LESSON 6 : 雲 そして、雨





 東京に梅雨入り宣言が出されたのは昨日。同じ昨夕から降り始めた雨は、今朝には上がっていた。けれど、生徒会室の窓から見上げた空には相変わらず灰色の雲たちが張りついている。その表情が、どこか退屈そうに見えた。
「退屈そうだな……」
 知らず、ぽつりつぶやけば、すぐ横から「え」と聞き返す声。
「ああ、雲の話だよ」
 綾井のことじゃない、と恋次は微笑んで隣を振り返る。そこには、制服の白シャツの代わりに私服のTシャツをまとった気ままな装いの友人の姿。きょとん、とこちらを見上げていたその薄茶色の瞳に、ちらり、悪戯(いたずら)な色が映ったよう。
「空模様心模様って言葉があったっけ」
 くす、と笑みをこぼしながらの寿人の言葉に、今度はこちらが「え」と聞き返す。聞き返したが、それに相手が応える様子はない。
 恋次は再び、昼下がりの九条の空を見上げた。

 ……空模様心模様。

 どんなに晴れていようと、心に屈託を抱えていればその空の青もくすんで見える。反対に、どんなどしゃ降りでも心が晴れ晴れとしていれば、その雨音さえ快く弾んだ歌に聞こえるに違いない。空は、自分の心を映す鏡。
 それはつまり、

 ……雲が退屈そうに見えるのは、俺の心が退屈だから?

 心中でつぶやき、苦笑する。肯定も否定も、あえてしない。己の心模様より、寿人の口からそんな言葉が出たことに、今は少なからず興味を覚えた。寿人の目には、この空はどんなふうに映って見えているのだろう。
 けれど、隣に座る寿人の目は空を映してはいなかった。ここ生徒会室からは中庭を一望できる。出窓に両肘で頬杖をつく格好で寿人が眺め下ろすのは、普段と変わらない昼休みの中庭の光景。隅に置かれたバスケットゴールの前で繰り広げられる熱い1on1だ。
「あー、読み間違えた! 直也のことだから、そこで強引に打ってくると思ったのに!」
 くやしがるのは、岡田の声。
 4階のここまで上ってくる元気なその声に、寿人がまたくす、と楽しげな笑みをこぼす。
 恋次もその視線の先へと目を向ければ、
「直也、もう一本! 次こそ止めてやるからな! さあ、来い!」
 どこまでも元気な相棒に呆れたように、それまで土の上で軽やかにボールを弾ませていた直也が、ふとこちらを見上げた。その瞬間、苦笑混じりだった直也の表情がぴり、と引き締まる。
「直也? 早く!」
「ん、ああ……」
 急かす相棒の方へと向き直るほんの手前、もう一度直也がこちらへと視線をやる。
 白刃(はくじん)の煌(きら)めきを思わせるようなその鋭い視線に語らせるなら、

