「今日篠高の名を騙ったのがどこのやつかは知らないけど、そいつらからすれば、俺たちは簡単に名を騙ってなりすませちゃうような程度のもんってことだよ。そうやって濡れ衣を着せたところで困る相手の顔すら浮かばない。この支部内で昔から俺たちがなんて言われてるか、宇野だって知ってるだろ?」
「あー、あれか。特色がないのが特色の篠高生≠チていう……」
「今日、九条会の話を聞いてて、何度も彼らの口から九条生≠チて言葉が出てきた。俺たちの中に自分たちのことを篠高生≠チて呼ぶやついるか? 俺たち、篠高で三年間何やってんだ? 篠高生って、なんだ?」
 そう一息に話し、松岡がくやしげに前を向く。
 今まで見たこともないような相棒の険しい表情に、宇野が目を見張って足を止めた。
「ガッくん……」


 
* * *


 篠ヶ崎の二人を見送り、会室へと戻ってきた須賀と月島。
 扉をきっちりと閉めた後で、ふ、と須賀が一つ息を吐いた。
「今日、一番つらい思いをしたのはもちろん入倉くんだけど、あの二人にもなんだか気の毒なことになっちゃったね」
「でも、いい薬になった」
「そんな言い方は……」
「じゃあ、いいきっかけになった。松岡が探してる答えって、そういうことだろ?」
「…………」
 あくまで淡々とした月島の言葉に、須賀は穏やかな沈黙を答えに代える。
「いい傾向だよ。篠高にはもっと自分たちのことを知ってもらわないと困る。俺たちが困るんだ」
「……どういう意味?」
 形のよい眉をひそめて、須賀がそっと問い返す。
 だが、それには答えずに月島は出窓へと歩み寄った。窓の施錠を確認しながら、低くつぶやく。
「九条生(俺たち)への皮肉、か……」
「え?」
「須賀、俺はあの人のこと……須賀先輩のことを心から尊敬してる」
「……うん、知ってる」
 うなずく須賀の表情を肩越しに振り返り、月島がめずらしくその頬に苦笑を浮かべた。
「おまえのその笑い方、綾井にそっくりだな。さて、と……栗原から何か頼まれてるんだろ? 後のことは俺がやっておくから、早く行けよ」
「うん、ごめんね。よろし……」
 よろしく、と須賀がカバンを手に扉へと向かおうとしたそのとき、再び須賀の携帯電話の着信音がこの場に鳴り響いた。



 
* * *



 雨に煙(けぶ)る九条の住宅街。
 その一角に、景観を邪魔しない瀟洒(しょうしゃ)な看板を出している一軒のクリニック(診療所)。
 『CLOSED(休診)』の札が掛けられた扉の内側、心落ち着く木目で統一された内装の待合室に、屋根を叩く雨音と壁掛け時計の秒針の音が響いている。
「穂積さん、もうとっくに下校時間も過ぎてるし、そろそろ帰ったほうが……」
「平気です。入倉の診療が終わるまで待ってます」
 ソファに座る穂積が栗原の言葉に首を振る。転んですりむいた膝には、白いガーゼが貼られていた。自分がつい先ほど出てきた診療室を心配そうに何度か振り返っては、パーカの胸をぎゅっとつかむ。
 そんな彼女の様子を少し離れたところから見守る恋次。
 と、隣に立つ友人の口から、くす、と柔らかな笑みがこぼれた。
「へえ、穂積って入倉のこと好きなんだ……でも、言われてみればお似合いだね、あの二人」
 つぶやき、微笑ましいような視線を彼女へ向けている。
「……こんなどしゃ降りの日に、なんであんな所にいたんだ?」
 綾井、と。
 呼びかければ、薄茶色の瞳がこちらを振り返る。

