* * *


「さーて……お楽しみはこれからだよ、山猫くん」
 昏(くら)い光を宿した灰色の瞳が、一歩迫る。
 圧(お)されて一歩後じさりながら、直也は背にかばう穂積へとささやいた。
「俺がこいつらを引きつけるから、おまえはその隙に逃げろ」
 逃げたら振り返らずにまっすぐ駅まで走れよ。駅に着いたら、俺を待たずになるべく人の多い電車に乗れ。
 わかったな、と念を押して振り返ると、肝心の相手の姿がない。
 と、
「入倉に何の用? 言っとくけど、入倉はもうすぐ試合があるから忙しいの。話があるなら、あたしが聞いてあげる。それが嫌なら一年後に出直してきて」
 気づけば、かばわれているのは自分のほう。
 穂積が両腕を広げて前に立ち、灰色の瞳の少年をまっすぐに睨んでいる。
「な……何やってんだよ!」
「だって、入倉はケンカご法度でしょ? あたしは部活やってないから平気だもん。それに、小さい頃弟と一緒に空手道場に行ってたんだ。だから安心して」
「そういう問題じゃ――」
 そういう問題じゃねえ、と穂積の腕をつかんで引き寄せようとするのを、低い笑い声が遮った。
「くくっ……あははっ……彼女、度胸がいいね。おもしろい。山猫くんの彼女じゃなけりゃタイプなんだけどな」
 残念、と。おどけて肩をすくめる灰色少年に、周りの仲間もつられたように笑う。
 細い路地に響く笑い声が雨音と混ざり合って奏でる不協和音。
 顔をしかめてそれに耐えていた直也の耳の奥で、ふと、それまで繰り返し聞かされた単語が水に沈められた氷のように浮かび上がった。

 ――山猫。

 唐突に浮かんだ疑念を口にするより早く、灰色少年が穂積へと向き直る。直也はとっさに彼女の腕をつかんで引き寄せると、自分の背中と建物の壁の間にかばい込んだ。
「かっこよくナイト気取ってるとこ悪いんだけどさ、俺たち用があるのは山猫くんだけなんだ。彼女を傷つけるつもりはないから安心してよ」
「……絶対だな」
 うなずく代わりに灰色少年が、直也の背後をふさいでいた仲間二人へと視線をやる。二人は道を開けるように反対側の建物の壁際へと寄った。
「……行け、穂積」
「イヤ。入倉を置いて一人だけ逃げるなんて」
 頑としてうなずこうとしない彼女に、直也はわずかに笑ってみせた。
「これくらいの状況、なんでもねえ。慣れてるから」
「嘘」
「嘘じゃねえよ。それに、どうせ……」
 どうせ、こいつらだって手出しはできないはずだ、と唇の端で低くつぶやく。
「いいから走れ」
「…………」
「早く!」
 びく、と肩を震わせた穂積が、心配顔を残して少しずつ後じさる。やがて、くる、と背を向け走り出した彼女の足音もすぐに雨音がかき消した。
 細い背中が見えなくなったとたん、たちまち前後をふさがれる。
「俺たちが手出しできないって、どういう意味?」
「おまえら本当に篠高か?」
「…………」
 反対に問い返せば、灰色少年の顔から笑みが消えた。
「篠高じゃなかったら、なんだって?」
「……おまえら、三高のバス――」
 ガシャン、とガラスの割れる激しい音が、直也の言葉を飲み込む。
 路地の端に積まれていたビール瓶(びん)の箱を少年の一人が蹴り倒したらしい。砕け散った瓶の欠片(かけら)がアスファルトの上で鈍く光っている。じゃり、とその欠片を踏みしだいて、灰色少年が一歩近づく。
「…………」
 少年を睨み上げたまま直也が一歩後じさると、ドン、とすぐに背中が人影に突き当たった。そのまま後ろから右腕を逆(さか)ねじに取られて、思わず痛みにうめく。
「あいにくと、俺たちの辞書にはご法度≠ネんて文字は載ってなくてね」
「一年も待ってたら意味ねーし」
「くっ……!」
「おっと……」
 思い切り身をよじったが、相手の手は離れない。代わりに、スポーツバッグが肩からアスファルトへと勢いよくずり落ちた。盛大に跳ね上がった水しぶきが、正面の灰色少年の頬を汚す。不愉快そうに己の肩で頬を拭った少年が、ふと腰を屈めて何かを拾い上げた。
 その手にあるのは、泥で汚れたバスケットボール。
 毎日持ち歩いている、大事な相棒。バッグが落ちたときにネットから外れたのか、今は見知らぬ手の中で心細げに雨に打たれている。
「返……」
 伸ばした左手が、届かなかった。それをどうするつもりだ、と直也は少年を睨み上げる目に力を込めた。
 が、相手は興味のないまなざしを一度くれただけで、そのボールをすぐさま自分の肩越しに放り捨てる。ボールの行方をちらとも見ずにこちらの顔を眺めた灰色少年が、笑った。
「なに泣きそうな顔してんの。山猫くんがそんな顔すんのはズルくねー? ……先に奪ったのは、そっちのくせに」