『見てんじゃねえよ』

 きっと、そんな一言だろう。ただし、直也がそれを突きつけたかった相手はこの自分ではない。恋次は再び、隣に座る友人の横顔を見下ろした。
 寿人は先ほどと変わらない格好で、やはり先ほどと変わらない視線を中庭へと注いでいる。直也から返された視線の意味などまるで気にしていない様子に、恋次はわずかに苦笑した。
「綾井」
「ん?」
「行けよ」
「どこに?」
「綾井の目が今映してる場所に」
 それまで振り返ることをしなかった寿人が、そこで顔を上げた。だが、今の言葉に何を思ったのか、その相変わらずひょうひょうとした表情から読みとることはできなかった。
「もうバスケ部に入ったんだし、なにも毎度入倉たちの練習をここから眺めてる必要ないだろ。どうせなら、混ざってくればいい」
 寿人がこうして昼休みが来るごとにここへ足を運ぶのは、直也のバスケをしている様子を人知れず見たかったからだ、と。そう理由を悟ったのは、先月に寿人がバスケ部へ中途入部してすぐのことだった。入部するためには、寿人にとってそれはどうしても必要なことだったらしいと理解している。だが、今はもう入部した後。通過儀礼は済んだはず。現に、以前はおおっぴらに中庭を見下ろすことはしなかった寿人が、今はその姿を、視線を隠す素振りはない。
 バスケがやりたいのなら、チームメイトたちとやってくればいい。こちらを見上げる薄茶色の(今は光の加減で緑みがかって見える)瞳へ淡々とそう言って聞かせれば、くす、とまた笑み声がこの耳をくすぐった。
「できないよ」
「……膝の負担になるからか?」
「ううん、そんなんじゃなくて……」
 寿人がわずかにかぶりを振る。そうして、ラベンダー色のTシャツの肩をすくめた。
「入倉が仲良く俺と遊んでくれると思う?」
「…………」
 綾井らしくない台詞だな。
 何気なく返そうとしたその一言が、ふと喉につかえる。
 その台詞は寿人らしくない。本当にそうだろうか?
 こちらのためらいをよそに、向かい合う薄茶色の瞳が、に、と茶目っ気に細められる。そうして再び中庭へと視線を滑らせた寿人が、誰にともない調子でつぶやいた。
「須賀さん、今日は来ないのかな……」
 今度は、その響きがやけにこの耳に絡みついた。
「もうすぐ来るはずだよ。仕事があるから」

 ……そういえば、ちゃんと訊いてみたことはなかったな。

 きっとそうなのだろうと以前から思ってはいたが、言葉にして確かめたことはなかった。幸い、今はこの部屋の中に自分と寿人以外に聞く耳を持つものはない。
「綾井」
 呼びかけた後は、ひと息に問いかけた。
「須賀さんのこと、どう思ってる?」
 ふわり、風に揺られたカーテンが寿人の横顔を覆い隠す。おかげで、その瞬間の表情の動きを見ることはかなわなかった。
 ふわり、通り過ぎたカーテンの向こうに見える寿人は先ほどと変わらず頬杖をついたまま。けれど、瞳だけはこちらへ向けられている。
「唐突な質問だね」
「気に障ったか?」
「ううん、梅田は意外と聞きたがりだって、知ってる」
 穏やかな、それでいて悪戯な笑顔で見上げられ、恋次は思わず額を掻いた。

 ……そういえば、前にも言われたっけな。詮索したがりだって。

 それまで、自分のことを聞きたがりな性分だと思ったことはない。だが、思い返してみれば、寿人と出会ってからというもの、ふとしたときに、そう言われても仕方のない自分が顔を出していることが確かにあった。寿人に聞くばかりではない。寿人に聞いてほしいと思う自分が、確かにいる。