『おまえ……どうして、ここに……』
 路地に現れた人影は、寿人だった。
 特にいつもと変わった様子もなく、まるで散策の風情でそこにふらりと現れた相手を、自分たちは呆気に取られて見返すしかなかった。
 そんなこちらの様子を気にするふうもなく、直也の格好に目をやった寿人はすぐに事情を察したらしい。
『俺の知ってるクリニックを紹介するよ。今日はちょうど休診でほかの患者さんと会うこともないし、あのセンセイ、余計なことは何も訊かないから』
 何があったのかとも、誰にやられたのかとも、それこそ何も訊かずに寿人が言った。
『近いのか?』
『うん、ここから歩いて5分くらいかな』
『じゃあ、そこにお願いするか。近くて、なおかつ人に会わなくて済むなら、それに越したことはないからな。須賀には場所だけ伝えれば問題ないだろ』
 栗原の一声で、向かう先は決まった。
『あのセンセイ、休みの日でもたいていここにいるんだよね……あ、もしもし、寿人です。うん、今開けてもらっていい? や、俺じゃなくて友達なんだけど、ちょっと診てほしいんだ』
 ロッジを思わせる木の扉の前で寿人が電話をすると、数分もしないうちに扉の内側のブラインドが上がり、細いガラス窓の向こうの人影が手招きをした。

 そうして今、自分たちはここにいる。
 振り向いた薄茶色の瞳に、苦笑がにじむ。
「帰り道で、なんとなく嫌な予感がしてさ。俺、中学の時にしょっちゅう絡まれてたから、街なかのそういう気配には敏感になっちゃったみたいなんだよなあ。人込みの中に一瞬、入倉の姿が見えてさ。まさかとは思ったけど、気になって……ほら、大事なチームメイトだしね」
「実際、助かったよ」
 寿人が何も言わずに苦笑顔で肩をすくめる。
 その横顔に、知らず訊いていた。
「それくらいの敏感さがないと、そうしてひょうひょうとはやっていけない、か……?」
 すると、つぶやきが返ってくるまでに、少し間があった。
「……そういえば、俺から言ったんだっけ」
「え?」
 聞き返すと、やはり数瞬の間の後で声が返ってくる。
「梅田といると、気が楽って……」
「ああ、聞いたな」
「……俺と梅田が似てるっていうのは、ある意味本当だと思う。でも、決定的に違うとこがあるんだよ」
「決定的に?」
「うん、梅田にはある≠ッど、俺にはない≠だ。あ、見方を変えれば、梅田にはなくて俺にはあるとも言えるのか……」

 ……俺にあって、綾井にはない、か。

 聞いた瞬間にはその意味がわかったような気がしたが、次の瞬間にはもう答えはこの手からすり抜けていた。まるで雲をつかむような、寿人の話。
 けれど、それもいつものことだ。自分にあって寿人にはないもの(あるいは正反対のもの)、それが何なのか、こちらから訊ねてもきっと、今の寿人は曖昧に笑うだけだろう。話したいときがくれば、おのずと言葉になる。寿人は、そういう男だ。
 そう、その右脚に隠された過去をほんのひとかけら、話したときのように――。

 ……かかりつけのクリニック、か。

 そこに自分たち、いや、直也を呼び入れたということは、覚悟の表れなんだろうか。
 すべてをさらけ出して、彼らとともに道を歩いていく、覚悟。
 いや、すべてをさらけ出すかはともかく、始めから何がしかの覚悟がなければ、高2のこの時期にバスケ部へ入部しようとは思わないだろう。そもそも何がそんなに寿人をあのコートの上へと再び呼び寄せたのかは知らないが。
 そこまで考えて、恋次はふっと小さく息をつく。

 ……俺が詮索する必要もないか。

 あれはまだ、寿人がバスケ部への興味など微塵(みじん)も見せなかった春の日。何気ない会話の中で「綾井の一番好きなスポーツは何か」と訊ねたときだった。

『……バスケ、かな』

 体育館の天井を見上げ、降り注ぐライトの光に目を細めながら見せた、とびきりの笑顔を覚えている。
 今、そのバスケとともに日々があるのだ。うれしくないはずがない。楽しくないはずが、ない。
「綾井」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
 自分でも何が言いたいのかわからぬまま、呼びかけていた。
 視界の端で、やはり寿人は曖昧に優しく笑った。
「お、あれ須賀じゃね?」
 栗原の声に入り口を振り返ると、扉のガラス窓の向こうに九条の制服姿の女子が一人、立っている。傘の陰からそっとこちらをうかがう顔が、確かに須賀だ。
 扉を開けに行こうとすると、それより早く寿人が動いた。
「早かったね、須賀さん」
「入倉くんは?」
「今、診療中だよ」
 制服の肩の雫を払いながら入ってきた須賀は走ってきたと見えて、少し息が上がっている。腕に抱えているのは、栗原に頼まれていた着替えだろう。
「大丈夫ですか、須賀さん」
 そっと声をかけると、苦笑顔が返ってきた。
「学校から帰る途中で氷室に会って、言い訳するのに苦労しちゃった」
「氷室さ……」

