LESSON 7 : き荒れる嵐





「龍太、もう帰るの?」
 放課後の2年1組の教室。
 授業が終わるなり、足早に教室を出ようとする龍太の背中にクラスメイトの穂積が声をかけた。
 足を止めて振り返った龍太は、うん、と小さな声でうなずく。
「今日は部活休みだし……行きたい所があるから」
「行きたい所?」
 それはどこ、と言外に問う相手に、龍太はにこ、と笑うだけ。
「それじゃ、みんな、また来週!」
 いつものようにクラスメイトらに手を振って、龍太は教室を後にする。
 その表情や声とは裏腹に寂しげな細い背中を見送って、穂積は小さなため息をこぼすと立ち上がった。そうして向かったのは、窓際の龍太の席。まだ龍太の温もり残る椅子に腰を落ち着けながら、ちら、と目を落とすのが、机の上に置いた携帯電話。
「バスケ部が終わるのが5時か……龍太の元気が出るプレゼント、何がいいだろ……」
 机に両手で頬杖をつき、待ち人の顔を思い浮かべながらそっとつぶやくところに、
「お、健気な顔しちゃって」
 楽しげなつぶやきが降ってくる。
「なによ、絹田」
 穂積の見上げた先に、明るい金茶の髪がさらりと揺れている。呼ばれた相手は、つれないほどに整った顔を、に、と笑みにゆがめて、穂積が座る龍太の席の一つ前に腰を下ろした。
「自分から誘ったんだって? やるじゃん。ようやく本気で勝負かける気になったのか」
「そんなんじゃないもん。今日は龍太のために――」
「あー、はいはい。そういうことにしといてやるよ。理由はどうあれ、絶好のチャンスだろ。龍太のため≠チていう隠れ蓑(みの)でもないと、おまえら二人きりでデートなんてできないんだから」
「隠れ蓑って、人聞きの悪いこと言わないでよ」
「じゃあ、大義名分?」
 む、と顔をしかめる穂積に、絹田はからかう声色のまま、同じ机に片肘で頬杖をつく。
「まあ、お手並み拝見といこうか」
「うわー、なにその高みの見物気取り」
「気取りじゃなくて、高みの見物してるんだよ」
「あ……あの、穂積ちゃん」
 間近に見合う相手を絹田が再びからかう横から、今度は違う声がかけられた。
「あたしたち、これから《清月庵(せいげつあん)》に寄っていくんだけど、もしよかったら穂積ちゃんたちも一緒に行かない?」
 1組の女子が数人、淡い期待に目を輝かせて立っている。
 そちらを見やって、まずは穂積が、
「ごめんね、今日はあたし約束があって……誘ってくれてありがと」
「俺も先約があるから」
 続いて絹田が、ごめん、と優しい微笑を向ける。
 やんわりと袖にされた相手は、そう、と残念そうに短くつぶやいたものの、
「それじゃ、またね、絹田くん、穂積ちゃん」
「うん、バイバイ」
 絹田に手を振られ、まんざらでもない顔つきで教室を出ていった。
「絹田くんと初めてしゃべっちゃった!」
「おめでとー、やったね」
「絹田くんと仲良くて、穂積ちゃんがうらやましい」
 そんなはしゃぎ声ばかりが二人の耳に残される。
 彼女たちを見送って、穂積は苦笑顔。
「なにもあたしをダシにしなくても、始めから絹田を誘えばいいのに。ね、学年一の美少年さん?」
 からかわれた仕返しとばかりの穂積の台詞。
 けれど絹田はどこ吹く風の表情で、
「そういえば、先約って? 時間は平気なの?」
 穂積の問いかけにも頬杖をついたまま、ちらりと黒板の上の時計を見上げて言った。
「暇だから、バスケ部が終わるまで誰かさんにつき合ってやろうかと思ってさ」
「へえ、優しいところあるじゃない」
「ついでに、あいつがあの入り口から現れた瞬間におまえがどんな顔するのか見てやろうかと思ってさ」
「やっぱり今の前言撤回する」
 む、と再び顔をしかめる穂積に、くす、と絹田は笑みをこぼす。
「……もしダメでも俺がおまえを拾ってやるよ」
 本気とも冗談ともつかない相手のつぶやきをさらりと聞き流して、穂積は教室前方の出入り口へと目を向けた。
「それにしても、恋次くんにもやっぱり過去ってあったんだね……」
 数日前の出来事を思い出す顔つきでぽつり、つぶやけば、ふっと絹田が整った顔に苦笑を浮かべる。
「過去のない人間なんて、どこにもいないだろ」