 ……いや、今は俺のことじゃない。

 寿人が須賀に好感を持っていることは見ていればわかる。でなければ、出逢ってから五年経つ今でもこうしてしきりに顔を合わせようとはしないだろう。ただ、その好感の意味するところが、つき合いの長さから生まれる気安さなのか、先輩と後輩の間で育まれる親愛なのか、それとも男女の恋愛なのか。それが、見ているだけではわからない。きっと後者だろうと、勝手に想像しているが、確信はまるでない。
 額にやっていた手を下ろすと、先ほどと変わらず薄茶の瞳がこちらを見上げている。そのまなざしが驚くほど真剣だった。寿人のこんな表情は初めて見る、いや、以前にも一度見たことがあるような。あれはいつだったろう。
 そのとき、かすかな振動音がどこかから聞こえてきた。たちまち、目の前の顔がぱっといつもの明るい表情に戻る。
「ごめん、俺のケータイだ」
 制服のポケットから携帯電話を取り出した寿人は、そこに表示されている発信者の名前を見て、なぜか苦笑を浮かべた。
「誰……って、訊いてもいいか」
「うん、伊藤さんから。もしもし、どうしたの? うん、平気だけど……え、今から? うん、わかった。それじゃ」
 電話の相手はバスケ部のマネージャー。何度かうなずいた後で、実にあっさりと電話を切って、寿人が立ち上がる。
「お呼び出しかかったから、行ってくる。ごめんな、話の途中で」
「いや、べつに……」
 急ぎの用件でもないから。
 そう言い足すと、きらり、薄茶の瞳に再び悪戯な色が光る。
「前にも言ったけど、俺、梅田のそういうところ、嫌いじゃないよ」
 にこ、と笑んで寿人がドアノブへと手をかける。その背へ、恋次はそっと呼びかけた。
「綾井」
「ん?」
「……どうでもいいけど、そのTシャツよく似合うな」
 もともと色素の薄い肌と髪色に、そのラベンダーは実によく似合う。制服のサックスブルーと相まって、夏の陽射しの下でも涼しげによく映えるだろう。
「サンキュ」
 振り返ることなく、笑み声だけを残して寿人は扉の向こうへと消えていった。
 須賀がやってきたのは、それからほんの数秒後のことだった。コンコン、といつものように軽やかなノックの音を響かせ、開いたドアからまずはふわふわの髪がのぞく。
「どうしたの、梅田」
 入るなり不思議そうな表情になる相手へ、恋次は苦笑顔で首を横に振った。
「いえ、べつに……」
「そう?」
「今、綾井に会いませんでしたか?」
「え、綾井? ううん、会わなかったけど」
「須賀さんのこと待ってたんですが、伊藤さんに呼ばれて、たった今出ていったところで」
 どうやら二人は行き違いだったらしい。当の須賀に話を聞かれずに済んだのはよかったが、あの会話の後で寿人がどんな表情で須賀と顔を合わせるのか見てみたかった、と。そんな気持ちもちらり、心をよぎった。
「待ってたっていっても、どうせ用はないんでしょ? ただ顔合わせれば満足なんだもんね、綾井は」
 須賀が笑って、抱えていた筆記用具をテーブルの上へと置く。
「さ、氷室が来る前に書類準備しとかなきゃ」
 書類棚の前へ立つ須賀の髪が、ふわり、出窓からの風に揺れた。
「須賀さんはどうなんですか?」
「6月、6月……どうって?」
「綾井のこと、よくわかってますよね。須賀さんも綾井と顔を合わせると、その日一日満足した気持ちになれますか?」
 須賀が一瞬、動きを止める。やがて振り向いた顔に浮かんでいたのは、苦笑だった。
「……ならないよ」