 激しい雨音が、いつしか愛しい波音にすり替わる。
 遠ざかるボールに、一つの優しい面影が重なる。

『ナオ』

 青いジャージの背中。
 茜空に透ける亜麻色の髪。

『ナオ、俺は行くよ。ずっと上まで、行くよ』

 振り返って優しく笑う薄茶色の瞳。

『ナオと俺、どっちが先に着くか競争だな』

「……キヨ」
 四年かかって、ようやく親友(アイツ)を追う覚悟ができたのに。
 いつか同じ頂(いただき)に立つと、約束したのに。
「こんな、ところで……」
 こんなところで道を閉ざされてたまるか――。



 
* * *



 傘が役に立たないようなどしゃ降りだった。
 まだ陽が落ちる時間でもないのに、全天を厚い雨雲に覆われた街は薄暗い。
 駅へ向かうのをあきらめた人でごった返す店々。
 反対に、歩く人の姿のほとんど見えない通りを息つく間もなく駆けた。にごった水たまりを蹴散らし、延々と続くタクシーの列を追い越していく。
「恋次くん、そこ右!」
「わかった」
 前を行く栗原へ次の角を右に折れるよう伝えながら、恋次は背後を気遣う。
「大丈夫か、穂積」
「あ、あたしは、大丈夫、だから、早く……」
 入倉を助けてあげて、と。濃紺のパーカの余った袖をぎゅっと握りしめ、穂積が懸命に走っている。

『――入倉が?』
『うん、なんか今日、ずっと尾(つ)けられてたみたいで……』
『だとすると、計画的ってことか。偶然街で出会って絡まれたわけじゃないんだな?』
『たぶん……入倉のこと知ってるみたいだったし』
『入倉は相手のことは?』
『知らないと思う』
『どこの生徒かわかるか? どんな制服だったとか』
『私服だったよ。確か篠高って――』
 穂積がもたらした思わぬ知らせに、一瞬、部屋の空気が凍りついた。
『――ええっ?』
『そ、それ、マジな話っ?』 
 すっとんきょうな叫び声を上げた二人を穂積が不思議そうに見やり、けれどすぐにこの腕にすがりついてきた。
『お願い、恋次くん! 入倉を助けて!』
 冷たく、泥にまみれた彼女の両手が、ただ事でないと告げていた。
 迷わず椅子を蹴った栗原がドアノブへと手を伸ばすと、背後で慌ただしく松岡と宇野が立ち上がった。
『お、俺たちも行きます!』
『ダメだ。このことは二人には関係ない』
『でも、栗原さん、もし本当に――』
『仮にそう(・・)だったとしても、今日ガッくんたちがここに来たことと、このことは全く別問題だ』
『あ……』
『須賀と月島は二人とここに残ってくれ。それで下校時間になったら、普通に帰る。わかったな』
『わかってる。こっちのことは任せて』
『事実がわかったら、すぐに連絡するから。行こう、恋次』
『はい。穂積はここに――』
『あたしも行く! 恋次くんたち、場所わからないでしょ。それに、今あたしがあいつのそばを離れちゃダメなの! ううん……』
 そばにいたいの――。
 つぶやく彼女の瞳に、強い光が宿っていた。

