LESSON 8 : 日への(さざなみ)





「――なるほどな、だいたいのことはわかった。で、どうする?」
 栗原が簡潔に問う。
 早朝の生徒会室には数瞬、重苦しい沈黙が流れた。もしも雰囲気に目に見える色があるなら、今のそれは空に垂れ込めた雲と同じ灰色だろう。
 恋次は淹(い)れ直したばかりの紅茶をそっとテーブルに置く。
「伊藤さん、おかわりどうぞ」
「サンキュ、梅田。でも、このあとすぐ練習だから」
 そう断るバスケ部マネージャーの彼には、いつもの柔和な笑みがない。苦い顔つきで額を掻くと、
「どうするったってなあ……そりゃ、よくもうちのエースをこんなにしてくれて、とは思うよ……」
 迷うようなまなざしを、右隣に座る相棒へ。だが、その相棒は先ほどから腕を組んでじっと黙ったままだ。彼から今は何も言葉を期待できないと悟ったのか、今度はかばうようなまなざしを左隣に座る後輩へと、そっと向ける伊藤。
 肌寒かった昨日とは違い、少しの蒸し暑さを感じる中で一人、長袖姿の直也。当事者である直也もまた、昨日の出来事を不器用ながら語った後は、きゅっと固く口を閉じ、テーブルへと視線を落としている。
 そんな友人の横顔を見て、恋次はわずかに眉根を寄せた。

 ……やけに大人しいな。

 悔しさはもちろんあるだろう。練習試合とはわけが違う。大事なインターハイ予選の4回戦、それも相手はシード校という大一番に出場できなくなったのだから。けれど、自分をそんな状況に追い込んだ相手への憤りというものが、その横顔からは読み取れなかった。今の直也は、ただ何かをじっと考えているように見える。
 こちらと同じように直也の横顔を見つめていた伊藤が、ふ、と小さく息をついた。
「……やっぱり三高、なんだろうな」
 ややこしいことになったな、とつぶやき、再び額を掻く。
 この生徒会室で直也が語った話から、昨日起こったことのだいたいは理解できた。

『――それじゃ、彼らは篠高に対して何か含んだものがあるわけじゃなくて、勘違いした入倉くんの都合のいい言葉に乗っかっただけ。そうなるのかな』
『……たぶん』
『だよなー。時代劇の仇討(あだう)ちじゃあるまいし、そんなときにわざわざ自ら素性を明かす必要なんてないもんな』
『でも、そこで入倉くんが違う≠ニ思ったのは……つまり、彼らを篠高生だと思わなかったのは、どうして?』
『……俺を山猫≠チて呼んだから』
『え?』
『俺のことを猫だの、猫目だの言うやつは多いけど……山猫≠チて呼ぶのは、俺のプレーをその場で見たやつだけなんです。今までの経験上……』
 山猫。
 その一言を発するときだけ、直也の表情にも口調にも熱がこもっていたように思う。
 そして、
『ああ、そういうことか』
 納得だ、とうなずいたのは伊藤と如月。実際にその姿を誰より知るチームメイトの彼らだけがうなずいたことが、きっと、直也の言葉――勘といったほうが正しいかもしれない――を裏付ける何よりの証だろう。
『篠高にはバスケ部ってなかったよな、伊藤』
『うん、同好会は一時あるとかないとか聞いたことはあったような……まあ、でも公式戦はもちろんだけど、うちは一度も篠高と試合したことないよ』
『それと……あの試合の後で同じように誰かに見られてたのを、尾行けられてるときに思い出して……』
『あ、それは俺も覚えてる。試合が終わって三高から帰るとき、やたら入倉きょろきょろしてたっけ。入倉直也ファンクラブでもできたんだろって岡田たちがからかってたから、俺も気にも留めなかったけど……実際、あの試合では入倉はダブルダブル
(※1)の大活躍だったしな』
 大活躍だった、と言葉とは裏腹の伊藤の苦笑顔。それを間に挟んで、如月のポーカーフェイスと直也の思案顔が並んでいた。

