* * *


 壁の時計は午後4時半を差している。
 全日制の生徒の完全下校は5時半。部活動は5時までと定められている九条だが、その刻限まではまだ少し間がある。にもかかわらず、早々と帰り支度をさせられているのは男子バスケ部の面々。換気扇が回っているとはいえ、そう広くもない更衣室は梅雨の湿気と人いきれでたちまち蒸した。
 暑いのは季節のせいだけでもないらしい。「もっと練習がしたい」と口々に不平をこぼす輪の中で一人、急いで汗に濡れたTシャツを着替える直也を、岡田がにやにや笑いで眺めていた。
「あれれ、なーにをそんなに急いでるのかなー、直也くん」
「…………」
「誰かと約束でもしてるのかなー」
「…………」
「あ、そうか。今日はこれから楽しい楽しいデートだったっけ」
 岡田のわざとらしい台詞が終わるのと、直也がパタンとロッカーの扉を閉めたのは同時だった。
 そして、
「直也がデートっ?」
 部員たちのすっとんきょうな声が響き渡るのも、また同時。
「女なんか興味ねえって言ってたやつが、いつのまにっ?」
「相手は誰だっ?」
「うち(九条)の女子かっ?」
「えーっ、入倉さん、彼女いたんスかっ?」
 ただでさえ蒸し暑いこの部屋に、たちまち蒸し風呂のような熱気が充満した。
「直也先輩、今の話マジですかっ?」
 部員の中でひときわ小柄な1年生が着替えもそっちのけで詰め寄ってくる。直也は自分とよく似た髪色の後輩の頭をぐしゃぐしゃと乱暴になでまわし、ぐい、と突き放した。
「彼女じゃねえし、デートでもねえよ。ただ一緒に買い物するだけだ」
「それをデートっていうんじゃないスか!」
「…………」
 拗ねた顔の相手にすかさず切り返されて、直也は思わず沈黙する。
 その様子に、今度は笑い声がこの部屋に満ちた。
「ミクの言うとおりだぜ」
「早く行けよ、直也。邪魔してやろうなんて野暮なことは言わねーからよ」
「俺たちぜーんぜんうらやましくないもんな」
 言葉とは裏腹にどことなく恨みがましい目つきのチームメイトたち。きっと後で根掘り葉掘り今日これからのことを聞き出されるに違いない。明日の部活が思いやられる、と直也は顔をしかめつつ、制服の代わりにTシャツの上に羽織った濃紺のパーカのファスナーをきゅっと引き上げた。
「それじゃ、お先に上がらせてもらいます」
「おう、お疲れ」
「がんばれよ」
「穂積によろしくー」
 最後にまたよけいな一言を投げてくれた相棒をひと睨みして、直也はさっさとこの場から退散する。案の定、閉じた扉の向こう側では「それが彼女の名前なのか」と岡田を質問責めにする部員たちの声で埋め尽くされていた。
「充のやつ……」
 覚えてろ、と短い舌打ちを肩越しに放り、校舎3階の廊下へと続くガラス戸を押し開けた。
 電気がついているとはいえ、陽の入らない雨の放課後の廊下は薄暗い。
 西の端のここから東の端にある2年1組の教室へと向かう間にすれ違った生徒はほんの数人だった。この雨で校庭を使えずに休みになった部もいくつかあるのだろう。いつもならばもう少し感じられる活気が、今日はどこからも聞こえてこない。
「陸部も休みか……」
 今日は陸上部のオフ。龍太もとっくに下校しているだろう。
 龍太を元気づけるためというなら、直接龍太を誘って三人で過ごしてもよかったが、龍太が傷に触れられるのを拒んでいる今はそっとしておくしかない。その傷を癒せるのはきっと、十四年来の幼なじみ≠セけ。