 
* * *



 校舎5階に並ぶのは特別教室ばかり。東端にある第一音楽室からは昼練習に励むブラスバンド部員たちの熱気が伝わってくるが、中央階段を過ぎた西側ともなれば、歩く生徒の姿は一つもないのが普通のこと。
 階下のざわめきも遠くひっそりとした廊下に、今は一人の足音がかすかに響く。その足音が止まったのは、物理教室の出入り口の前。
 寿人が遠慮なくその戸を引き開けると、廊下と同じように人気がないと思われたそこに一人の姿があった。
「悪いな、綾井。こんなとこ呼び出して」
 男子バスケ部マネージャーの伊藤。食事中だったらしい。おにぎりを頬ばりながらの相手の言葉に、寿人は笑顔で肩をすくめると、きっちりと戸を閉めた。
「こんなとこでランチタイム? 楽しそうだね。その卵焼き、いらないんならちょうだい」
「ダメ」
 弁当箱に残っていた最後の卵焼きをぱくっと口に入れ、伊藤がテーブルの上にあった缶コーヒーのうちの一本を寿人へと投げる。寿人がそばへ歩み寄るのを待ってから、箸を置き、おもむろに口を開いた。
「ここなら、誰にも聞かれる心配ないだろ」
「……なに言われるんだろ。怖いなあ」
 缶コーヒーのプルリングを勢いよく引いて、寿人がくす、と笑う。
 そんな後輩の様子を横目で見るだけで、伊藤は表情を崩さない。
「次の涼星(りょうせい)戦、綾井は使わない」
 一瞬の間の後で、カン、と小気味いい音が教室の中に響いた。
 テーブルの上で缶を握り締めたまま、寿人がつぶやく。
「ダメだよ、そんなの」
「それは如月(きさらぎ)と俺が決めることで――」
「ダメだよ、伊藤さん。俺、あのとき言ったろ。これからは試合に勝つことだけを考えてって」
「俺だって言ったはずだぞ。膝については、全部俺に話す。俺の言うとおりに調整するって。あのとき約束したろ」
「試合のことは別だよ」
「別じゃない」
 立ったままの寿人の右脚へ、伊藤がそっと視線を滑らせる。
「雨は痛むだろ。つらいぞ、梅雨は」
「平気だよ。俺の脚だもん。雨だろうと晴れだろうと、つき合い方はわかってるさ。だから、次も出る。走れるよ」
 にこ、と微笑む寿人をしばし、じっと見上げ、その笑顔が少しも揺るがないとわかると、伊藤の口から短いため息が漏れた。
「……なんで、こうもわがままなやつらばっかりなんだろうな、うちの部員は」
「伊藤さんが優しいからだよ」
 苦笑混じりの寿人の言葉に、今度は盛大なため息をこぼして、伊藤がくしゃくしゃと髪をかきやった。
「…………10分だけだぞ」
 始めから妥協点はここにあると知っていた。けれど、できるなら妥協なんてしたくなかった。
 伊藤の重い口振りから見え隠れするそんな気持ちを知ってか知らずか、寿人はやはり、にこ、と微笑んだ。
「ありがと、伊藤さん」
「これ以上、勝手に走り込むなよ」
「してないよ」
「俺の目をそんな簡単にごまかせると思うな」
「ちぇっ、参ったなあ」
 舌を出して肩をすくめる寿人を呆れたように見やり、伊藤がため息をもう一つ。
「綾井、来年の夏でぶっ壊れてもいいと思ってるなら、今は来年の夏までしっかり繋げることを考えろ」
「…………」
 返事はない。うなずくことも反論もせずに、ただ静かに缶コーヒーを傾ける後輩の横顔を、伊藤がじっと見つめている。その表情は練習中と同じく厳しく、けれど、どこか満足そうでもある。
 飲み終えたコーヒーの缶を置けば、ランチタイム終了の合図。立ち上がって先に歩き出したのは伊藤。その三歩後ろで、寿人がつぶやいた。
「涼星か……勝てるかなあ」
「勝つつもりでいるんだろ?」
「そりゃあ、ね」
「……たとえここで負けても、入倉にとっては大きな糧。何も無駄にはならない」 
 前を歩く3年生の背中を、薄茶の瞳が見つめる。
「……あいつ、ほんと大事にされてるなあ」
 と、伊藤の顔に、この時間初めていつもの柔和な笑みが戻ってきた。その笑顔で肩越しに振り返り、
「綾井ほどじゃないだろ」
「え?」
「あいつのために自分の体と時間を犠牲にまでしてるやつなんて、綾井だけ」
「…………」
「それがいいか悪いかなんて、俺には言う権利ないけど……自分のことも大切にしろよ?」
 大事な後輩へ、そう穏やかに言い含める。
 うなずく声は、やはり返ってこなかった。