 今もテーブル越しの三者三様の表情を眺めて、栗原が「うーん」と一つ伸びをする。
「光る石を拾い集めてたどり着いてみたら、そこはお菓子の家ならぬ三高のバスケ部(・・・・・・・)でした、か――」
「あの」
「ん?」
「あ……いえ、なんでもありません」
「なんだよ、恋次。言いかけといて途中でやめるなよ。気になるだろ」
「すいません……」
 何か知ってるのかと問われて、恋次は首を横に振る。知っていることなど何もないに等しい。とっさに口を挟んだものの、形にするだけの言葉をやはり今はまだ持ち合わせていなかった。ただ覚えたのは、違和感。あのときの直也は確かに言いかけていたような――。
 そっと直也の横顔をうかがうと、意外にも目が合った。が、相手はすぐにまたテーブルへと視線を落とす。
「おーい、恋次?」
 怪訝な顔の栗原に呼ばれ、恋次は微笑を返した。
「なんでもないです。進めてください」
「んじゃ……実際、ここらで他校にちょっかいかける子どもじみた高校生なんて、三高生以外思いつかないんだけど……」
「証拠がない」
 静かに、けれどはっきりとした口調で月島が言った。
 とたんに、部屋のうちにはいくつものため息がこぼれ落ちる。
「そうなんだよなー。入倉、相手は4人だっけ? 全員とも私服だったんだろ?」
「……はい」
 栗原の問いに、ほんのわずかの間を置いて直也がうなずく。
「ほかに何か気づいたことはなかったのか? これぞ三高生、みたいな特徴的な外見のやつがいたとか。あとは……たとえばバスケ部だったら、手首にミサンガつけてる、とか……背が高い、とか」
 恋次は思わず苦笑する。
「栗原さん、世の中にはバスケ部じゃなくたってミサンガをつけてる人も、背が高い人もたくさんいますよ」
「俺もそう思うけどさ、たまたま目の前にお手本がいたから言ってみた」
「お手本=H」
 恋次は須賀と月島と顔を見合わせ、栗原の視線を追う。
 扉を背にし、テーブルの奥に座る如月が一つ咳払いをした。口元にやった右手の手首には、鮮やかな色が散りばめられたミサンガ。
「ははっ、確かに」
 お手本≠ニは主将冥利(みょうり)に尽きるよな、と伊藤がようやくいつもの笑顔で相棒の脇腹を肘でつつく。
 と、
「……バスケ部は関係ねえ」
「え?」
 つかの間和んだかに思えたこの場の空気を再び震わせたのは、直也の声だった。
「俺たちは関係ないって……現に、おまえはこうやって大事な利き腕を怪我させられてるわけだろ。心配するチームメイトを前に関係ない≠ヘないんじゃないのか」
「あ、いや、伊藤さん、そういう意味じゃなくて……」
「三高のバスケ部は今回のことに何も関わってないって言いたいのか」
 如月の低い声に、直也の肩がわずかに揺れる。
「……はい」
「だけど、さっきは――」
「三高だとは思う。さっき自分が言ったことは否定しねえ……しません。でも、あいつら試合中に見た顔じゃなかったし――」
「ベンチ入りできる人数なんてたかが知れてる。それならギャラリーで見てた部員かもしれない。入倉だって、そこにいる一人ひとりの顔までは覚えてないだろ」
「ギャラリーなら、部員じゃなくても入れるし……」
「仮に部員以外の三高生だったとしても、バスケ部が自分たちと関係ないと思わせるために仕組んだことかもしれない」
「それは――」
「もし、バスケ部と関係ない三高生がたまたま見た試合の結果が不満でそんなことを思いついたんだとしたら、よほど間違った愛校心の持ち主か……」
「……ただの憂さ晴らし、かも……」
「口挟んで悪いけど」
 三人のやりとりをテーブル越しに眺めていた栗原が苦笑する。
「だからって、入倉が理由もなく他校生から恨みを買うようなやつには見えないよ。無愛想だけど親切で真面目なやつだって知ってるさ。如月が一番言いたいのはそういうことだろ?」
「…………」
「それとも、入倉は何か身に覚えがあるのか?」
「そういうわけ、じゃ……」
 歯切れの悪い直也の言葉を遮るように、隣に座る伊藤が大きく息をついた。いや、後輩への助け船かもしれない。
「入倉の言ってることも、わからなくはないよ」
「伊藤さん……」
「さっき月島が言ったように、何も証拠がない以上、結局ここで何を話したって堂々巡りなんだよな……だからこそ、栗は始めにどうする?≠チて訊いたんだろうけど」
 そこで一度口を閉じると、バスケ部のマネージャーは隣に座る主将の横顔を仰ぐ。
「どうする?」
「…………」
 主将から返ってくるのは、沈黙。
 恋次はそっとこの場を見回した。皆、じっと息を潜めるようにして如月の返答に耳を澄ましている。
九条会は提案しない。バスケ部が自ら考えた答えを待つ。
 それは今朝、直也たちがこの会室にやってくる前にすでに決められていたことだ。
 如月の目が、ちら、と直也の横顔へと向けられる。後輩を見つめるその目には驚くほど迷いがなかった。
 彼はその目を一度閉じたかと思うと、生徒会長である須賀へとまっすぐに向き直って言った。
「俺たちは関与しない」