『あたしたち、黙って見てるしかないのかなー……』

 昨日の寂しげな穂積の横顔を思い出す。
 もどかしさにもう一度短い舌打ちを鳴らしたとき、2年1組のHRである301教室が見えてきた。
 中をのぞく前から、何やら楽しげな笑い声が聞こえてくる。そっと教室前方の出入り口に立つと、窓際にたった今思い描いていた相手と仲睦まじく話している友人の姿があった。声をかけるのをためらった一瞬に、向こうが気づく。
「おう、直也。お疲れさん」
「あれ? もう部活終わったの?」
 絹田の隣で穂積がきょとん、とこちらを見返した。
「顧問の都合で今日は早く終わった、から……」
「そうなんだ」
「あ、悪ィ。メールすんの忘れてた……」
「ううん、いいよ、そんなこと。どうせ、ここで待ってただけだから」
 明るい声と一緒に、長い黒髪が弾んで揺れる。ちょっと待ってね、と急いで帰り支度を始める穂積より先に絹田が席を立ってこちらへと歩いてきた。すれ違いしなに、ぽん、と肩を叩かれて見やれば、意味深な笑顔がある。
「どうせ素直に言えないんだろうから、一つだけアドバイスな……」
 ついで耳元でささやかれた言葉に直也は一瞬、目を見張った。
「べ、べつに俺は――」
「お待たせ、入倉」
 言い返そうとした言葉は、穂積の笑顔の前でかろうじて飲み込む。それでもこの場に流れる意味深な空気に気づいたのか、穂積が小首を傾げて絹田とこちらの顔を見比べた。
「どうしたの、二人とも」 
「なんでもねえよ」
 短く吐き捨て、直也は先に歩き出した。
「それじゃ、また来週な、お二人さん。あ、あさっての試合がんばれよ、直也」
「おう、サンキュ」
「バイバイ」
 西門を出てメトロ・九条駅に向かう絹田とは正面玄関で別れ、穂積と二人、並んで正門のアーチをくぐる。
 体育館にいたときには激しいどしゃ降りだったのが、今はいくらか弱まっている。とはいえ、通りを寄り道をして歩く色とりどりの制服姿は晴れた週末と比べ、だいぶ少なく見えた。狭い歩道をこうして傘を差して並んで歩くには都合がいい、と隣を見下ろせば、ちょうど相手もこちらを見上げたところ。ホットピンクの傘の色が映り込んで、ほんのりと頬がかわいらしい色に染まっている。
 目と目が合ったのは、ほんの一瞬。
「…………」
「…………」
 二人はすぐに右と左に目をそらした。
 二人きりで出かけるのが初めてというわけではない。それなのに変に意識してしまうのは、デートだなんだと派手に騒ぎ立てた岡田と、よけいな耳打ちをしてくれた絹田のせい。自分のせいではないのに、どうしてこんなに耳が熱いんだ、と直也は己の髪を無造作にかきやった。やけに鼓動が大きく聞こえる耳を髪で隠していると、めずらしくしおらしい調子の穂積の声が聞こえてくる。
「あのさ、今日、ごめんね。大事な試合前に誘って……」
「……べつに、前日ってわけじゃねえし……龍太のためだし……」
「そ、そうだよね! 大事な龍太のためだもんね! べ、べつにデートしてるわけじゃないもんね!」
 そう穂積が声を張り上げた刹那、ちょうどすれ違った女子大生と思われるグループがこちらを振り返り、くすくすと笑いをこぼしていった。
「おまえ、声でかい……」
「ごめん……」
 しゅん、と肩を落とした穂積を見下ろして、ふっと直也もまた笑みをこぼした。
「……今日、誘ってくれてサンキュ」
「え?」
 今度はきょとん、とこちらを見上げる友人の顔を見れば、しだいに胸の鼓動が落ち着いていく。傘を叩く雨音に耳を傾けながら、直也はぽつり、つぶやいた。
「俺もおまえと同じ気持ちだったから……」
 大好きな友だちが落ち込んでいるのに、黙って見ているしかできないのがくやしいと言っていた穂積。
 それは直也にとっても同じだった。
 ただのクラスメイトとも違う。部活のチームメイトとも違う。考えても陳腐な表現しか浮かんでこないが、自分にとって龍太は大事な友人。特別な、友人だ。
 先月、他校生に絡まれて傷を負った龍太の姿を見て、「龍太を傷つけるやつは許さない」と頭に血を上らせて走った日のこともまだ記憶に新しい。
 そう、たとえ相手が誰であれ、龍太を傷つけるやつは許さない。
 本当ならば恋次の胸倉つかんで責め立ててやりたいところだ。「誰よりわかってやれるはずのおまえが、あいつを泣かせてどうするんだ」と。
 だが、そうしたところで何の解決にもならない。龍太はそんなことを望んでいない。龍太が何も自分の口から言わない以上は、黙ってそばで見守っているしかできないのだ。それが、もどかしい。それが、くやしい。
 だから、たとえ龍太が落ち込んでいる理由そのものを解決してやることはできなくても、たとえ無駄なあがきだったとしても、こうして龍太のためを想って足を動かしていられるのは心地いい。単なる自己満足かもしれないが、龍太を想う自分をなぐさめられる気がする。
「だから……」
 サンキュ、と。
 もう一度つぶやいた声は雨音にかき消されそうなほど小さいものだった。けれど、隣を歩くもう一人の特別な相手の耳にはちゃんと届いたらしい。
「……うん」
 目と目が合ったのは、ほんの一瞬。
「…………」
「…………」
 何も言わずに互いに目をそらす二人。
 そうして穂積がまなざしを向けた先に、一軒の雑貨屋があった。
「あ、あそこ入ろうよ。龍太が好きそう」
 通りから少し奥まったビルの一階。張り出したポーチの下に並んだワゴンにたくさんのカラフルな雑貨が入っていて、通りを歩く若者たちの目を引いている。
 穂積に腕を引かれてそちらへと歩きかけた直也だったが、ふとその足を止めて背後を振り返った。
「…………」
 どこかから、視線を感じたような気がする。だが、振り返った先にあるのは雨に濡れて光る街路樹と、走り去った車が土産に残した水しぶきだけ。
「ね、見てみて、入倉。かわいいでしょ。ほら、ゾウさんだぞう(・・)
「…………」
「……黙殺することはないじゃない。ねえ、入倉ってば」
 穂積の温かな手に再び腕をつかまれる。その瞬間、視(み)られている気配がすっと遠のいた。
「入倉? どうしたの?」
 誰かいたの、と不思議そうにこちらの視線を追う穂積に、いや、と短く首を振って、直也は傘をたたんだ。
 きっと、気のせいだ。いや、仮に見られていたのが本当だったとしても、どうせ視線の主は騒がしい部員の誰かに決まっている。
 明日の部活が思いやられる、と直也は再び顔をしかめつつ、穂積の後に続いて明るい店内に足を踏み入れた。


