* * *


「あれ、龍ちゃん?」
 下町商店街の一角にある美容室の前。
 短い休憩を終えて店内へ戻ろうとした若い店員が、歩いてくるなじみの客を見つけて声をかけた。
「久しぶりだね。今日、切ってく? ちょうどミズホ空いてるから、またカットモデルしてもらえるとありがたいなー。もちろん、ご指名があれば俺が腕によりをかけていい仕事させてもらうよ。ちょっとだけ待ってもらっちゃうけど」
 龍太が店の前で足を止めた。愛想のいい店員の言葉も耳を素通りの様子で、店のガラス戸に映る己の姿をじっと見つめている。
「龍ちゃん?」
 再び店員が呼びかけると、はっとわれに返ったように振り返った。
「あ……や、やっぱり今日はいいや。ケンさん忙しそうだし!」
 くる、と踵(きびす)を返したかと思うと、足早に駅の方へと歩いていく。その小さな背中は行き交う色とりどりの傘の波に紛れて、すぐに見えなくなった。



 * * *



「篠ヶ崎高校の生徒会の者です。九条会の皆さん、今日はよろしくお願いします」
 降りしきる雨を背景に、開いた正面玄関のガラス戸から私服姿の高校生が二人、はつらつとした顔をのぞかせた。どちらも先週の体育祭で一度、こちらとは顔を合わせているが、改めて九条会の面々が名乗ると、篠ヶ崎の二人もそれぞれに頭を下げた。
「会長の松岡(まつおか)です。今日はお世話になります」
「書記の宇野(うの)っス。よろしくお願いしまーす」
 松岡は身長がおよそ170センチくらい。ギンガムチェックのシャツに綺麗めのデニムを合わせた格好。清潔感のある風貌で、いかにも優等生といった雰囲気が板についている。
 一方、宇野は長身で、Tシャツにカーゴパンツの飾らない格好。愛嬌のある笑顔で、見るからに人見知りという言葉とは縁の遠そうな気さくな雰囲気だ。
 実際、先月の校外活動で初めて顔を合わせたときに、自分は軽いだけが取り柄の男だと話していたのを思い出し、恋次は人知れず小さな笑いを噛んだ。

『俺、学校のため≠ネんて今までこれっぽっちも考えたことないんだよね。生徒会選挙も、仲間にそそのかされてノリで立候補しただけなんだよ。どうせ落ちるに決まってるし、それはそれで笑いのネタになるかなーってさ。そしたら当選しちゃって、俺が一番ビックリだよ! 絶対ドッキリだと思ってたのに、いつまで経っても誰もそう言ってくれないし、いつのまにやらこんな会議には連れてこられるし……恋次は九条の生徒会の書記なんだろ。ってことは、な、俺ってマジで生徒会役員なの?』
『当選したってことは、それだけみんなが支持してくれたってことなんだから、素直に喜ぶべきなんじゃないかな』
『シジ?』
『信頼してくれたってこと』
『信頼……俺を? ……そもそも信頼って、どういう意味だっけ?』
『きっと、そのうちわかるさ』