* * *



「如月さん、あの……すいませんでした」
 静かに閉められた会室の扉。
 体育館へと向かう西階段に一歩足を置いたところで如月が肩越しに振り返る。
「チームメイトへの言い訳は自分で考えとけよ」
 放られた言葉に、直也は勢いよく顔を上げた。
「言い訳なんていらねえ。涼星戦には出ます」
「本気で言ってるのか」
「たった40分くらいガマンできます」
「バカ言うな。そんな怪我してるとわかってるやつを試合に出せるわけないだろ」
 一週間は絶対安静だろ。
 そう言い捨てた後は、振り返らずに如月は伊藤とともに階段を下りていく。
 残された直也は唇を噛み、左手で己の右腕をぎゅっとつかむ。そのまま階段を下りていくと、とっくに先へ行っているはずの伊藤が踊り場で待っていた。
「痛むか」
 優しい問いに、直也は黙って首を横に振る。
「出れます」
 伊藤の頬に苦笑が浮かぶ。
「アップ始めるまでにはまだ時間があるか……」
 腕時計に目を落とし、歩き出した伊藤が、ついてこいとでも言うように一度振り返った。
 直也は無言で後に続く。
 体育館のある3階も通り過ぎ、伊藤の足が向かったのは2階。すぐ右手にあるガラス戸を押し開け、湿気た生温い風に吹かれる学食のテラスに出たところで、ようやく彼の足が止まった。
 平日の昼ならば勝手知ったる生徒たちでにぎわうこの場所も、休日の土曜、それも早朝となれば数える人の姿などない。
 こんな天気でもやっぱり朝の空気は気持ちがいいな、と伊藤が灰色の空へ伸びをする。
 手すりの向こう、眼下に広がる都立公園の緑に直也は知らず顔をしかめた。
「如月には言いづらくても、俺になら本当のこと言えるだろ」
「え?」
「ほら、入倉も伸びをしろ。違う、もっと思い切り……はまずいから、右は痛くない程度にな。いくぞ、せーの!」
 言われるまま、直也は腕を空へと突き上げる。意味が分からずに目を白黒させていると、伊藤がにこ、と微笑んだ。
「少しは肩の力抜けたか? その胸ん中にしまってあるもの、一人で抱えるより二人で分けたほうがラクだろ」
「伊藤、さん……」
「今回のこと、本当は三高のバスケ部と全く無関係ってわけじゃないんだろ?」
 直也はゆっくりと両腕を下ろすと、今は長袖の下に隠された右腕の傷をじっと見つめた。
 頑(かたく)なだった後輩の心の扉が開くのを、伊藤は急かすことなく微笑を絶やさずにじっと待っている。
 やがて、
「……ボールを、拾ってくれたんです」
 つかの間公園の木々を激しく揺らした風が、やんだ。