 
*


「意外と早くいいものが見つかってよかったね」
 小さな星柄の包みを眺め、満足げに穂積が自分のカバンへとしまう。
 高校生や大学生らの若者でにぎわうファーストフードの店内、その窓際のカウンター席に並んで腰かけた直也と穂積だ。トレーの上のドリンクにさっそく手を伸ばしながら隣を見やった穂積が小首を傾げる。
「どうしたの?」
「どうしたって、何が」
「今日の入倉、やたらきょろきょろしてない?」
「してねえよ」
 つぶやいて、直也もまなざしをトレーの上へ。野菜をたっぷりはさんだバーガーにかぶりつきながら、それまでしきりに辺りの様子に尖らせていた神経をようやく休めた。
 学校を出てからというもの、どこからか誰かに見られているような気がしてならない。始めこそ、チームメイトらの子どもじみた悪戯かとも思ったが、違うようだと気づいたのは、龍太へのプレゼントを探すためハシゴしてまわった何軒目かの店を後にしたときのこと。

 ――しつこすぎる。

 そう、思った。
 自分たちのデート≠こっそりのぞいてやろうと軽はずみな思いつきだったにしては、いくらなんでもしつこすぎる。それに、あさっての大一番を前に、こんな冷たい雨の中をどこへ向かうともわからない相手の後をつけてまわるなんてバカげたことだと、誰だって思うはず。
 けれど、それならばいったい誰が、と辺りをそっと見回しても、視線の主はいっこうに姿を現さなかった。途中、この視線に覚えがあるような、と一瞬思ってはみたものの、嘘のように気配のない今、それを思い出すこともできない。そう、視線を感じるのは外を歩いているときだけで、店の中までそのうるさい視線がついてくることはなかった。
 ということは、少なくとも今のうちは安心していていいわけだ。
 だからといって、今日これまでにさんざ押しつけられた不快感への苛立ちが消えるわけもなく、ハンバーガーをかじる直也の表情は不機嫌きわまりないしかめ面。
 直也のしかめ面には見慣れているはずの穂積も、そっと眉をひそめた。
「なに怒ってんの?」
「怒ってねえよ」
「嘘。あたし、何かした?」
「おまえじゃねえ」
 穂積のせいじゃないのだ、としかめ面を改めない直也の台詞に、穂積が今度は小首を傾げる。
「じゃあ、誰のせい?」
「…………」
 直也はハンバーガーを噛む顎を休め、じっと友人の顔を見下ろした。
「……なあ」
「なに?」
「おまえ……いや、いい」
「え?」
「なんでもねえ」
 気づいているか、と訊ねようとして、すぐに思い直した直也だった。これまでの様子を見れば、穂積が何も気づいていないのは明らか。だったら、下手に不安がらせないほうがいい。自分ですら何が起こっているのかわからないのだ。ここまでまとわりつく視線を単なる自意識過剰で片づけられるとはとても思えないが、今は見えない相手のことは自分の胸にしまっておくべきだろう、と直也は結論づけた。穂積が気づいていようが気づいていまいが、自分が取るべき行動は決まっている。
「言いかけといて途中でやめないでよ。気になるでしょ」
 そんな直也の胸のうちを知ってか知らずか、穂積は言葉の続きをせがんで待つ様子。
「……おまえが鈍感でよかった」
 変わらぬ表情で直也が仕方なしにそうつぶやきこぼせば、
「鈍感って……そんなこと入倉に言われたくない」
 思わぬ穂積の強い調子に、直也はくわえかけたドリンクのストローから口を離した。
「どういう意味だよ」
「ほら、全然わかってない」
 埒(らち)もなく返されて、直也はしかめ面をいっそう濃くした。
 ふい、と顔を背けた穂積が、ガラスの向こうの通りへとまなざしを向ける。何かに迷うようだったその横顔が、やがて意を決したように口を開き、
「あのさ、入倉って……亜稀(あき)のこと、どう――」
 誰かの名前を口に上らせたそのとき、
「うわっ、やっちった!」
 ガシャン、とグラスの倒れる派手な音と、慌てふためく声がすぐそばで聞こえた。
 振り返れば、同じカウンターテーブル、穂積とは一つ間を挟んだ席に座っていた男子高校生が、どうやら本を読みながらの食事の途中、手を滑らせたらしい。倒れたグラスからこぼれたアイスティーが白いテーブルに幾筋もの褐色の線を描いていた。
 さらに二つ向こうに座っていた客が迷惑そうに顔を背けて立ち上がる。それを申し訳なさそうに見送った彼が、こちらを振り返った。
「ごめんなさい、濡れませんでしたか?」
「大丈夫です。あの、よかったらこれも使ってください」
「ありがとうございます」
 穂積が差し出した紙ナプキンを礼儀正しく受け取る相手を、直也はつい、まじまじと見返した。
 白シャツに紺のズボンのオーソドックスな制服姿。卵形の整った輪郭、きりっと描かれた涼しげな眉目(びもく)に短い黒髪がひどくよく似合う。そんな顔の造作よりも、相手が椅子に腰かけていてさえわかるほどの長身であることに気づいて、直也は心中舌打ちした。
 舌打ちの相手は無論、彼ではなく己自身。幼い頃から背の高い相手を無意識に憧れの面持ちで仰いでしまうくせが、いまだに抜けていない。呆れ半分、くやしさ半分にまなざしをそらそうとした直也だったが、テーブルの上に置かれていた高校生の本に、ふとその目が吸い寄せられた。