 自分は本当に生徒会役員になってしまったのか、と戸惑っていた先月に比べると、だいぶその肩書きにも慣れたようだな、と。
 微笑ましく見やれば、ぺこりと頭を下げた宇野が顔を上げるなり、あれ、と不思議そうにこちらの顔を見返した。
 まじまじと見つめられて、顔に何かついていただろうかと思わず頬に手をやると、
「恋次、なんか雰囲気変わった?」
 率直に訊ねられて、とっさに「え」と聞き返すしかできなかった。
「受ける感じが、前はもっと穏やかな好青年って印象だったような……」
「今の恋次はどうなんだ?」
 おもしろそうに訊ねたのは栗原だ。
「そうっスねー、なんていうか、男っぽくなったっていうか……でも、最後に顔合わせたのって、体育祭の朝だったっけ? あれから一週間も経ってないけど……何かあった?」
「…………」
 声を押し殺して笑う栗原を横目に、苦笑を答えに代えれば、相手はすぐにその意味を察するらしい。
「あ、もしかして俺、地雷踏んじゃった?」
 ごめん、と片手を上げて気さくに謝ったかと思うと、宇野がロビーの天井を見上げてため息を吐いた。
「すげーな、ここ吹き抜けになってたんだ。あ、何あのレトロでオシャレな照明。学校じゃないみてー」
 ひとしきり目を丸くする様子に、恋次はくす、と笑みをこぼす。
「体育祭の時にも通っただろ?」
「や、あのときはなんせ人が多くて通り抜けるのに必死で、頭の上を気にする余裕なんてなかったからなー。さすが同じ都立でも、旧制中学からの歴史があるとこは違うよな……なあ、このらせん階段、後で上ってみてもいい?」
 無邪気な顔で辺りを見回したところで、ようやく隣の相棒が呆れた表情をしていることに気づいたらしい。それへ、ひょい、と肩をすくめてみせたのを合図に、栗原が先頭に立って歩き出した。
「それじゃ、会室に案内するよ」
「あれ? 土足のままでいいんスか?」
「うちは一足制だから。ああ、ごめん。先に来校者用のパス渡しとかなきゃな」
 本来、来校者用の出入り口は一般生徒用とは別になっている。左にある事務室の窓口で来校手続きを済ませた二人を改めて案内する格好で、栗原が言った。
「手紙には二人くらい≠チて書いてあったけど、まさか会長自ら来るとは予想してなかったな。校外委員に任せてもいい仕事だろ?」
「熱心なんだね」
 須賀の感心したような視線を受けて、松岡がわずかにはにかむ。
「そうなんスよ! こないだの九条の体育祭を見てから急に張り切り出しちゃって。今日も俺と校外委員の二人で来るつもりだったのが、ガッくんがどうしても≠チて言い張って、校外委員に無理やりほかの仕事押しつけてきたんス。おとなしそうに見えて、意外とガツガツしてるんスよ、うちのガッくん」
「ガッくん=H」
「あ、松岡のことっス。本名は学(まなぶ)なんだけど、ガクとも読めるでしょ。だから、ガッくん。よかったら、九条会の皆さんもそう呼んでください」
 名付け親は俺です、と宇野が胸を張る。
 当の松岡は「ガツガツしている」と言われたことにか、何かを反論しかけたようだったが、ぺらぺらとよどみない宇野のおしゃべりに結局は再び口を閉じた。きっとこれまでの経験からそれが最善の策だと判断したのだろう。
 他校生の姿をおもしろそうに振り返る九条生とすれ違いつつ、宇野のにぎやかなおしゃべりを聞きながら、一行は西階段を上り、3階へ。
 先頭の栗原がさらに上へ進もうとするのを見て、宇野が一度足を止めた。目の前にある部屋の名を示すプレートを不思議そうに眺め、けれど何も言わずに再び歩き出す。松岡らに続いて4階へと上り、やはり目の前にある部屋のプレートを眺め、今度は納得したように小さくうなずいている。
 こちらの視線に気づくと、こそ、とささやいてきた。
「二つある生徒会室、か……九条会にもいろいろおもしろい秘密がありそうだな」
「さあ、どうかな……」
 自分もあまりよくは知らないのだ、と正直に告げたが、相手はそうは受け取らなかったらしい。
「また今度の機会に聞かせてな」
 こちらの肩を抱いて宇野が茶目っ気なウィンクをよこしたところで、栗原が会室の扉を大きく開けた。
「九条会へようこそ」