 
* * *



「はい、できたよ、氷室」
 呼ばれて振り返るのは体育祭執行部長。一度、名残惜しげな視線を出窓の外へと向けた後で、彼は眼鏡の奥の瞳を穏やかに細め、自分を呼ぶ相手を見下ろした。
「サンキュ、須賀――いや……中央執行委員長」
 その一言に、くすぐったそうに須賀がテーブルの上へと視線を落とす。そこにある、一枚の書類。須賀範美、と署名の隣に鮮やかに浮かび上がる朱字、「中央執行委員会」と刻まれたこの角印は、いわば生徒会組織の長に立つ者の証だ。これまでも代々の中央執行委員長が大切な書類にこの印を押してきた。「九条会」と愛称で呼ばれるようになってからも、変わらない。むしろ、日頃は愛称で呼ばれるからこそ、この印に刻まれた文字がいっそう重く、誇りに感じられるのだ、と。
 いつだったか、須賀がうれしそうにそう話していたのを思い出す。今もまた、同じ想いがその胸に湧き上がっているのだろうと想像しながら、恋次は須賀の穏やかな表情を見やった。
「これが最後、かな……」
 彼女の口からそっとこぼれ落ちたつぶやきに、思わず感慨を覚えたのはきっと自分だけではないはずだ。
 須賀の隣に座る栗原、月島、そして窓辺に立ったままの氷室。
 だが、それぞれの表情をこの目に納めようとする前に、須賀の明るい声に視線を引き戻された。
「――なんて、まだ気が早いよね。あと一週間、しっかりがんばらなきゃ」
「だな」
 栗原がうなずく。
 隣の相棒へちら、と一度まなざしをやり、須賀ができたばかりの書類を氷室の前へとそっと押し出す。そして、脇に置いてあったほかの書類――こちらは氷室の署名をもらって返されたもの――を、こちらへと向けた。え、と恋次はわずかに目を見張る。
「これは梅田にお願いするね」
「俺でいいんですか?」
「うん、よろしく」
「……わかりました」
 隣では、氷室が須賀から返された書類に目を通し、うなずいた。
「確かに。んじゃ、生徒部に行くか、恋次」
「はい。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
「頼んだぞ」
「よろしく」
 三人に見送られて歩き出したところ、前を歩く氷室がふと足を止めた。
「氷室さん?」
 どうしたんですか、と肩越しにそっと前をのぞき込めば、ドアノブへと手を伸ばしかけたまま氷室は片手に抱えた書類一式を見下ろしていた。
「須賀の感傷がうつったかな」
 つぶやいて苦笑したかと思うと、氷室がその場で部屋のうちを振り返る。そうして、
「お疲れさまでした」
 深々と三人に向かって頭を下げた。

 ……氷室さん。

 いつも冷静で理知的な、自信にあふれた物言いをする彼にもこんな一面があったのかと、正直驚いた。だが、来週いっぱいまで任期のある九条会と違って、体育祭執行部はすでに先日解散された。生徒部へのこの報告が、事実、執行部長の最後の仕事なのだ。前年度の1月に執行部が発足してからのこの半年を思えば、やり遂げた充足と、少しの寂しさを今噛み締めたくなっても、不思議ではない。
「それはこっちの台詞だろ」
 いつもと変わらない気さくな笑顔の栗原。月島はいつになく穏やかな表情。その二人を代表するように、須賀が言った。
「お疲れさま、氷室。それと、ありがとう」
 顔を上げた氷室は、とても晴れやかな表情をしていた。そして、何も言わずに生徒会室を後にした。体育祭執行部長として彼がこの部屋を訪れることは、もうない。

 ……ありがとう、か。

 自分も同じような経験をしたことを思い出す。

『あ、そうだ、恋次。お疲れな』
『え?』
『ほら、解団式の後は、恋次すぐ生徒会のほうに行っちゃっただろ。そういえば、まだ恋次に言ってなかったと思って』
『おう、そうだよな。いろいろとお疲れ、恋次』
 長い間の準備に、当日に、本当にお疲れさま。
 おかげで今年もめいっぱい体育祭を楽しめたよ。
『ありがと、恋次』

 そう労ってくれたクラスメイトたち。
 あのときの自分と、今の氷室は少し似ている。だが、「ありがとう」と同じ言葉をかけられても、胸に湧き出した想いは全く違うものだろう。
 己の右手を見下ろす。