 
* * *



 放課後のざわめきとともに、恋次は2年7組の教室を後にした。
 隣には、これから部活へと向かう寿人の姿。あさっての日曜日にはインターハイ予選の4回戦が控えているはずだが、ポッキーをかじりかじり歩くその横顔からは、負けられない一戦への気負いというものはまるで感じられない。
「次の相手、シードの涼星(りょうせい)だろ? 大一番だな」
「うん、ほんとに大一番」
 うなずきながらも、寿人の横顔は相変わらずひょうひょうとしたまま。
「……膝は大丈夫なのか」
 よく雨は痛むって聞くけれど、と。
 周囲に人がいないことを確認して、そっと声音低く訊ねれば、ほんのり悪戯な笑みで見上げられた。
「大事な幼なじみならともかく、他人の心配をする梅田はめずらしいね」
 表情には茶目っ気があるが、言葉は辛辣(しんらつ)。
 言われて、恋次はたまらず苦笑を噛んだ。確かにそうかもしれない、と。
 単に気にかけることと、心を配ることとは別なのだ。この数日、幾度となく感じてきたことを今またこの喉元に突きつけられた。だが、その相手が寿人だと、なぜか悪い気はしない。
 ――いや、違う。
 ぴた、と恋次は廊下を歩む足を止めた。
 この数日は感じていただけだ。クラスメイトに労われて素直にそうと喜べない自分に。やって当然のことをしているだけと全てを突き放している自分に、己自身で感じていただけ。それを言葉ではっきりと他人から突きつけられたことはない。
 先日の跡取り息子云々というジロの言葉とは違う。あれは言ってみれば見てくれのこと。ジロの言葉がなでたのがこの胸の表層だったとすれば、今の寿人の言葉はより深い場所にするりと潜り込む。それこそ、ジロの言葉はいつかほかの誰かも言ったかもしれない。だが、今の寿人の言葉は――。

 ……なんで、綾井にそれ(・・)がわかる?

 心中で問いかければ、まるでその声が聞こえたかのように寿人が振り返った。
「梅田? どうしたの?」
 人好きのする笑顔に、ふわり心をくすぐられる。
 唐突に昨日の昼休みの情景が脳裏をよぎった。