 
* * *



「あれ? 如月さんたちは帰らないの?」
 更衣室から一歩足を踏み出したところで、寿人はドアノブを握ったまま肩越しに部屋のうちを振り返った。
 後輩たちを更衣室から先に追い出し、主将の如月を始め、何やら3年生だけが揃って部屋のうちに留まっている。
 最後に着替えを終えてロッカーの扉を閉めた伊藤が悪戯な笑顔で言った。
「これから3年水入らずで遊ぶんだから邪魔するなよ」
「へえ、何するの? 楽しいことなら俺も混ぜてほしいなあ」
 無邪気に笑う寿人の背中を、今度は宮川の大きな手のひらがそっと押す。
「ダーメ。3年水入らずって言ったろ。お子さまは帰った帰った」
「お子さまって、一つしか違わないのに。ひどいなあ」
「知ってるか? 俺らの間の一年は大人の十年分なんだってさ」
 手のひらと一緒に最もな台詞に背を押され、寿人はそのまま外へ押し出される。
 バタンと閉じられた扉の向こうを薄茶の瞳が名残惜しげに見やったのは、ほんの一瞬。
 あさっての大一番を前に水入らずで過ごす3年生。扉の向こうからにじみ出てくるような彼らの三年間≠ノ寿人は穏やかな微苦笑を捧げると、そっと背を向け、歩き出した。
 正面玄関のガラス戸を押し開け、雨よけのポーチから一歩外へ踏み出せば、降り注ぐ雨が足下のレンガを次々と穿(うが)っていく。
「雨の季節、か……」
 傘の向こうに見える灰色の空をどこか懐かしそうに見上げ、寿人はぽつり、つぶやいた。
 そのまままなざしを左手にある正門へとめぐらせ、あ、とわずかに目を見張る。見覚えのある背中が、今ちょうど雨に濡れるアーチをくぐり抜けたところ。
「……つ……」
 正門へと続く石段を駆け降りようとして、寿人はほんの一瞬、わずかに顔をゆがめた。一段一段足の運びを確かめるようにゆっくり石段を下りた後は、何事もなかったかのように足早に正門のアーチをくぐる。
 正門を出てすぐ目の前にある交差点の信号が、都合よく追いかける相手の足を止めてくれていた。
「遠藤」
 呼びかけに振り返る、どんぐりまなこ。
「綾井くん……あれ? もう帰りですか? バスケ部は?」
「今日は先生の都合で早上がりだったんだ。玄関を出たら、ちょうど遠藤が歩いてるのが見えたから」
 追いかけてきた、と笑顔の寿人が隣に並べば、それまで不思議そうに相手を見上げていた一真の瞳がぱっと輝いた。
「遠藤のほうこそ、今頃帰り? 陸部は今日オフだったろ」
「浅野先生としゃべってたら楽しくて、気づいたらもうこんな時間になっちゃってました」
「浅野先生って、音楽の?」
「はい」
 はにかむように前髪をかきやり、一真がうなずく。
 信号が青になったのを見て、寿人が先に横断歩道へと足を踏み出す。その背中を今度は一真のほうが追いかけながら、そっと寿人の横顔を見上げた。
「あの、綾井くんは浅野先生に何か訊かれたりしてないですか?」
 唐突なうえ何やら要領を得ないその問いに、寿人は薄茶の瞳をぱちくりさせる。
「何かって?」
「俺にもよくわからないですけど」
「なんだそれ」
「浅野先生、俺によく綾井くんの話をするんです。綾井くんが音楽の授業をとってなくて残念だ、とか。綾井くんが九条中のブラスで部長やってたときはどんな感じだったのか、とか。俺に訊いてくるんです」
「浅野先生が?」
「はい。先生と綾井くんって知り合いなんですか?」
「……知り合いだったら、遠藤にそんな遠回しな話しないだろ」