 体育館棟と校舎3階の廊下を隔てるガラス戸を、如月の手が押し開ける。そのまま更衣室へ向かおうとした如月が、ふと足を止めた。まだ誰も来ていないはずの体育館から物音がする。半分開いたままの戸からそっと中をのぞいて、如月はわずかに目を見張った。
「綾井……」
「あ、如月さん。おはよう」
 電気もついていない体育館でモップを片手に振り返ったのは、寿人。主将への挨拶にしてはくだけた口調で笑顔を見せた後は、すぐにその背中が倉庫の中へ消える。
 窓から射し込むのは曇り空の鈍い光。その下で見てもピカピカのコートを、如月の足がそっと踏みしめる。
「ずいぶん早いな」
 モップを片づけ戻ってきた後輩を、そんな短い一言が労った。
 寿人は肩をすくめて笑う。
「一応、俺新入部員だし」
「1年だってまだ来てないぞ」
「そりゃ、同じ時間に家を出れば、徒歩15分の俺のほうが早く着くだろ」
 にっ、と薄茶の瞳を茶目っ気に輝かせて、主将の言葉をやんわりとかきまぜる。
「如月さんこそ早いね」
「一応、主将だからな」
 真顔の相手のらしくない冗談に、寿人は一度目をきょとん、とさせて笑った。
 すれ違いざま、綾井、と低い声音が呼び止める。
「……昨日は知らせてくれて、助かった」
「入倉には思い切り恨まれそうだけどなあ。手負いの山猫に噛みつかれそうになったら、如月さんが助けてくれる?」
「よく素直に俺に報告したな」
「そりゃ、あいつに潰れてほしくないからね」
 さらりと返された言葉に、如月が再び目を見張る。が、続く言葉には苦笑した。
「それに、頼まれたことだから」
「……その台詞に妙に聞き覚えがあるのは気のせいか」
 肯定も否定もせず、寿人も再び肩をすくめてみせる。
「アップまで時間あるから、俺、下でミルクティーでも飲んでくるね。如月さんは?」
 如月は黙って首を横に振った。
 それじゃ、と歩き出す寿人の横顔を、低い声音が再び呼び止める。
「綾井、おまえも……いや、なんでもない」
 言いかけた主将の横顔をちら、と見て、薄茶色の瞳は何も言わずに体育館を後にした。
 静かなコートに如月のつぶやきがぽつり、こぼれ落ちる。
「潰れてほしくない、か…………それは俺の台詞だ」