 ……あ。

 その名前を聞いたとたん、なぜもっと早く思い出せなかったのかと、後悔がこの心を貫いた。

『そういえば、最近他校のやつらがこの辺をうろうろしてるってな。九条会で聞いてるか?』
『他校の生徒、ですか?』
 聞かされたのは、今日の昼。
『わかりました。一応、心に留めておきます』

 あのときの自分の声が、耳に痛い。

「穂積さん、これ、あたしの服でよかったら着て? そのままじゃ風邪ひいちゃうから」
「須賀先輩……あ、でも、こんなかわいいの、汚れちゃうし……」
「そんなの気にしなくていいから。ね」
「それじゃ、洗って返します。ありがとうございます」
 穂積が、それまで着ていた濃紺のパーカを大事そうに胸に抱えた。
「……あれ、入倉のだ」
 隣でぽつり、寿人がつぶやく。
「え?」
「あのパーカ、部活終わった後で、確か入倉が着てたなあと思って」
「ああ、そうだったんだ……」
 そうつぶやき返すやいなや、診療室のドアが開いた。
 先に出てきたのは直也だ。右腕に包帯が巻かれているが、素人目にはそれほど大げさな様子には見えない。
 ソファからパッと立ち上がった穂積が、しかし直也の表情を見て、駆け寄るのをためらった。
「入倉くん、これ……」
 代わりに、須賀が着替えの入った紙袋を直也へと差し出す。
 と、
「それ着替えかな? そうだね、いくらなんでもその格好じゃ風邪を引くから、君、中で着替えてきな」
 後から出てきた女性の医師が、問答無用で直也を再び診療室の中へと押し込んだ。
「さて、と……バスケ部の先輩はいる?」
 先ほどはよくよく姿を見せないまま診療室に籠もってしまったが、こうして見ると驚くほど若い医師だった。
 いかにも利発そうにてきぱきと話す彼女に、寿人が右手を軽く掲げて言った。
「バスケ部は俺だけ」
「そう、じゃあ寿人くんがキャプテンに言ってあげることね。じゃないと、あの様子だとあの子、絶対隠して無理するでしょう?」
「それって……そんなにひどいケガだったんですか?」
 穂積が震える声で訊ねると、医師は表情変えずに首を横に振る。ポニーテールの髪が白衣の背中でさらりと揺れた。
「大丈夫よ。三日もすれば痛みは引くでしょう。ただし、一週間は絶対安静。ボールに触れるのは、それからさらに一週間てとこかしら」
「あの、あさってに試合が――」
「論外ね」
 ぴしゃりと返されて、穂積が息を呑む。
「聞こえなかった? 一週間は絶対安静が必要なの。無理やり出場しようものなら、失うのは目の前の試合だけじゃ済まなくなるわよ」
「…………」
 穂積が唇を噛んで、直也のパーカをぎゅっと抱え直した。
 なぐさめるように、須賀が彼女の背にそっと手をやる。
「寿人くん、いいわね? それと、一度経過を見せるように彼にも一応言ってあるけど、来週ここに来る様子が見えなかったら、無理やり引っ張ってきて」
「……あまり気の進まない役回りだなあ」
 そう苦笑した寿人だったが、嫌だとは言わなかった。
 着替えを終えた直也が診療室から出てきたのは、それから数分後。
「あの、診療代は……」
「今日は休診だもの。それに、かわいい後輩の面倒をちょっと見てあげただけよ」
 お金なんて取れないわよ、と笑う彼女に、思わず恋次も目を見張った。
 え、と声を上げたのは栗原だ。
「後輩って……先生、うちのOGなんですか?」
「その制服を着てたのは、もうひと昔以上も前の話だけどね」
 居並ぶ後輩たちを懐かしそうに見回して、にっこりと彼女は笑った。
 思いがけず世話になった先輩≠ノ礼を言って、皆、診療所を後にする。