「あ、そうですよね。じゃあ、やっぱり単純に綾井くんの音楽の才能を惜しんでるのかな」
 ちら、と一真の大きな瞳が、今度は悪戯に輝いて隣を見上げる。
「音楽を続けてくれ、とは俺はもう綾井くんには言いませんけどね。たとえ誰に頼まれても」
「……それは、ありがたいな」
 寿人が苦笑顔でつぶやく。
 そんな寿人を何とも言えない表情で見上げた一真が前を向いて言った。
「俺は綾井くんを応援するって決めたんです。綾井くんが俺の選んだ道を、俺が今いる場所を認めてくれたから……だから、俺も綾井くんの選んだ道を信じよう。応援しようって、あの日……」
「…………」
「あの日、試合のコートの中で綾井くんは戦ってた。その姿を見て、俺、わかったんです。今の綾井くんは何かを探してる途中なんだって。それが何かは俺にはわからないけど……でも、一生かかってでも綾井くんにその答えを見つけてほしいって、俺は願っちゃったから。だから……」
 一真がそこで、一つ息を吸う。
「だから、俺を一生綾井くんのそばにいさせてください」
 そして紡がれたまっすぐな言葉に、傘の柄を握る寿人の手がぴく、とかすかに震えた。
「もちろん、ずっと一緒にいられるなんて思ってません。でも、ほんの少しでいい。ほんの少しの場所でいいから、綾井くんの心の隣に、俺の居場所を空けておいてください。それから……」
 俺の隣は、昔も今も綾井寿人の指定席ですから――。
 一途な相手のまなざしを受ける頬に、やがて優しく曖昧な微苦笑が浮かぶ。
 けれど、肩をすくめて隣の後輩を見下ろす頃には、もういつものひょうひょうとした笑みに変わっていた。
「なんだか俺、遠藤にプロポーズされてるみたいだなあ」
「えっ? お、俺、そういう意味で言ったんじゃ……!」
「わかってるって、冗談だよ。遠藤にはちゃんと彼女いるもんな」
「……え、彼女?」
「こないだ一緒にいたろ。髪が長くて元気のいい……」
「あ、ち、違いますっ! マルちゃんはただの友達で、クラスメイトで――あ、思い出した!」
「……遠藤?」
「そうだ、三高だ。綾井くんの試合のこと話してたら思い出した……」
「三高がどうかした?」
「あ、いえ……今日アオハル広場を掃除してるときに、見覚えのある人が外を歩いてて、どこで見かけた人だったかなって、ちょっと気になってたんです」
「それが三高のやつだったの?」
「三高生かどうかはわからないですけど、あの日、試合会場の三高の体育館で見かけたんです。それを今思い出して……」
 ようやくスッキリした、と。笑顔で隣を見上げた一真が、すぐにその目をきょとん、とさせた。
 へえ、と気のない相づちを打ちながら、寿人が何やらしきりに辺りの様子に目を配っている。
 いつもは周囲の人目などどこ吹く風の寿人がめずらしい、と驚く心持ちで一真も辺りへ目をやるが、取り立てていつもと変わったところはない。相変わらず傘を強く叩く雨の中を、下校途中の学生や、それ以外の人波が流れているだけ。
「……綾井くん?」
 自分たちの暮らす住宅街へと入って、少しが過ぎた頃。
 不意に、寿人が足を止めた。
「ごめん、遠藤。今日はここで」
「え? あ、はい……」
「遠藤はさ、今日はもう帰るだけだろ?」
「そのつもり、ですけど」
「それならよかった」
 にこ、といつものように微笑んだかと思うと、後は言葉もなく寿人が通りへと引き返していく。
「あ、綾井くん!」
 呼びかけた声は、彼の背中には届かない。
「それならよかったって、どういう意味……?」