「穂積さん、ここはまっすぐっ?」
「あのシャッターのとこ、左ですっ! そこで……」
「OK!」
 俊足の栗原が先に駆けていき、休業中の商店の角を左に折れる。
 栗原の姿が路地に吸い込まれるのを見ながら、恋次は辺りの様子をうかがった。が、激しい雨音がすべての気配を遮断するよう。

 ……穂積が会室に飛び込んできてから、5分ちょい。穂積が学校まで走ってくる時間を考えれば、入倉と別れてから長くても15分ってとこか。

 相手の少年たちがまだ近くに残っている可能性は――。
 後ろを走る穂積を気遣いつつ、恋次も同じ角を左に折れる。
「栗原さ……」
 高いビルとビルに挟まれた細い路地。
 踏み出した足の下で、じゃり、と耳障りな音がした。見れば、さんざんに砕けたガラスの破片がアスファルトの上に散らばり、雨に打たれている。
「…………」
 道の端で崩れた積み荷。
 水たまりに転がった白いスポーツバッグ。
 そして、
「――――!」
 建物の壁にもたれてうずくまる人影が見えた。
「入倉!」
 穂積の声が、路地を走っていく。
 その声に栗原と二人、はっとわれに返った。
「穂積さん、ちょっと下がってて」
 栗原が積み荷から拝借したダンボールをガラスの海の上へと投げている。これを橋にしようというらしい。
「はい、いいよ」
「栗原先輩、ありがとうございます!」
 穂積が飛ぶようにダンボールの橋を渡り、直也のもとへ駆け寄った。
「入倉! 大丈夫っ?」
 呼びかけに、直也がうつむいていた顔をゆっくりと上げる。
 穂積、と。
 声にならない声が確かに彼女を呼んだのが口の動きでわかった。
 駆け寄った穂積が、自分が濡れるのも構わずに彼の頭上へとそっと傘を寄せる。
 ぼんやり彼女の顔を見返していた直也の視線が、ふとこちらへ滑った。ここにいるのが誰とわかったとたん、その目に鋭さが戻る。
「バ……なんで、恋次と栗さんなんか呼んでくんだよ」
「言ったでしょ、入倉を置いて一人で逃げたりなんてしないって」
「だからって――」
「大丈夫なのか、入倉」
 ケガは、と訊ねれば、直也がす、と目をそらした。
「ねえよ」
「どれ、見せてみろ」
 栗原が穂積の隣にしゃがみ込むと、噛みつきそうなまなざしが返ってくる。
「ねえって言ってるだろ!」
 栗原はかまわずに直也の泥に汚れた頬に触れた。
 髪から制服、靴の先まで全身ずぶ濡れ、泥にまみれてはいるが、目立った外傷はない。Tシャツの下にも殴られたような痣(あざ)や傷らしきものは見当たらないようだ。しかし、それまで大事そうにバスケットボールを抱えていた右腕に栗原が触れたとたん、直也の表情が苦痛にゆがんだ。
 栗原がため息混じりに額を掻いて立ち上がる。
「彼女に感謝するならともかく、文句なんか言ったらバチが当たるぞ」
「腕、痛いの? 入倉……」
「痛くねえ」
「嘘。痛いんでしょ? ……ごめん、あたしが今日買い物なんて誘ったから……」
 うつむく彼女の方へそっと伸ばされ、けれど途中で迷うように引き戻された直也の左手が、膝の上で拳に変わる。
「おまえのせいじゃねえよ。俺のほうこそ、悪ィ……」
「え?」
「膝、ケガさせて……そんな泥だらけにさせて……」
 ちゃんと守ってやれなくて、ごめん。
 ぽつり、直也のかすれた声が雨音に溶ける。
 穂積が目を見張ったかと思うと、勢いよくぶんぶんと首を横に振った。
「こ、こんなの全然平気だもん! 言ったでしょ、あたし、子どもの頃に弟と一緒に空手道場に行ってたって。だから、ちょっと転んだくらい、全然平気!」
 同じ一つの傘の下、いたわり合う二人を包む雨音が、今は少しだけ優しい。