『俺さ……梅田といると、気が楽』

 二度目の苦笑を頬に浮かべ、恋次は再び歩き出した。
 隣に並ぶ亜麻色の友人を見下ろせば、知らず言葉が口からこぼれ落ちる。
「綾井と俺、どこか似ている気がするのは気のせいかな……」
 ポリ、と。ポッキーを噛み砕く顎を寿人が一瞬休めたようにも見えたが、その一瞬後には、やはりひょうひょうとした笑顔が返ってきた。
「九条一の好青年にそう言ってもらえるなんて、光栄だなあ」
 そうして肩をすくめたのが、もう体育館の入り口であるガラス戸の前。なんの別れの言葉もなくその戸をくぐる友人の背中を見送って、恋次はくす、と微笑んだ。
「……がんばれよ」
 ぽつり投げかけた言葉に、いや、と思い直す。
「あいつにその言葉は似合わないか……」
 そんな思いをめぐらせている間に、寿人の背中は更衣室へと続く柱の陰にすっかり隠れて見えなくなった。それを合図に歩き出そうとした恋次だったが、すぐにまたその足を止める。
「あ、梅田さん」
 目の前の西階段から下りてくるのは男子バスケ部の1年生たちだろう。ぺこりと申し訳程度に頭を下げて体育館へと入っていく彼らの中に、ひときわ小柄な一人がいる。どこかで見たような髪色だ、と思わず振り返れば、相手は怪訝な顔で一度こちらを見上げ、そのまますれ違った。
 先を歩くチームメイトが彼を呼んでいる。
「ミク、早く。寿人さん、もう来てるって。早くモップ掛けしねーと」
「直也先輩はっ?」
「入倉さんはまだ」
「おっし! 直也先輩が来る前に、コートピカピカにしようぜっ!」
 直也とよく似た髪色の1年生が張り切る声に背を押されながら、今度こそ恋次は歩き出した。
 窓ガラスを弾く雨音とともに西階段を上って、4階の生徒会室へ。ノックの後に扉を開ければ、すでに中には九条会のほかの面々が顔を揃えていた。
「すみません、遅れましたか?」
「ううん、まだ時間前だよ」
「あ、昨日は放課後に抜けさせてもらって、ありがとうございました」
「うん、大丈夫。何も問題は起きなかったし」
 本来ならば、昼休みに顔を合わせてすぐにでも言うべき礼が今になったことを先に謝るべきだった、と胸にわずかな後悔を覚えた。けれど、特に気にした様子もなく、須賀がふわふわの髪を揺らしてうなずく。
 出窓を背にした須賀の隣に副会長の栗原、テーブルの角に会計の月島と、皆いつもの席に落ち着いているが、病み上がりの月島だけは白いマスクを着けている。
「風邪はもう平気ですか? 月島さん」
「うん、熱はもう下がった。まだ咳が出るけど……ありがとな、恋次」
 うなずいて、恋次も扉を背にしたいつもの席に腰を下ろした。
「支部報に写真も載せるって言ってたよ。写真撮るときはマスク外したほうがいいんじゃない?」
 須賀の言葉にこく、とうなずく月島。
「写真なあ……」
 あまり気が進まない、と苦笑顔でぼやくのは栗原だ。
「どうしてですか?」
「支部報ってことは、第一支部の高校全部に渡るわけだろ、おまえの顔が」
 おまえの顔が、と指を突きつけられて、恋次はきょとん、とその指を見返した。
「俺だけじゃなくて、栗原さんもですよ」
「俺たちのことはどうでもいいんだよ。問題は九条会史上最も男前の書記≠ェここにいること」
「言ってる意味が、よく……」
 意味がよくわからない、と首を傾げれば、栗原が椅子の背にもたれながら大げさなため息を吐いた。
「前にあったんだよ。先輩から聞いた話だけどさ、支部報の写真を見て他校の女子が連日うちの学校に押しかけてきたことが……」
「それは、九条会の役員に会いにってことですか?」
 ああ、と栗原が天井を仰いだままうなずく。
「王子様に会いにな」
「王子……」
 昼休みにも栗原の口からこぼれた単語だ。この部屋の真下にある「旧・生徒会室」は王子の遺産なのだ、と。
 栗原の隣に座る須賀がいつのまにか顔をしかめている。その表情を見て、思いつく。
「その人、もしかして……」
「そ、九条会史上最も容姿端麗な生徒会長≠セよ。そして……」
 そして、と意味ありげに栗原が見やるのが、やはり隣に座る須賀の横顔。
「そして、またの名が九条会史上最も嫌われた生徒会長@lだ」
 九条会史上最も嫌われた、といわくつきの生徒会長。とはつまり、

 ……須賀さんのお兄さんのこと、か。

「女の子たちが押しかけてきて、その後どうなったんですか?」
「俺が聞いた先輩はこう言ってたよ。にっこり笑って女の子たちにお愛想でも言ったと思うのか? あの男が≠チて……」
 だから怖くて後は聞いてない、と栗原が肩をすくめる。
 恋次は思わず吹き出しそうになるのをかろうじてこらえた。さすが伝説と呼ばれただけはある。聞くだにおもしろそうな男だ。自分とは正反対な人間だと勝手ながらに感じるせいか、興味をそそられる。なにより、今目の前に座る須賀にそんな兄がいるとは、とても想像できないのだ。
 栗原がテーブルの上に片肘で頬杖をつき、須賀の横顔を眺めやる。その彼の表情が今までとは打って変わって穏やかであるのに気づいて、恋次はわずかに目を見張った。
「三年経って、あの人を知る人が誰もいなくなったこの年に、支部報に載る会長がおまえってのは、やっぱり運命だったのかもな」
 須賀は何も言わずに栗原を見返す。
 と、それまでじっと話を聞いていた月島がふいに口を挟んだ。
「その運命とやらに俺もぜひあやかりたいね」
 そちらを見やり、栗原がふっと小さく笑みをこぼす。
 そんな彼らを眺めながら、恋次はふと気づいた。