『……なんで、こんな複雑な心境なんだろうな、俺』

 あのとき、この手で握りつぶしたつぶやき。
 その疑問の答えが今、わかったような気がした。
 人知れず頬に浮かんだ苦笑を噛みつぶすと、恋次は前を行く氷室に続いて西階段をそっと踏み締めた。


 
*


「失礼しました」
 校舎2階の職員室を後にし、やれやれ、と氷室が大きく伸びをした。
「あーあ、とうとう終わっちまったな」
「お疲れさまでした」
「恋次もな」
「いえ、俺は……」
 苦笑してわずかに目を伏せると、視界の端で相手が怪訝な顔になる。ぽん、と肩に手を置かれて目を上げると、
「そうだな、恋次にそれを言うのはまだ早いよな」
 今度はさわやかな笑顔がそこにあった。
 3年生の教室が並ぶのは職員室と同じ2階。ほんの数歩並んで歩き、別れ際、思い出したように氷室が言った。
「そういえば、最近他校のやつらがこの辺をうろうろしてるってな。九条会で聞いてるか?」
「他校の生徒、ですか?」
 今、九条会では校外活動で篠ヶ崎(しのがさき)の生徒会とやり取りを交わすことが多い。今日も、これから放課後には支部報の取材のため九条で迎える約束になっている。彼らのことだろうか、と一瞬考えたが、よくよく氷室の話を聞いてみると、どうやらそうではなさそうだ。
「いつも私服みたいだから、他校の生徒≠ゥどうかはわからないみたいだけど」
「氷室さんは見かけたことあるんですか?」
「いや、ない。見たやつの話によれば、一度は校門付近に群れてたらしい。まあ、それで何かあったって話じゃないし、九条会にも報告がいってないんなら、そんなに気にすることでもないのかもな」
「わかりました。一応、心に留めておきます」
「じゃあな」

 ……他校の生徒、か。

 この九条はオフィス街であると同時に学生の街でもある。都立校は九条だけだが、この一キロ圏内には多くの高校・大学がひしめいていた。校門を一歩出れば、九条生もそうした数多の学生のうちの一人でしかない。九条生以外の人間が校門の前にいたからといって、めずらしがる話でもないだろう、が。

 ……なんとなく気になるな。

 特に心当たりがあるわけでもないけれど。顔の見えないその相手のことが、なんとなく気にかかる。
 先ほど降りてきた西階段へと向かう途中、見覚えのある3年生とすれ違った。小柄だが、赤茶の髪にやんちゃで正直そうな瞳が人目を惹(ひ)く。相手もこちらに気づいた。
「あ、梅田だ。職員室に用? 九条会の仕事? ノリちゃんたちは上?」
 はい、と三つの問いに一つのうなずきで答えれば、相手もまた満足そうにうなずいた。
「俺も職員室! あ、でもべつに悪いことしたわけじゃないよ。部室の鍵取りに行くとこ! んじゃね〜!」
 鼻歌まじりに歩く相手をくす、と笑顔で見送る。中学時代はずいぶんやんちゃをしてきたと聞いたが、彼のような人間は嫌いではない。
 西階段を3階へと上れば、彼の言う部室≠ヘすぐそこだ。ちょうど生徒会室の真下にある。構造もそっくり同じその部屋。しかし、扉の上にあるプレートに書かれているのは、校内団体の名称ではなく「旧・生徒会室」。もともと生徒会室≠ニだけ書かれていたところに、後から油性マジックで旧≠ニ書き足したのが、説明されるまでもなく見て取れた。それを横目に通り過ぎ、4階へとさらに階段を上れば、なじみのあるいつもの場所が迎えてくれる。
「戻りました」
 扉をくぐる刹那、ふと思いついて上を見上げれば、そこにあるのは「新・生徒会室」と記されたプレート。
「おかえり、恋次。天井見上げてどうした?」
「あ、いえ、プレートを見てました。戻る途中、久野(くの)さんに会って」
「ああ、勘一(かんいち)」
「下のプレート、今でも生徒会室≠フままなんですね。直さないんですか?」
 すると、栗原の頬に苦笑が浮かぶ。
「あれは王子の遺産だからな。軽音部の連中が外したがらないんだ。あいつらの好きにさせとけばいいさ」
「王子の遺産……?」
 思わず聞き返せば、栗原のまなざしが、ちら、とどこかへ移ったようだった。
 その視線の先で、一人窓辺に佇む須賀の栗色の髪が、ふわり、湿気た風に揺れている。
 窓の向こう、校舎の回廊に四角く切り取られた空には、先ほどよりも憂鬱な色が増えていた。