 ……ああ、そうか。この二人……。

 恋次は思わず頬に浮かびかけた微笑を噛んで、直也へと手を伸ばす。
「とにかく病院へ連れていく。立てるか?」
「一人で立てる。病院なんか行くほどのもんじゃねえよ」
「ダメ! ちゃんと病院に行って。じゃないと、あたし、今日ここから動かないから」
「…………」
「大事な相手の言うことは聞いておくもんだぞ。それにだいたい、そのナリでまともに駅の改札をくぐれると思うのが無理な話だ」
 栗原の言葉に、直也が今気づいたとばかりに己の格好を見下ろして舌打ちした。
 髪から足の先までずぶ濡れの泥だらけ。Tシャツは見るからにボロボロで、襟元は無惨に裂けている。この格好では駅の改札どころか、そこへたどり着く前に交番で呼び止められるのがオチだろう。
「仕方ない、あいつに世話になるか」
 雨に濡れた髪をかきやりながら、栗原が携帯電話を取り出す。
「栗原さん、あいつって?」
「須賀だよ。あいつなら地元だし、顔が利く病院の一つくらいあるだろ。兄貴もいるから男物の服も借りれるだろうし」
 生徒会長の世話になんかなりたくねえ、と顔をしかめる直也を、穂積がなだめている。そうして、直也の濡れた髪や頬をタオルで拭おうとしては相手に逃げられ、頬をふくらませる。
 そんな二人の微笑ましい様子をそばで見守っていると、
「ああ、そうだ。事実がわかったら連絡するって言ってたんだっけな。入倉、相手は篠高生だって言ってたそうだけど、本当か?」
 その問いに一瞬、直也の動きが止まった。
「……本当、です。でも……」
「でも?」
「俺はそうは思いません」
 え、と恋次は思わず聞き返したが、その先を問うことを栗原に目で制される。
「確信があるんだな?」
「はい」
「本当はどこの生徒かも?」
 少しの間を置いて、直也がうなずく。
「わかった。今は、それ以上は俺に言わなくていい」
 携帯電話片手に、互いの話し声が聞こえない距離まで栗原が離れていく。
 穂積がそっと直也のTシャツの裾をつかんだ。
「どういうこと? あいつら、ハッキリ言ってたでしょ。特色がないのが特色の篠高生。そんな俺たちのことを知っててもらえるなんて光栄だ≠チて」
「俺にも聞かせてくれ、入倉」
 直也が一度唇を噛んだ。迷いと後悔のにじんだまなざしが、その手に抱えたボールへとじっと注がれる。やがて、かすれた声が聞こえた。
「恋次にはどうせ話さなきゃなんねえだろうから話すけど……龍太には絶対言うなよ」
「龍ちゃん? なんで、ここで龍ちゃんの名前が……」
「あいつら、篠高なんかじゃねえ。三高だ」
「三高……」
「つまんねえ報復返し受けちまった」

 ……報復返し。

「それって、先月の……」
 ああ、とうなずいた直也がもう一度唇を噛む。
 その表情を見て、すべてが納得いった。
 三高と龍太、そして直也を結びつけた因縁はひと月以上も前、GW(ゴールデン・ウィーク)直前の放課後に端を発したものだ。
 その頃、龍太は落ち込んでいた。同じ陸上部の先輩・柚木(ゆずき)が足の故障でもう陸上を続けられないと医者から宣告を受けたのが数日前。中学時代から慕う彼の早すぎるゴールに、龍太は本人よりも悲しんでいた。
 その日、学校を休んだ龍太が向かった場所は学校の隣の都立公園。そこで柚木が現れるのをあてどなく待っていた龍太を、不運が襲う。
 数人の他校生に絡まれ傷ついた龍太を最初に見つけ、介抱したのが直也だった。相手が三高の制服を着ていたと、直也は龍太の口から聞いたらしい。
 同じ九条の街を学びの場とする、私立の男子校。私立三洋光(さんようひかり)高等学校。通称、三高=B
 私立校のため、生徒会同士が交流する支部会の中には含まれていないが、三高生の噂はこの支部内のどこでも耳にする。曰(いわ)く、九条一タチの悪いやつら、と。
 結局、その一件については、龍太が私服姿だったこと。龍太のほうは全く手を出さなかったこと。比較的、ケガが軽かったこと。そして、通報者もいない行きずりの出来事だったことから、九条会は一切関与せずにうやむやにしていた。事件をつついて大げさにするより、陸上部に火の粉がかからないよう守ることのほうがはるかに大事だったからだ。それが間違っていたとは、今でも思わない。
 だが、