「あ、寿人くん……」
 最後に寿人が出ようとしたところで、医師が呼び止めた。そのまま扉のうちで何やら話をする二人を、しばし外で待つ。
 隣に立つ直也をちら、と見れば、何を思うのか睨みつけるようにしてその扉を見ていた。
「入倉、悪かった……」
「あ? なんで恋次が俺に謝るんだよ」
「いや……」
「生徒会の責任だなんだとかいう話なら間に合ってるぜ」
「え?」
「今回のことは、あくまで俺個人が狙われただけだろ。穂積も巻き込んじまったけど……生徒会は関係ねえ。このケガも……自分のことは自分で責任取る。恋次に謝ってもらう筋合いはねえよ」
「入倉……」
「学校の外でまで九条生(俺たち)の行動をいちいち全部背負(しょ)い込んでたら、身がもたねえぞ」
 なぐさめとも突き放しともとれる、直也の言葉。それへ返す言葉を、とっさには思いつけなかった。
 軋む音とともに、診療所の扉が開く。そこからふわり、亜麻色の笑顔が現れた。
「待たせてごめん」
「じゃあ、まあ……今後についての詳しい話は、また明日にしよう。ここでぐだぐだ話してたって、何も結論は出ないしな」
 栗原の言葉に皆うなずき、帰路につく。
「それじゃ、入倉くん、お大事にね」
「あ、洋服ありがとうございました。洗って返します」
 ここ九条が地元の須賀と寿人とは診療所の前で別れ、路線が違う直也と穂積とも駅の改札で別れの挨拶を交わした。
「栗原先輩も恋次くんも、今日はありがとうございました」
「二人ともお大事に。家に着くまでくれぐれも気をつけろよ」
「またな、恋次」
「ああ」
 仲良く並んだ二人の背中が帰宅ラッシュの人波に紛れるのを見送り、栗原と二人、地下鉄の改札へと向かった。
「栗原さん、俺、氷室さんから聞いてたんです」
「何を?」
「最近、他校の生徒らしき人間がこの辺りをうろついてるって……」
「ああ、だからさっき須賀があいつの話をしたときに、恋次は変な顔してたのか」
「変な顔、してましたか?」
「してたよ」
 何かを悔やむような顔をしていた、と栗原が器用に人波を避(よ)けながら言う。
「氷室からそれ聞かされたの、いつだ?」
「今日の昼です。生徒部への報告の帰りに……」
「そんなの、どうしようもないだろ。氷室の話だって抽象的過ぎるし、仮に一週間前に正式に九条会に話が上がってきてたって、今日のことを止められる術なんかなかったと思うぜ、俺は」
「でも、昼休みから放課後までの間に、全校生徒へ注意を促すことはできたはずです」
「恋次、起こった後だから言うわけじゃないけど、きっと結果は変わらないよ」
 栗原の言っていることはわかる。
 これだけ人の多い街で、具体的な情報も何もないまま不測の事態をすべて避(さ)けて通ることなど、土台無理な話。しかも、それが顔の見えない相手の見えざる計画だったとしたら、なおさらだ。
「まあでも、今日のことが氷室の言っているやつらのことだっていう確証もないしな……一応、この土日に活動がある部と、月曜に全校生徒へそれとなく注意喚起しておくか」
 な、と栗原の手に軽く背を叩かれる。
それで少しはおまえの気も楽になるだろ
 その手から、声には出さない彼の言葉が伝わってくる。
「……ありがとうございます」
 ホームへ降りると、ちょうど帰る方向の電車が風圧とともに滑り込んできた。反対方向の栗原へ「お先に」と挨拶をして電車へ乗れば、
「恋次」
 栗原の呼び声が追ってくる。
「完璧な人間だから須賀はおまえを書記に選んだわけじゃないぞ」
 また明日な、と。
 いつもの気さくな笑顔が、閉じられた扉の向こう。