 
* * *



「さっき、鍵取りに行く途中でミスター九条に会ったよ」
 生徒会室のちょうど真下の部屋に、三人の男子生徒が集まっている。
「は? ミスター九条?」
「誰のこと?」
「ミスター九条っていったら、あいつに決まってるじゃん。梅田だよ、九条会の」
 彼らは皆、軽音楽部に所属する3年生。
 壁際に置かれたテーブル、そこに広げられた音楽雑誌と楽譜(スコア)を前に談笑の格好だ。
「ああ、そういうこと」
「確かにうちの学校でもミス・コンあったら、まちがいなくミスター九条に選ばれるだろうな。今日もすんごい噂されてたし」
「響(ひびき)くんもイイ線いってるんじゃないの?」
「ダブってるから?」
「チキ、てめ……」
「ああ、そういえば、ミスター九条で思い出したけど、体育祭に来てたらしいよ、王子」
「えっ、チキくん、それほんとっ? チキくん、王子見たのっ?」
 赤茶の髪の一人が勢い込んで訊ねれば、黒髪の相手は最初の問いにうなずき、二つ目の問いには首を横に振る。そうして、出窓の前へ立つ金髪のもう一人へとまなざしを向けた。
「響は聞いてないの?」
「全然。日本に帰ってきてたんだ、あの人」
「王子のこと直接知ってるの、ダブってる響くんだけだもんな。王子、また来てくんないかな〜。俺も卒業前に会ってみたい」
「ダブってるダブってるって、おまえわざと言ってるだろ、勘一」
「当然」
 悪びれずに笑う赤茶の髪の勘一。次の瞬間、ぽつ、と出窓に当たる小さな音に振り返った。
「あー、とうとう降ってきた……」



 
* * *



「あ、とうとう降ってきちゃったよ、ユウキ」
 九条高校から徒歩十分ほどの距離にあるここでも、空を見上げる少年たちがいた。
 瀟洒(しょうしゃ)な造りのカフェテリアで昼食の最中らしい。
 ユウキ、と呼びかけられて、一人が濃厚な香りのビーフシチューから顔を上げる。その瞳が、日本人にはめずらしい灰色。
「あ、ほんとだ。俺、雨ってマジ嫌い。髪ぐっちゃになるし」
「猫っ毛だもんな、おまえ」
「やめろって」
 隣に座る友人に金茶の短い髪をなでられるのを身をよじって逃げれば、同じテーブルに着く友人たちが一斉に笑い声を上げた。
「でも、今日の雨は好都合だけどな……」
 笑顔の輪の中で、灰色の瞳にちらり、鈍い光が宿る。つぶやいた低い声は、急に強くなった雨音にかき消され、誰の耳にも届かなかったらしい。
 灰色の瞳が見つめる窓の外、降りしきる雨が 『私立三洋光(さんようひかり)高等学校』 と刻まれた校門を濡らしていく。
「13日の金曜日、どしゃ降りの雨……ほんと、おあつらえ向きだぜ……」
 昏(くら)い瞳に、雨が映る。





To be continued.

劇中時間 06/13(Fri)





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