 ……それで済んだと思っていたことが、実際は終わっていなかったということか。

 運命の皮肉は、一ヶ月後。
 今月初めに行われたインターハイ予選初戦の組み合わせ。
報復返し(・・・・)って……まさか、あの後で入倉が三高に対して何かしたわけじゃないだろ? 試合中に三高の選手を故意にケガさせるとか――」
「入倉はそんなことしないよ! あたし、その試合見てたもん! あたしが証人。あたしが信じられないなら、一緒にいた友達に聞いてもいい。入倉は何も汚いプレーしてなかった。そんなこと言うなんて、恋次くんひどいよ」
「俺だってもちろん疑ってるわけじゃないさ。だけど、入倉がそう言うからには……」
 息巻く穂積を安心させるように微笑みかけ、恋次は直也へと向き直る。
 こく、と直也が小さくうなずいた。
「何もしてねえし、もとより何かするつもりもねえ。試合する相手がどんな因縁のある相手だろうと、ゲームが始まればコートの中の勝負だけに集中できる。何よりバスケをそんな道具になんて、できるかよ」
 でも、とそこで直也が一度口を閉じる。
「でも……予選の組み合わせ見たときは、正直アツくなった。三高にだけは絶対負けねえって。インハイ予選だからとか、3年の最後の試合だからとかいうより先に、龍太のことが頭に浮かんだ。あいつのために負けらんねえって、そう思ってた」

 ……やっぱり、そういうことか。

 改めて聞くまでもなかった。
 因縁があろうがなかろうが、試合には勝ったかもしれない。けれど、そこまで直也を駆り立てるものがなかったら、きっとプレーの精度も、結果としてのスコアも変わっていたはず。
「……うん、わかった。ありがとう」
 唐突な感謝の言葉に、直也が怪訝な顔を向ける。
「龍ちゃんをそんなに大事に想ってくれて、ありがとう」
 今の自分はきっと、微笑とも苦笑ともとれない複雑な表情をしているのだろう。
 しばらくこちらを見上げていた直也が、鋭いまなざしで前を向く。
「龍太には絶対言うなよ」
「……わかってるさ」
 子どものように人の心の機微(きび)に聡(さと)い龍太のことだ。このことを知れば、すぐにその背景を察して己を責めるだろう。
「言わないよ。約束する。そもそも、龍ちゃんのことと今回のことは別物と考えるべきだ」
「……だろうな」
「え、どういうこと?」
 それまで必死な顔つきでこの場を見守っていた穂積が、目をきょとん、とさせる。
「龍ちゃんが絡まれたとき、入倉は相手の姿を見てないし、相手も入倉の姿を見ていない。龍ちゃんと入倉の繋がりを相手は知らない。だから今回のことは、おそらく試合で大敗した三高バスケ部員たちの逆恨み……ってことになるんだろうな」
「入倉が試合で活躍したエースだから? 何それ、入倉全然悪くないじゃん!」
 再び憤慨する穂積の隣で、直也はじっと自分の手の中のボールを見つめている。
 そうして、
「……あいつら、バスケ部員じゃ――」
 何かを言いかける途中、右腕の痛みに顔をゆがめた。心なしか右肘の辺りが先ほどより腫れ上がっているよう。
 大丈夫か、と声をかけようとするところに、栗原がやってくる。
「話はついたよ。入倉、あと10分ガマンできるか?」
「平気、です。これくらい……」
「じゃあ、ずっとここにいるわけにもいかないから……」
 とりあえず須賀と待ち合わせた公園へ、と栗原が先頭に立って歩き出そうとしたところで、はっ、と足を止めた。
 路地の先に、人影。
 身構えるこちらへ向かって、傘を差した少年らしい人影がゆっくりと近づいてくる。
 やがて目の前に現れたその顔を見て、この口から思わず声がこぼれた。
「おまえ……どうして、ここに……」