 
* 


 生まれ育った町の空には、ぽっかりと晴れ間がのぞいていた。雲は多いが、傘を差して歩く人の姿はない。九条の街を激しく濡らし、灰色に塗りつぶしたあの雨雲の群れが、じきにここへもやってくるのだろうか。それとも、地下鉄に揺られている間に通り過ぎたのか。
 湿気の匂いと、夕方の人のにぎわいの混じり合った商店街を抜けて帰り着いたわが家。その表門をくぐったとたんに、どっと疲れが全身にのしかかる。
「ただいま」
 玄関の戸を開けると、奥の台所から母が顔を出した。
「おかえりなさい。今日は遅かったのね、恋次。あのね、部屋に……」
 母の言葉を最後まで聞かずに、階段を上る。
 自室の扉を開けると、思わぬ来客の姿があった。
「おかえり、恋次」
「実月……」
 電気のついていない部屋で、ベッドに腰掛けた幼なじみが窓の向こうの夕暮れの町を眺めている。
「何かあったのか」
 カバンを床へ投げながら訊ねれば、琥珀色の髪を揺らして彼女が振り返った。
「用がなきゃ来ちゃいけない?」
 漆黒の瞳でまっすぐに見上げられ、恋次はす、と目をそらす。彼女の視線から逃れるように背を向け、ネクタイの結び目へと指をかけつつ、ため息混じりにつぶやいた。
「今日は一人になりたい」
「恋次のほうこそ何かあったの?」
「……男の部屋に勝手に入るなよ」
「何それ、今さら……あっ、わかった! 見られたくないものでもあるんだ」
「…………」
「へへぇ〜、恋次がね〜。このベッドの下とか――」
「いいから帰れ!」
 己の口から飛び出した声の大きさに、はっとわれに返る。
「あ……悪い……」
 振り返って謝ったが、実月はベッドの上から動かない。こちらを見返す驚く顔に、しだいに拗ねた色がにじみ出す。
 恋次は解いたネクタイを床へ放すと、同じベッドの端にそっと腰掛けた。
「ごめん、実月」
 もう一度謝れば、相手は何も言わずに抱きついてくる。幼い頃から変わらないその温もりを正面から受け留めた。
 一つ二つ、深い呼吸を数えれば、波立っていた心が少しずつ静けさを取り戻していく。
「何か話があるなら聞くよ」
「……話を聞いてもらいたいんじゃない。恋次に言ってほしいの」
「言うって、何を……ッ!」
 訊き返したとたん、背中に鋭い痛みが走る。
「痛ッ……おまえ、爪立てるなよ……」
 まるで、わからないそっちが悪いとでも言うように、シャツの背中にきつく食い込む彼女の爪。
「実月、放せ」
 無理やり体を離そうとしたが、彼女はしがみついたまま。
「……実月?」
 この胸に顔を埋(うず)めて見えないその表情が、ふと泣いているように見えて、恋次は肩の力を抜いた。そのまま彼女の背に腕を回してそっと優しく抱き寄せれば、この背の痛みもふっと和らいだ。
 窓の向こうの夕空が、やがて夕闇に染まっていく。
 言葉もなくそうして二人抱き合っていると、聞き慣れた足音が階段を上ってきた。
「実月、母さんが来る」
「……月は、いつも満ちてるわけじゃないんだからね」
 だんだん欠けて、そのうち消えちゃうんだから……。
 ぽつり、つぶやいた実月が、じっとこの顔を見上げたかと思うと、最後に一度、額をこの肩に寄せた。ふわり、彼女の香りが鼻の先をくすぐり、逃げていく。
 実月がベッドから立ち上がったのと、この部屋の扉がノックされたのは同時だった。
「実っちゃん、恋次、ごはんよ。あら、こんな暗い部屋でおしゃべりしてたの? 目を悪くするわよ」
「おばさん、ごめんね。今日はあたし帰ります。慶(けい)をお風呂に入れてあげる約束なの」
「あら、久しぶりに実っちゃんと一緒にお夕飯食べられると思ったのに、残念だわ……でも、慶太くんが待ってるんじゃ、お姉ちゃんを引き留めるのはかわいそうだものね」
「また今度、慶も一緒に連れてきていい?」
「もちろん、龍ちゃんと三人で遊びに来てね。いつでも大歓迎よ」
「またね、恋次」
 にこ、と笑顔を残して、実月が廊下の灯りの向こうへと消えていく。
「あなたも早く来なさいね、恋次。ごはん冷めちゃうわよ」
「着替えたら、すぐ行くよ……」
 静かに扉の閉められた部屋のうちで、恋次は一人、己の両手をじっと見下ろした。


 
* 


 食後の自室。
 窓を開けると、とたんに湿気た風が髪と肌にまとわりついた。
 あの雲の向こうに姿を隠すのか、夜空に月は見えない。
 そのまま風に吹かれていると、ビン、と生温い空気を切り裂くような音が聞こえてきた。
「師範の弦音(つるね)……」
 梅田家の嫡男として的前に立つことを許されたその日からこれまで、一日も鍛錬を欠かしたことはない。
 けれど――

 この夜、的前に立つことを初めてこの心が、拒んだ。





To be continued.
劇中時間 06/13(Fri)





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