 
* * *



「お茶のおかわりどうぞ」
 コト、と湯呑み茶碗の置かれた音に、松岡が顔を上げた。
「あ、ありがとう、梅田くん」
 篠ヶ崎高校生徒会役員による九条会への熱の入った取材も順調に進み、今はつかの間の小休憩。
 香り立つ湯気を吸い込んで、ほっと緩んだ表情の相手に「どういたしまして」と微笑を返し、恋次は慣れた手つきで皆の茶を淹れる。
 都立高校は地域ごとに第一から第七まで支部と呼ばれるグループに分けられていて、支部ごとに『支部会』と呼ばれる交流会があり、同じ支部内の高校との友好を深めたり、活発に議論する場を自発的に設けている。
(※1)
 支部会を構成しているのは主に各高校の生徒会役員。その支部会での活動を一般生徒たちにも知ってもらうための会報が、年二回発行される『支部報』だ。記事を書く担当は、毎年持ち回り。支部会の報告だけでなく、支部ごとに独自の企画や特集を組んで、支部内の高校の特色をよりおもしろく、よりわかりやすく紹介する場にもなっている。
 九条が属する第一支部では、今年度は『体育祭特集』と称して、各高校の体育祭を他校生からの視点で紹介する企画が進行中。くじ引きで九条の担当を引いた篠ヶ崎高校生徒会が先日の体育祭をこぞって見学に来たのも、今日会室にやってきたのも、そういうわけだ。
 今頃、同時期に体育祭を行っているほかの高校でも、それぞれにぎやかな取材合戦が繰り広げられていることだろう。
「金森さん、戻ってこれますかね」
 湯呑みを置きつつ訊ねれば、栗原が首を傾げた。
「どうかな、向こうも会議だろ? 悪いな、お二人さん。うちの校外委員が同席できなくて」
「や、急に押しかけたのはこっちですから。それにしても、会室で急須で淹れたお茶が飲めるなんていいですね」
「そっちじゃ飲めないの?」
「自販機くらいはうちの学校にもありますけど、さすがにお茶っ葉からは無理ですよ。しかも、その自販機も一年中COLD(コールド)だし……」
「じゃあさ、ガッくん。うちも部屋に電気ポットとか置こうぜ。熱々のコーヒーに紅茶がいつでも飲み放題!」
「誰が金出すんだよ」
「え、予算でしょ?」
 ね、と無邪気に室内を見回した宇野が、あれ、と頭を掻いた。
 そんな相棒を呆れたように一度見やった後で、同じように松岡もゆっくりと室内を見回す。
 校内放送用のマイクに内線電話、コピー機やノートパソコン、大きな書類棚といった仕事に必要なものをひと通り眺めた後で松岡のまなざしが止まったのは、部屋に入って左の壁際。そこにはアンティークのティーセットが並べられたサイドボードが置かれている。
「ずいぶん年季が入っているように見えますが、こういう調度品は初めから?」
「初めからというか、だんだんと、かな」
 向かい合う須賀が小首を傾げつつ答えると、後を栗原が引き継いだ。
「授業を受けるんならまだしも、こんな四角張った殺風景な部屋で会議してたって、いい案なんか出るか――って考えた役員がとある(・・・)代にいて、んで、そっから少しずつ手を入れてったみたい。役員たちが日がな集(つど)いたくなるような居心地のいい空間を自分たちで作ることが、すべての出発点だってな」
「自分たちの空間を自分たちで作る……」
 ぽつり、つぶやいた松岡をちら、と見て、今度は月島が話を続ける。
「豪華で生意気そうに見えるかもしれないけど、あのアンティークもこのテーブルセットも、実際元手は何もかかってないんだ。九条に住んでた英国人一家が母国に戻るときに処分するのをもらってきた、とか言ってたかな。この内装に落ち着いて俺たちで何代目になるのかはわからないけど」
 ちなみに、と栗原が茶目っ気に付け足した。
「この電気ケトルは九条会OBからの寄付で、恋次が使ってる高級湯呑みは梅田家からの持ち出し品」
「なんで、ここで俺の湯呑みが並べて話されるのかわからないんですけど……」
 唐突に己の名前が出てきたことに思わず吹き出すと、にや、と笑顔の栗原の横で、
「いや、必要なことだよ」
 月島が大真面目に言った。
「俺たちがどこぞの私立校のように贅沢をしてるなんて他校に誤解を与えないためにも、出所はきっちりさせておかなきゃ」
「へえ……真面目なんスね、月島さん」
 宇野が呆気に取られた顔で言えば、会計委員長として当然とばかりに月島は無言で日本茶をすする。
「ははっ、おもしろいチームだなー、九条会って。みんな性格とか全然違ってそうなのに、仲がいいっていうか、ほんとに好きでここに集ってるっていうのがすげー伝わってくるっス」
 うらやましい、とつぶやきながら、宇野がデジタルカメラを手に立ち上がる。
「さて、と……取材中の様子も撮っとけって言われてたのすっかり忘れてた。ってことで、俺テキトーに撮りますけど、皆さんラクにしてていいっスから。ほら、ガッくん、それらしくしゃべってよ。お茶すすってるだけじゃ、ただのお茶会のお呼ばれさんじゃん。取材に来たのは俺たちのほうなんだからな、自ら志願して九条に乗り込んできたぞっていうガツガツした顔をしなきゃ」
「今ラクにしてて≠チて、言ったばかりのくせに……」
 宇野のうるさい注文に顔をしかめつつも、松岡は素直に資料と再び向き直る。
 恋次はくす、と笑んだ。なかなかどうして、二人はいいコンビらしい。
「松岡くんに一つ訊いてもいいかな?」
 須賀がそっと口を開くと、松岡が勢いよく顔を上げた。
「あ、ハイ! 俺で答えられることなら、何でも」
「松岡くんはどうして今日、自分でここに来ようと思ったの?」
「それは……」
 ためらうように一度口を閉じた松岡が、楽しげにカメラを構える相棒をちら、と見る。それから再び、須賀へとまっすぐに向き直った。
「探してる答えが、ここにあると思ったから」
「……そっか」
 わずかな静寂の後で、須賀の穏やかな声音が空気を震わせた。
「答え、見つかった?」
「今はまだ、うっすらとですけど……」
 率直な須賀の問いに、松岡はわずかにはにかみながら、しかしまっすぐに相手を見つめて小さくうなずき返す。
「なあ、ガッくん、何の話?」
「後で話すよ」
 短く言葉を交わす篠ヶ崎の二人を栗原は意味ありげに眺め、月島は関心があるのかないのか、やはり無言で茶をすすっている。
 恋次は一人、テーブルの上でそっと握りしめた湯呑みへと目を落とす。鮮やかな翡翠(ヒスイ)色の中に、見慣れた愁いを帯びた己の顔が映っていた。