 ……三年前ってことは、今も一人だけ――。

 だが、心中で最後までその言葉を唱え終わらないうちに、栗原がくる、と唐突にこちらを振り返った。
「それより、3年の間でも噂になってるぜ。サンイチ(301教室)での龍太とのこと……」
「あ……」
「龍太とのケンカはともかくとして、あの子がこないだ話してたおまえの本命≠ネの?」
 須賀の兄のことでさんざこちらの興味を引きながら唐突に話を持っていかれ、心の準備が間に合わなかった。それを見越した上での今日これまでの話しぶりだったのだとすれば、栗原も相当に意地が悪い。昨日も一昨日も何も訊いてはこなかったのに今それを訊くのか、と。わずかに難じるまなざしを向ければ、相手は悪びれずに笑顔で肩をすくめた。

 ……本命≠チて、痛いとこ突くな、栗原さんも。

 痛みなどとうに消えてなくなったはずの左頬の傷が、今また疼(うず)いたような気がする。いったい、いつになったらこの疼きから解放されるのだろう。
 彼女や想い人ではなく本命、と。なぜ栗原がそんな訊ね方をするのかといえば、そもそもの発端の生みの親だからだ。
 そう、自分と龍太の仲違いの発端は体育祭での巻物指令レース。そこで与えられた指令の解答を迷ったことにある。そして自分がそこで犯した最大の誤りは、その迷いをあろうことか龍太の前にさらけ出したこと。
 迷いを包み隠してうまくやり過ごすことなど造作もないはずだった。それなのに……

 ……バカ正直にも程がある。

 思わずもらした苦笑に、つい自嘲の色が混ざり合う。それに気づいたからか、向かい合う栗原がふと表情を改めた。
「恋次?」
「いえ……以前、栗原さんが言っていたとおりになったな、と思ったら、おかしくて……」
「俺が言ったとおり?」
「ほら、あの指令書を作ったときに……」

『ただし……この巻物にだけは、絶対当たりたくないですけどね』
『確かにおまえが指令をこなした後に一波乱来そうな予感……』

 ああ、と思い出した顔の栗原へ、恋次は苦笑顔のままうなずいた。
「今、波乱のまっただ中です」
「栗原に文句の一つでも言ってやりなよ。梅田は被害者なんだから」
「俺が加害者だって言いたいのか? 須賀」
「そうでしょ? あんたがあんな指令作らなければ、梅田と沖本くんはケンカなんてしなくて済んだのに」
「栗原さんに責任はないですよ。俺も一緒に指令作るの楽しんだんですから。今のこの結果は……言ってみれば、自業自得です」
 もし指令書作りに携わっていなかったなら、どんな指令が隠されているのか何も知らないほかの参加者と同じだったなら、迷いは生まれなかっただろうかと考えもした。だがあのとき、この手で指令を記しながら真っ先に浮かんだ答えが実月の顔だったのだから、きっとはなから迷う運命だったのだ。そして、その指令をこの手が再び開くことも。
 だから何も気にしないでくれ、と微苦笑を向ければ、栗原から返ってきたのは「へぇ」と感心したような、呆れたような、驚いたような曖昧(あいまい)なつぶやき。
「恋次の口から自業自得≠ネんて言葉が出てくるとはな……」
「栗原に気を遣ってそう言ってるに決まってるでしょ」
 形のよい眉をそっとひそめる隣の須賀をちらりと見やって、栗原がテーブルの上に片手で頬杖のままこちらへ向き直る。
「でも、いい顔してるぜ」
「え?」
「今の恋次、いい顔してるよ」
 思わぬ言葉に、ただ聞き返すしかできなかった。
「いい顔、ですか……?」
 うん、と栗原がうなずく。いつもの気さくな笑みというよりは、先ほど須賀の横顔を眺めていたのと同じような穏やかな笑顔で言う。
「なんていうか、色気? うん、それだな。今の恋次は男の俺から見ても色っぽい」
「なんですか、それ」
 表情ばかりは穏やかな相手の本気とも冗談ともつかない言葉に恋次は小さく吹き出した。
 向かい合う須賀は、なぜかため息をこぼしている。
「あの人は喜んでたけど、なんだかなー……」

 ……あの人?