 人けのない廊下を歩く寿人のサンダルが、ペタペタと無邪気な歌を響かせる。と、西階段から上ってくるスニーカーの不揃いな足音がそれに加わった。
「あ……おはよ、入倉」
 相手から返ってきたのは、短い舌打ち。そのいつものしかめ面に続いて、柔和な笑顔が踊り場に見えた。
「早いな、綾井」
 直也が体育館へと入っていくのを見送り、ちょうどよかった、と伊藤が手招き。
 呼ばれるまま寿人もともに階段を下り、二人が向かったのは校庭の西にある部室棟。
 部員全員で使用するには狭すぎるこの部室は、今日もほかの部員の姿がない。
「痛むか?」
「あんまり」
 途中、寄り道して買ったミルクティーの缶を片手に窓際のベンチに腰を下ろして、寿人は窓の外へと目を向けた。湿気て生温い風の中、早くも集まり始めたサッカー部員たちの姿が見える。
「お、ずいぶん気合い入ってるな、サッカー部」
「そうだね」
 手早く右膝にテーピングを施す伊藤のされるがままになりながら、
「ごめんね、伊藤さん」
「え?」
 謝れば、手を止めて伊藤が顔を上げた。
「俺、入倉が三高に対して熱くなってるの知ってたんだけどさ……」
 大会前に、三高にだけは負けられない、と入倉が自分の前で息巻くのを聞いていた。入倉と三高の間に何があったのかは知らないが、もしかしたら未然に防げたことだったかもしれない、と。
 後悔する風でもなく、無関心を装うでもなく、ただ静かに寿人は語ると、微苦笑を頬ににじませ、わずかに肩をすくめた。
 そんな後輩の顔から己の手元へと視線を再び落とし、伊藤の頬にも苦笑が浮かぶ。
「綾井のせいじゃないよ。今、自分で言ったろ。あいつと三高の間に実際に何があったのかは知らないって。知っててケアしてやれなかったのは、俺のミス。綾井が気にすることはないよ」
「伊藤さんは知ってたの?」
「知ってたも何も、あの日、後始末をしたのはこの俺だからな」
「へえ……」
「そのすぐ後で、誰かさんとの因縁にも立ち会わせられたっけ。長い一日だったよ」
 一瞬の間を置いて、軽やかな笑い声が静かな部室に響き渡る。
「ああ、そっか……あの日か。じゃあ、本気の山猫にケンカふっかけるにはベストタイミングだったんだ、俺……あのとき、ずいぶん待たされた甲斐があったなあ」
「さあな、それは俺にはわからない。ただ……」
 伊藤が目の端にかかる前髪をかきやる一瞬、しん、と短い静寂が室内に降りた。
 言葉の続きを急かすでもなく、寿人は働き者のマネージャーの手をじっと見つめている。
 やがて、
「今こうして綾井と一緒にバスケができて、俺はすごく楽しい」
 朗らかな笑顔で紡がれた言葉に、寿人は何も言わずに小さくうなずいた。
「……うん」
「だからって、これ以上妥協はしないぞ。昨日言ったとおり、明日の試合で綾井を使うのは10分だけ」
「これだけチーム事情が変わっても?」
「何も変わっちゃいないよ。おまえたちには、まだ先がある。綾井にも、入倉にも。だから、俺たちがしなきゃいけないこともこれまでと何も変わらない」
「俺たち=H」
「ああ、俺たち3年の仕事は後輩の未来に種を蒔(ま)くこと……」
 懸命に伸びようとする芽の土になること。水になること。そして、光になること――。
「……なんてかっこつけるのは、引退してからにしようと思ってたんだけどな」
 苦笑した伊藤がいつもよりも音を立ててテーピングの道具を片づけ始めた。
 校庭では先ほどよりも人数の増えたサッカー部員たちが思い思いに準備運動を始めていた。なにやらゲームでもしているのか、一人、また一人とその輪に連なる顔が増えるたびに、笑い声が上がっている。にぎやかなその音につられるように、寿人も再びガラスの向こうへと視線をやった。
「明日、勝てるといいね……」
「ああ、勝つさ」
 後輩の言葉に優しく、そして力強く3年生はうなずく。
「先、行ってるぞ、綾井」
「うん……俺、もうちょっとだけここで風に当たってる」
「体冷やすなよ」
 うん、と素直にうなずく声が聞こえたような、聞こえなかったような。
 静かに閉めた部室の扉を背に、伊藤が一つ大きな息をつく。そうして手をやるのは、Tシャツの胸。代々3年生部員だけが着ることのできる練習用の揃いのTシャツ、そこに刻まれた『KBC』のロゴをぐっと握りしめて、
「俺たち3年の仕事は後輩の未来に種を蒔くこと……」
 今しがた寿人へ語った言葉を、再び自分へと言い聞かせるようにつぶやいた。
「……だよな、兄貴」
 ぽつり、人知れずこぼれた言葉に、はっと自分自身で驚いて、けれど伊藤が次に頬に浮かべたのは穏やかな微笑だった。
 そうして、扉に背を預けたまま思い返すのは、テラスでの先ほどの直也との会話だ。