 
* * *



 前方から少年たちが駆けてくる。すれ違いざまにドン、と勢いよく肩をぶつけられて、龍太は思わずアスファルトの上へ尻餅をついた。
「ごめんね、大丈夫?」
 ぶつかった本人ではなく、その少年に手を引かれて走るもう一人が振り返って言った。けれど、龍太が返事を返す間もなく、親切そうな少年は白いキャップを被った相棒に引きずられるようにして走り去っていく。
「ちょっと待って、ユウキ。手、痛い!」
「敦(あ)っちゃんのためなんだよっ……」
 少年たちの声はすぐに激しい雨音の中に吸い込まれた。
 彼らの背中をぼんやり見送った龍太は、のろのろと立ち上がり、再び人通りの少ない街を歩き出す。
 やがて、大きな桜の木の下で足を止めた。
 桜が植えられているのは塀の向こう側。だが、歩道に張り出した枝葉が大きな傘となって、冷たい雨粒から龍太を守ってくれる。
 『私立鈴蘭(すずらん)学院高等学校』と刻まれた門の横に、龍太は一人しゃがみ込んだ。
 時折、その門から雨音にも負けないにぎやかな話し声と足音が出てくるが、皆、龍太の横を通り過ぎるだけ。
 数分後、同じ門から聞こえてきた一人の足音に、龍太は顔を上げる。
 まっすぐに歩み寄ってくる少女の肩で琥珀色の髪がさらりと揺れた。
「傘持ってるのに、なんでそんなにびしょ濡れなの? 龍太」
「さっき、転んだ」
「尻餅ついたでしょ。おかげで、あたしまでお尻が痛いよ」
 くす、と笑う妹の肩で揺れる琥珀色。それをじっと見て、龍太は己の漆黒の髪をつかんだ。
「髪、切ろうと思ったんだ。けど……」
 する、と髪をつかむ指から力が抜ける。
「けど、切れなかった……」
 雨粒と一緒に吹きつける風が、二人の頬を濡らした。
 それが合図だったかのように、龍太がゆっくり立ち上がる。
 どちらからともなく並んで歩き出し、信号待ちに足を止めたとき、妹がぽつり言った。
「やっぱり考えることは同じなんだね、あたしたち」
「だって、俺は実月の半身だもん」
「うん……」
 信号が青に変わる。
 なかなか歩き出さない龍太を、実月が振り返った。
「どうしたの?」
 龍太は近くのショーウィンドウに映る自分たちの姿をじっと見つめている。
 華奢(きゃしゃ)な骨格も、大きな瞳も、まっすぐで指通りのいい髪も、同じ。ほんの二年前には背丈も変わらなかったのに、気づけば数センチ、眺める世界が妹と変わった。
「龍――」
 青いビニール傘がアスファルトに転がる。
「……冷たいよ、龍太」
「もう少し、こうさせて」
「龍太の青空、転がってっちゃうよ」
「後で拾いに行くから大丈夫」
 抱きしめた妹の肩に顔を埋(うず)めるようにして、龍太がつぶやく。
 実月は小さく息をつくと、右手に持ったままの自分の傘をそっと龍太の頭上にかざした。
 静かに通りを走ってきた一台のプリウスが、二人の横を通り過ぎしな、からかうようにクラクションを一つ鳴らす。
 龍太がゆっくりと顔を上げた。
「実月」
「なに?」
「――――」
 ささやく声が、雨音に溶けていく。
 そっと妹の体を放した龍太は、拾い上げたビニール傘越しに空を見上げ、ふと思い出したようにつぶやいた。
「さっきの人、三高の制服だったな……三高にもあんな優しそうな人がいるんだ……」


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