 ――弓。

 ああ、いかにも恋次の隣にはこんな男が似合いそうだと勝手に想像して、人知れず苦笑する。
 弓道部のある高校も別段めずらしいわけではないだろうに、弓と聞けば恋次の顔しか思い浮かばない己の世界の狭さに苦笑するのだ。
 そういえば、なぜ恋次は弓道部のない九条を選んだのだろう。そんな疑問をふっと胸のうちに浮かべているうちに、高校生はテーブルの上にこぼれたアイスティーを一滴残さず拭き取り、食事の終えたトレーを持って席を立った。
 ほんの一瞬、なぜだか懐かしむような羨(うらや)むようなまなざしをこちらに向けた後は、
「どうもご迷惑をおかけしました」
 今時めずらしいほどの律儀さとさわやかな笑顔を残して、去っていく。
 穂積が感心したようにため息をついた。
「恋次くん以外にも、ああいう人っているもんだねー……」
 その一言に、今度こそ直也は苦くない笑みをこぼす。どうやら考えることは同じらしい。
 穂積も直也のこぼした笑みの意味をすぐに察したのか、先ほどまでの拗ねた顔はどこへやら、屈託のない笑顔で直也へと向き直った。
 そうして、
「途中になっちゃったけど、入倉ってさ……」
「俺が、なんだよ」
「入倉って、亜稀のこと……」
「亜稀=H」
「う……や、やっぱり何でもない。今のは忘れて!」
 何かを言いかけたかと思うと、大慌てで首を振って、再び窓の向こうへとまなざしをそらした。
「……亜稀って、野村のことか? 1組の」
「だから、いいってば! やっぱり今はまだ聞きたくない!」
「は?」
 わけがわからずに、どういう意味だ、と直也が再び問うと、今度はなぜだか隣に座る横顔が少しほっとしたよう。
「言いかけといて途中でやめるなって言ったのは誰だよ」
「だから、お互い様でしょ」
 結局、穂積の口からその話の続きが紡がれることはなかった。
 それからはいつものように取り留めのない会話と口げんかをひとしきり楽しんで、店を後にした。
 学校を出たときにはいくらか弱まっていた雨がまた少し強さを増していた。学生たちのほかに勤め帰りと思われる姿が見え、通りを歩く人の数もにわかに増している。
 人波を避けつつ通りへと足を踏み出しながら、直也は唐突に思い出した。
 穂積が口にしていた亜稀≠ニは、2年1組の生徒である野村亜稀のこと。直也にとって友人でもなければクラスメイトでもない彼女だが、一度だけ接点があった。
 先月の始め、陸上部の3年生である柚木の故障のことで、やはり龍太が落ち込んでいたときのことだった。龍太の様子を心配して1組を訪ねれば肝心の相手の姿はなく、代わりに穂積と口げんかをして帰りかけた自分に声をかけてきた女子が、いた。