『……ボールを拾ってくれたんです』
『ボール……入倉がいつも持ってる、あの傷だらけのボールか。拾ってくれたって、ケンカの最中にそいつらが?』
『……後から来た一人が、です』
『ちょっと待て、それじゃ実際は相手は5人いたってことか?』
『いや、俺を尾行(つ)けてたのは4人です。その一人は、たぶん偶然通りがかっただけだと思う。制服着てたし……』
『そいつが、バスケ部員だったのか』
『……はい』
 その人は制服の袖が汚れるのもかまわずに、拾い上げたバスケットボールの泥を懸命に拭ってくれていた。そしてその人がこちらに気づいて呼びかけた瞬間、目の前の相手が見るからに慌て出した。残りの三人も羽交い締めにしていた自分を思い切り突き飛ばして、逃げるように彼らは駆け出していった。アスファルトに突っ伏した自分が顔を上げたときにはもう彼らの姿はなく、ボールだけが一つ水たまりの上に残されていたのだ、と。
『制服を見れば、そりゃ三高生かどうかはすぐわかるけど、よくそんな一瞬でそいつがバスケ部だって、わかったな』
『……マッチアップの相手だったんで』
『入倉とマッチアップ……あの小さなPG(ポイントガード)、か……声をかけられて逃げ出したってことは、少なくともその4人には一応バスケ部をかばうつもりがあったっていうことだよな。普段、制服を着てようが着てまいがかまわずに悪さしてるやつらが、昨日だけは用意周到に私服だったんだろ。わかった……とりあえず、この話は預かっておく。ほかに話しておきたいことはあるか?』
『……迷惑かけて、すいませ――』
『謝らなくていい。その代わり、明日は全力で仲間を信じろ。今までお前独りで戦ってきたんじゃないんだ。俺の言ってること、わかるよな?』
 つまり、おまえも信頼されてるってこと。
『信じて、あいつらの背中を押してやれ』

 小さくうなずいた後輩の表情を思い返して、伊藤はもう一度Tシャツの胸に手を当てる。ふっと息をつくその顔に、優しい微笑。
「なんでこうも揃いもそろって、不器用なやつばっかりなんだか……」
 部室棟を出た伊藤の目に、渡り廊下の横にある水道で顔を洗う如月の姿が映る。
「……なるほど、素直に言葉にできないのは主将譲りか。いや、単に性格の問題かな」
 わざわざこんなところまで下りてこなくとも、水道なんて校舎内にいくらでもあるだろうに。
 顔を上げた如月が、すぐに気づいて歩み寄ってくる。如月の口が何かを聞こうとする前に、伊藤はにっと悪戯に笑った。
「俺たち幸せだな」
「え?」
「手のかかる後輩たちを持って、さ」
「まだまだ安心して引退させてはもらえない、か……」
 めずらしくそう冗談めかして応じた如月が、すぐに表情を引き締める。
「明日は勝つぞ。なにがなんでも」
「ああ」
 勝とう。
 また一つ先へ進むために。
 後輩の未来のために――。
 ちら、と部室棟にまなざしをやった主将の背を、伊藤の手のひらが力強く押した。


 その部室棟のうち。
「ナオを守ってやってくれ、だっけ……」
 校庭のサッカー部員たちを眺めながら、寿人がぽつり、つぶやいた。
「あんなに頼まれてたのに……清宮(きよみや)との約束、全部守れなかったなあ……」
 寿人はそれまで細く開いていた窓をそっと閉めると、窓ガラスにコツンと額を預け、一度目を閉じた。
 サッカー部員たちの活気に満ちた笑い声が窓ガラスを震わせる。その振動で、テーブルに置かれたミルクティーの缶から立ち上る湯気が、ふわり、揺れた。
 頼りなげなその動きをしばし見つめていた寿人が、ジャージのポケットから何かを取り出す。そっと缶の隣に置いたのは、携帯電話だ。ベンチの上で抱えた右膝に細い顎を預け、少しの間考えるように薄茶色の瞳でじっと携帯電話を見つめている。
 やがて、手に取ったそれをゆっくりと左耳に押し当てた。聞こえる発信音が切り替わるのを待って、一つ息を吸う。
「……匡兄(まさニィ)? 仕事中にごめん。うん……あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」


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(※1ダブルダブル・・・バスケットボールの1試合で、一人の選手が5部門――得点/アシスト/リバウンド/スティール/ブロックショット――のうち、2部門で2桁を記録すること)



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