 ぽつり、誰にともない須賀のつぶやきを恋次が耳に留めたとき、
「そろそろ時間だよ」
 月島が腕時計に目を落とし、言った。
「さあて、お客様のお出迎えといくか」
 大きく伸びをしながら立ち上がった栗原を先頭に、須賀、月島と続いて、最後に恋次が会室を後にする。扉に鍵をかけていると、最初に部屋を出たはずの栗原が歩き出さずに待っている。須賀と月島を先に行かせ、こちらの隣に並んだ栗原がこそっと訊ねてきた。
「それで実際のところ、その子と龍太と恋次が三角カンケイってのは本当なのか?」
 どうやら一番訊きたかったのは、それらしい。
「違いますよ」
 恋次が笑いを噛みながら答えれば、相手は不服そうに眉をひそめる。
「だって、俺の女に二度と手を出すな!≠チて、龍太がおまえにキレたんだろ?」
「……誰が言ったんですか、そんなこと」
「だから、噂」
 そう取られても仕方ないか、と恋次は短く息をついて、西階段にそっと足を下ろした。
 何も知らずに、あの場で龍太と実月の本当の関係を想像できた人間はきっといない。その上、龍太が吐き捨てた台詞も、周囲にその手の想像を促すには充分だった。そういえば二人の顔が似ていたと後から気づく者もあるにはあったろうが、いかんせん、龍太の剣幕と言葉のインパクトが強すぎた。

 ……こいつに二度と触れないで、か。

 あのときの龍太の顔を思い返すうち、1階の廊下へとローファーの底が触れる。レンガ敷きのそこを歩みながら、恋次はほんのりと悪戯な笑みで隣を見やった。
「三角カンケイなんて、俺たちの間には始めから成立しないんです」
「え?」
「兄妹(きょうだい)ですから、龍ちゃんとあいつ」
「きょうだい?」
 栗原が目を丸くして聞き返すところに、正面玄関の重いガラス戸が開く。外から戸を開けたのは校外委員の金森だ。九条会より先に雨の中校門で相手を出迎えていたらしい。その彼に「中へどうぞ」と促されて、私服姿の高校生が二人、はつらつとした顔をのぞかせた。
「篠ヶ崎(しのがさき)高校の生徒会の者です。九条会の皆さん、今日はよろしくお願いします」



 
* * *



 時、同じ頃。
「……あれ?」
 ふと視界の端に映った人影に、一真は箒(ほうき)を動かす手を休めた。
 ここは西門から入ってすぐ左手にあるアオハル広場。
 広場といっても、本来は学食や体育館、多目的ホールなどが並ぶ校舎別棟の1階部分に当たる。校庭に面した北半分は体育科研究室が設けられているが、通りに面した南のこちらは二本の柱を残して、広く通り抜けできる空間になっていた。
 校舎内のあちこちに見かけるベンチがここにも据えられ、雨で校庭やテラスに出られないときにも外の空気を吸えるこの場所は、九条生のちょっとした憩いの場になっている。だが、東から西から坂道を駆け上ってきた風の吹き溜まりになって、いつでも少し埃っぽい。それでも快適に過ごせるのは、毎日当番の生徒たちが欠かさず掃除をしているからだ。
 クラス内の週番とは別に、年に一度必ず全クラスにまわってくるその『アオハル当番』を、今週は一真が務めていた。
 アスファルトの上で弾ける雨音をBGM代わりに、リズミカルに箒を動かしていたところだった。
 西門の向こうに見えるのは、九条高校とは細い路地を一本挟んだだけの都立公園。その出入り口から数人の少年が姿を現した。ビニール傘を差した彼らは皆、私服姿。街なかのどこにでもいそうな若者だ。先頭を行く少年だけが一人、白いキャップを被っていた。一真が目を留めたのは、その少年。
「あの人、どっかで見たような……どこだっけ……」
 以前にもどこかで彼を見かけたような気がするのだが、思い出せない。大きな瞳でじっと彼らの背中を見送っていると、
「一真! もうそろそろ上がろうぜ!」
 水飲み場の方から、同じく当番を務める瀬戸の呼ぶ声。
「うん、わかった!」
 そちらへうなずき返し、一真はまなざしを再び西門の向こうへ。
「誰だったかなー、あの人……」
 そうつぶやく頃には、彼らの姿はもう路地から表の通りへと流れ出て、たちまち見えなくなった。
「……ま、いっか」
 この時間にすでに私服姿なのだから、きっと九条生ではない。何人か顔見知りのある涼星学園の生徒でもないだろう。何より深く係わりのあった相手ならば忘れるはずはないだろうから、と潔く思い出すことをあきらめ、一真は瀬戸のもとへ歩き出した。
 後に残るのは激しい雨音と、公園から押し寄せるむせ返るような緑土の匂い。