『――あ、入倉くん! えっと、その……5日に練習試合があるんでしょ? が、がんばってね!』

 それまでほかの生徒からバスケ部へ応援の声が掛かることなどなかったから、正直驚いた。だが、それだけだ。そのとき自分がなんと返したかも覚えていないし、彼女の名前すらそのときは知らなかった。
 彼女が、野村だったはず。とはいえ、接点はそのただ一度きり。それからは挨拶も交わしたことがない。
 そんな相手のことを今さら気にする理由はなんだ、と解せなく思う心の片隅で、やはり思い出したことが一つ。いや、思い出したというより、気づいたことが、一つ。
 バスケ部が九条の生徒からまるきり応援されていなかったわけじゃない。こんなにも身近な友人がずっと応援してくれていることを知らなかっただけだ。
 そっと、隣を見下ろす。
 今月のインターハイ予選の初日。試合後の人波の中に思いがけず見つけた、その横顔。
 翌週の試合会場にも、穂積はいてくれた。試合前には緊張と昂りで忘れていたが、試合終了直後、ふと視線をめぐらせた観客席の片隅に弾ける笑顔を見つけた。自分たちの勝利を心から喜んでいてくれた。全身で、喜んでくれていた。
 それなのに、自分は何も返していない。相手が何も知らないフリをしているからと、自分もそれに甘えて知らないフリをしている。
 ありがとう、と。感謝の言葉一つ、言えずにいる。
「…………」
 直也はぐ、と奥歯を噛み締めた。ぐ、と傘の柄を強く握り締めた。それでも胸の奥からしきりに湧き上がってくるものをどうにも堪(こら)えかねて、流れる人波の途中、足を止める。
「……穂積」
 隣を歩く少女に呼びかけた、そのときだった。
 ぞく、と背筋を何かが這い上がった。とっさに背後を振り返れば、十数メートル先で、す、と人影が建物の陰へと隠れるのが視界の端に映る。
「どうしたの、入倉」
「いや、べつに……」
 何も気づかないフリで直也は再び歩き出しながら、そっと背後の気配に全身のアンテナを張り巡らせる。
 少し遅れて、人波に紛れるようにして先ほどの人影が建物の陰から再び通りへと姿を現した。パーカのフードをすっぽり被り、さらにキャップを目深に被っているようで、顔の造作はもちろんのこと、表情もここからでは窺(うかが)うことができない。
 だが、相手から向けられているだろうその視線の仄暗(ほのぐら)い青白さには、やはり覚えがある。今日これまで感じてきたそれと同じ。いや、今日だけじゃない。いつか、以前にどこかでも感じたはずだ、と体の奥の何かがしきりにざわつき始めた。
 そうだ、今となっては、はっきりわかる。これは無邪気なチームメイトなんかじゃない。無言の視線から発せられるその明らかな悪意に、背中を嫌な汗が伝う。
「……穂積、傘閉じろ」
「へ?」
 直也は自分の傘を閉じると、それまで着ていた濃紺のパーカのファスナーに指をかけた。
「早く」
「だって、濡れちゃうよ――わっ」
「駅まで走るぞっ」
 問答無用で自分のパーカを穂積の頭から被せると、彼女の細い手首をつかんで駆け出した。
 ちら、と見やった通りの向こうでも、行き交う傘の群れの中でビニール傘が二つ、慌てたように動き出すのが見えた。つまり、相手は一人じゃないということだ。
「くそ……」
 駅まではただの一本道なのに、今日はその道のりがひどく遠い。あいにくと、今日は花の金曜日。傘をたたんでも、狭い歩道にあふれ返る人波を避けながら走ることが難しい。
「い、入倉、ちょっと待って……っ」
 一軒のファミリーレストランの前で穂積が足を止めた。ここまで駆け通しで息が切れたらしい。繋いだ手もそのままに、反対の手を膝について肩で大きく息をついている。
「大丈夫か?」
「ん、ちょっとだけ、休憩させて……」
 逸(はや)る気持ちを抑えて直也が通りを見れば、こちらを追っていたはずのビニール傘がいつのまにやら姿を消している。目を凝らした人波の中にも先ほどのパーカ姿の人物は見当たらない。ここまで駆けてくる間に、うまくまけたのかもしれない。ほっと小さく息をついて、直也は目の前の友へと再びまなざしを向けた。
 荒い呼吸を繰り返す細い肩を見下ろして、ぐ、と眉根を寄せる。執拗(しつよう)につけ狙われる理由もわからなければ、相手の顔もわからない。わかっていることといえば、一つだけだ。
 穂積が顔を上げた。
「いきなりどうしたの? 入倉」
「…………」