 ……探してる答え、か。

 顔を上げると、ふと、須賀と目が合った。

 ……須賀さん?

 何かを語りかけてくるようなそのまなざしから目をそらせずにいると、
「あの……」
 松岡の声が遠慮がちに間に入ってくる。
「種目のことで、どうしても気になることがあるんですけど、いいですか?」
「あ、うん。もちろん、何でも訊いて」
 ぱっと須賀が松岡へと向き直ってうなずいたのを合図に、つかの間の休憩は終わり。取材再開だ。
「この九条会主催企画なんですけど……そもそもの起こりについては、先ほど伺いました。校内行事は生徒が主体。教師はあくまで見守り、安全面での助言を与えるだけの役。そんな縁の下の力持ちである先生たちにも当日楽しく参加してもらえるようにと、十五年前に生徒会が提案した『借り物競走』が始まりだ、と。ただ……えーと、三年前、かな。この第74回体育祭……九条会としては第76代の会長で少し趣が変わってますよね。何か理由が?」
 松岡の手元に置かれているのは、資料のためにと用意した過去十年分の体育祭のパンフレット。
「去年の会長さんは内容を昔ながらの借り物競走に戻したみたいですが、その前の……えーと、第77代と今年度の第79代は明らかに第76代の流れを汲んでいるように見えるんですが……」
 並べられたパンフレットの中から、くる、と松岡が向きを変えたのは、三年前のもの。
 恋次は思わず、須賀の横顔へとまなざしを滑らせた。
 単純に行われた回数を冠する行事執行部と、生徒会とでは代の数えが異なるのでややこしいが、三年前、第76代の九条会会長といえば、言わずと知れた須賀の兄のこと。
 パンフレットへと視線を戻せば、燃え上がるようにその文字列が目に飛び込んでくる。

第76代九条会主催企画 『The Orders of King(ジ・オーダーズ・オブ・キング=王様の指令)』

 それまでは単に種目の一つとして数えられていた『借り物競走』に、九条会主催企画≠ニ冠するようになったのが、この年から。
「うーん、そうだなあ……」
 栗原が大きく伸びをした。そのまま両手を頭の後ろで組み、鼻歌でも歌うような調子で言う。
「今年の企画を仕切った俺から言わせてもらえば、ガッくんの言うとおり……だと思う」
「だと思う=H」
「77代会長は先代の副会長だった人だから、当然前会長のやり方を継承しただろうな。逆に、その次の78代はあえて違うやり方を選択した。流れってものがあるなら、確かにこの二代は76代の作り出した激流に翻弄された部分はあったと思うよ」
「へえ……なんかよくわかんないけど、すごい人だったんスね、76代会長さんって」
「この二代は≠チて、今栗原さんは言いましたけど、じゃあ79代の皆さんは?」
 松岡がまっすぐなまなざしで、この場を見回す。
 と、月島がつぶやいた。
「この代は特別なんだ。76代との係わりという意味で」
「特別結びつきが強いってことですか? その人から何か……伝家の宝刀を直接受け継いでるとか」
「や、俺たちは会ったこともない」
 栗原が即答すれば、「へ?」と宇野が今度は拍子抜けしたよう。
「そもそも76代会長から受け継いだというか、託されたものなんて九条会には何もないよ。そういうことを望むような人じゃなかったんだろうな」
「そういうこと……?」
 誰かがつぶやいた。
 天井を見上げていた栗原のまなざしが、ゆっくりとこちらへめぐってくる。目と目が合って初めて、今つぶやいたのは己の声だったのだと、恋次は気づいた。
 栗原の目に微笑が浮かぶ。
「平たく言えば、伝統……かな」
 向かい合う篠ヶ崎の二人へというよりは、横に並ぶ後輩へ言い聞かせるような声だった。
「だから、後の二代は76代の作った激流に翻弄されたって、さっき言ったけど、たぶんそれはあの人の本意じゃなかったと俺は推測してる。ガッくんが訊いたように、企画についてももちろん意図はあったんだろうけど、それをあの人の口から聞いた人は誰もいない――と、俺は先輩から聞いた」