 
* * *



 そしてやはり、時、同じ頃。
 校舎別棟3階、体育館。
 転がり出てしまったボールを取りに、直也がテラスへと出ていた。思いのほか涼しい風に頬をなでられ、抱えたボールを胸にほっと息をつく。
 手すりの向こうに広がるのは都立公園の木々たち。5月には若葉の色美しい景色も、梅雨の厚い雨雲の下ではいささかよどんで見える。そのせいか、まるで街全体も灰色の絵の具で塗りつぶされたよう。
 汗に濡れた身体が急に肌寒さを覚えた。
 そのとき、体育館へ戻ろうと踵を返した直也の視界に、足下の路地が映る。公園の出入り口から数人の少年たちがぞろぞろと仲良く現れたのを見て、直也は足を止めた。差しているのが透明なビニール傘とはいえ、知った顔かどうかはここからではわからない。ただ、先日の昼休みの光景を思い出した。
 龍太の教科書を返しに2年1組の教室を訪れたときの帰り際、廊下の窓から見下ろした校門に、やはり同じ年頃の少年たちが立っていたことがあった。
「……だから、なんだってんだよ」
 特に意味があるとも思えないつまらないことを思い出した自分に舌打ちして、直也は今度こそ体育館の中へと戻った。
「ごめん、入倉。濡れなかった?」
 声をかけてきたのは、寿人。そもそもボールがテラスへと転がり出たのは、シュート練習中、寿人のボールと直也のボールがぶつかったため。
「……べつに」
 いつになくシュートの精度が落ちている寿人を横目で見やり、直也は一言放り返した。
 そこに、マネージャーの伊藤がやってくる。
「今日は顧問の都合で早上がりなんだから、さっさと打たないとノルマ終わらないぞ。入倉は今サボってたからペナルティで10本追加」
 にこ、と仏の笑顔でノルマを増やしてくれた相手に文句を言いたいのをぐっとこらえ、誰のせいだ、と直也の尖ったまなざしが向かうのは亜麻色の笑顔。
「ごめんな」
 やはりいつになく素直な様子で寿人は謝ると、再びシュート練習に戻っていった。それを見送る直也の背後で雨音がいっそう大きくなる。風向きが変わって、テラスの内側まで雨が入り込んできたらしい。
「うわ、すごいな。閉めるの手伝ってくれるか? 入倉」
 体育館の中まで雨が入ってこないようにと、マネージャーと二人、通気戸を閉めにかかる。
 頬を叩く風の中、伊藤がつぶやいた。
「しかし、生徒会の仕事とはいえ、こんなどしゃ降りの日に篠ヶ崎の連中も大変だな」
「篠ヶ崎?」
「なんか支部報の記事の取材とかで、今日うちの学校に来るんだってさ。栗原が言ってた」
 篠ヶ崎と九条の生徒会は以前から親しい仲で、これまでにも向こうの生徒が九条を訪れることがよくあったらしい、と伊藤の話に直也は気のない相づちを打つ。が、
「私服の高校のやつらがうちの中を歩くのは、ちょっと勇気がいるだろうな」
 くす、と笑った伊藤の言葉に、あ、と気づいた顔でテラスの向こうへと視線をやった。
「篠ヶ崎って私服なんですか?」
「篠ヶ崎が私服というより、この支部で制服があるのはうちだけだよっと……」
 ガシャン、と音を立てて戸が閉まる。
 閉じられた戸の向こうで、灰色の街に雨が降る。


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