 もっともな問いへどう答えたものか迷いながら、直也はずり落ちた穂積のパーカを直してやる。次の瞬間、ぎく、と直也はその手を止めた。
 目の前のレストランの大きな窓に表の通りの様子が映り込んでいる。その景色の中に、一度は消えたはずの三つの人影が映っていた。ビニール傘を持った二人とパーカ姿の一人が合流して、今は車道を挟んだ向こう側。
「穂積、まだ走れるよな」
「え? うん、大丈夫だけ――わっ」
 穂積の返事を最後まで聞かずに直也が駆け出すのと、通りの向こうの三人がこちらに気づくのとはほぼ同時だった。
 と、目の前の信号が赤へと変わる。ひっきりなしの車の往来に行く手を遮られて、直也は激しく舌打ちした。私鉄のささ川橋駅はこの橋を渡った先だ。もうそこに見えていながら足止めをされる状況に、よけいと苛立ちが増していく。
 反対に、今が好機とばかりに、身軽にガードレールを飛び越えて通りを渡ってくる三人の姿を視界の端にとらえ、直也は穂積の手を引くと迷わず右へ折れた。
「ちょっ……入倉、どこ行くのっ?」
「南口まで走る」
 いつも利用している北口ではなく、反対の南口へ。とにかく駅ビルの中へ入ってしまえば、こちらのものだ。身を隠す場所などいくらでもある。だから、そこへたどり着くまでは脇目を振らずにひたすら走るしかない。
 半歩後ろを必死でついてくる穂積を肩越しに振り返った。
「悪ィ、巻き込んで」
「ね、今、これ、どういう、状況? あたしたち、なんで、逃げてんの?」
「俺にも、わけわかんねえよ」
 あえぎあえぎ訊ねる穂積に、直也は顔をしかめて吐き捨てるだけだ。説明してやれるだけの答えを何も持ち合わせていないのが、腹立たしい。執拗につけ狙われる理由もわからなければ、相手の顔もわからない。わかっていることといえば、ただ一つ。己の取るべき行動だけだ。
「傷つけて、たまるか……」
 低くつぶやき、直也は穂積の左手をつかむ右手に力を込めた。
 狙われているのが自分一人ならばすぐにでも別れるところだが、相手の意図が読めないからこの手を離すこともできない。離してたまるか、と直也はぐ、と奥歯を噛み締めた。
 離してたまるか。
 傷つけてたまるか。
「絶対、俺から離れるなよ」
 返事はぎゅっと握り返された手の温もりから伝わってきた。
 目抜き通りから一本それた路地には行き交う人の数もぐっと減る。先ほどまでのもどかしさが嘘のようだ。最短距離にこだわらずに始めから路地を行けばよかったかと、自分の選択を省みつつ、前方を見据えれば、シャッターの降りた商店の角で少年が一人、人待ち顔で立っている。
「あの角、左に曲がるぞ」
 穂積へと声をかけながら、近道となるさらに細い路地へ入ろうとした刹那、
「!」
 何が起きたのか、すぐにはわからなかった。
 周りの景色がスローモーションで流れ、ああ、自分は何かにつまずいたんだ、と思ったときには、手を繋いだ穂積もろとも雨に濡れるアスファルトの上へ勢いよく倒れ込んでいた。
「痛ッテ……!」
「あいたた……」
 大丈夫か、と隣の友人を気遣おうとした直也の前に、ゆらりと影が落ちる。
「悪い、俺の脚が長すぎたみたい。そこまで派手に吹っ飛ばすつもりはなかったんだけど」
 見上げれば、店の角に立っていた少年だ。
「女の子、大丈夫? ごめん、せっかくのかわいい顔に泥がついちゃった」
 かけられた声音の穏やかさに一瞬、毒気を抜かれた。
 きょとん、と目の前の相手を揃って見上げた二人だったが、直也はすぐにわれに返ると穂積の手を引いて立ち上がった。
「何、しやが……」
「あっ、サンキュー! ノリ! あやうくまた見失うところだった」
 けれど、文句を最後まで言い終わらないうちに、新たな声と足音が辺りに響く雨音をかき乱す。
「先回りしてるなんて、さすが俺たちん中で一番頭いいだけあるね、ノリは。頼りになる」
 そう言って、にこ、と目の前の少年へと微笑みかけるのが、パーカ姿の少年。
 仲間だったのか、と直也はとっさに穂積を背にかばい、じりじりと後じさる。
「入倉……」
 穂積の声に、ちら、と肩越しに見やれば、いつのまにやら背後の狭い路地の奥から二人の人影が姿を現した。その手にはもうないが、ビニール傘を持っていた二人だろう。瞬く間に前後をふさがれて、逃げ道を失った。
「くそ、ミスった……」
 舌打ち混じりにつぶやいて、直也はパーカの少年へと向き直る。
 耳の奥では今日の伊藤との会話が今また流れていた。