 ……それは、つまり――。

教えられるな。自分で気づけよ

 会ったこともなければ、話したこともないその人の声が聞こえた気がする。
「へえ……なんか、かっこいいっスね。だって普通、生徒会長っていう立場に立ったら、自分の軌跡を次代に残したいって思うもんじゃないスか? そういうふうに、改革っていうの? やりたいことがあったんなら、なおさら。俺は会長どころか、部活の部長もやったことないからわかんないスけど……なあ、ガッくん? ガッくんはどう?」
「……俺の話は、今はいいだろ」
「さてと、俺の出番はここまで。さ、話せよ、須賀。自分の兄貴のことだろ」
 栗原の言葉に松岡と宇野が揃って目を丸くした。
「え、お兄さん?」
「その76代会長さんって、須賀さんのお兄さんなんスかっ? あ、だからさっき月島さんは特別≠チて……」
「お膳立てはここまででいいよな」
「ありがとう、栗原……って、あたしが言うとでも思った?」
「そう言うなって。どのみちガッくんの質問に答えられるのはおまえしかいないだろ」
 あ、とそこで恋次もわずかに目を見張る。

『三年経って、あの人を知る人が誰もいなくなったこの年に、支部報に載る会長がおまえってのは、やっぱり運命だったのかもな』

 須賀の横顔に重なる、今日の栗原の言葉。
 あのときの須賀は、どんな表情でその言葉を聞いていただろうか。
「あの……話しづらいことを無理やり聞き出すつもりはありません。質問といっても、俺の個人的な興味だし。76代……須賀さんのお兄さんがあえて言葉にしなかったものを、俺たちが記事にする資格も理由もないと思ってますから」
 松岡が言えば、須賀の表情がふと和(やわ)らいだ。
「ごめんね、気を遣わせちゃって。でも、大丈夫。ここで聞いた話をどう活かすかは、松岡くんたちの自由だから」
「須賀さん……」
「それと、梅田にとってもね」
「え?」
 にこ、と穏やかに笑んだ須賀が、何かを思い切るように一つ息を吐く。
 その横顔は誇りで満ちていた。いや、それだけじゃない。そこにあるのは、誇りと、何かの強い想い。
 その綺麗な笑顔は、まるで――。
「前置きになっちゃうけど……栗原が話したように、この生徒会主催企画について第76代会長が自分の言葉で説明したことはないと思う。もちろん、あたしが何か直接聞いたということでもないの。だから、今から話すことは、こうして九条会の会長という立場になって自分なりに気づいたことがある中で、なおかつ妹としてあの人のことを振り返ってみてあたしが思うこと。それが正解かどうかはあの人の胸のうちに聞いてみないことにはわからない。でも……家族じゃなくたって、きっと同じことを感じた人がその当時にもいたって、信じたいんだ……」
 苦笑顔で肩をすくめた須賀に、栗原は穏やかに笑い、月島は表情一つ変えずにテーブルの上のパンフレットを見つめている。そのパンフレットを、須賀の手がそっと引き寄せた。
「『The Orders of King』、第76代会長がこの企画に込めたのは……九条生への痛烈な皮肉」
「九条生(俺たち)への、皮肉……?」
 恋次が聞き返した、そのときだった。
 バン、と勢いよく会室の扉が開いたかと思うと、一陣の風のような声が飛び込んでくる。
「恋次くん、助けて! 入倉が……ッ!」


→ → →


(※1 この物語はフィクションです。本文中に書かれていることはあくまで『虹色シャボン』内でのルールであり、
現行制度をそのまま取り入れて書かれているものではありませんので、ご了承ください)


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