『篠ヶ崎って私服なんですか?』
『篠ヶ崎が私服というより、この支部で制服があるのはうちだけだよ』

 そして脳裏をよぎるのは、校門前に私服姿の少年たちが集まっていた先日の光景。あのとき、校舎から見下ろす自分に気づいた彼らは皆、逃げるようにして足早に去っていったものだった。
 九条生とあちらとは以前から親しい仲だったという伊藤の言葉が、どうにも似つかわしくないようだと顔をしかめつつ、
「おまえら、篠ヶ崎か? 篠高(しのこう)が俺に何の用だ」
 低く問いかければ、相手が一瞬、驚いたように隣に立つ仲間と、ちら、と目を見交わした。
 くっ、と喉の奥で笑ったのは、もう一人のほう。
「何て言われてたっけ……そう、特色がないのが特色の篠高生(しのこうせい)≠セ。そんな俺たちのことを知っててもらえるなんて光栄。なあ」
 同意を求めるように、彼は隣に立つパーカの少年へとまなざしを戻す。
 と、その少年がおもむろに、それまで被っていたパーカのフードを脱いだ。白いキャップの奥からのぞく瞳が、雨に煙(けぶ)る街並みを流し込んだような灰色だった。その灰色の瞳が、にっ、と笑ったかと思うと、少年が足下にガムを吐き捨てる。
「さーて……お楽しみはこれからだよ、山猫くん」


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