* * *




 空にはまだ太陽の光が残っていた。
 自室の窓から望むこの町が夕映えの中に浮かんでいる。生まれたときから変わらない、いや、ほんの少しずつ変化しているその夕景を、制服を着替えもせずに長い間見ていた。
 一人きりでこんなふうに静かになにも考えずに景色を眺めて過ごすのは、そういえば久しぶりかもしれない。学校でもたまに校内の気に入った場所で時間を過ごすことはあっても、そこにはたいがい人の気配があるものだ。
 ガサ、と机の上でカバンが倒れた。重い音がするのは、授業用具のほかに一冊、本が増えたせいだろう。買ったばかりのそれを取り出し、ベッドに腰掛けながらぱらぱらとページをめくった。が、今は少しも内容が頭に入ってこない。
「いいかげん、着替えるか……」
 壁掛けの時計を一度見上げ、立ち上がった。そろそろ準備をしないと、いつもの時間に遅れてしまう。365日こなしている夕食前の日課をおろそかにするわけにはいかないのだ。本を机の上に置いて、ネクタイの結び目へと指をかけた。
「大輝(ひろき)、もう来てるかな……」
 つぶやくと、いやおうなく今日のことが思い返される。

 ……平安貴族、か。

 大輝の帰り際に実月がこぼした言葉。それを思い出し、頬にあふれそうになった笑みを今は飲み込んだ。

 ……あいつ、ちゃんとわかってるのかな。

 もっとも、わかってくれなければ困るのだ。
 着替えの手を止め、カバンのポケットからそっと取り出したのはプリクラ。穏やかに笑う自分と、楽しそうに瞳を輝かせている実月。小さな一瞬に閉じ込められたこの二人の姿を、どう呼べばいいのだろう。
 もうただの幼なじみではないことを自分は自覚している。十六になるまで見ぬ振りをしてきたそれを、確かに宿した想いを言葉に託して彼女に届けたのはおよそ三ヶ月前のことだ。

『俺は変わったつもりなんだけどな……』

 変わったつもりでいる。少なくとも三ヶ月前の自分とは、伝える前の自分とは確かに変わっているはずだ。
 けれど、

『……変わってないよ、恋次は』

 彼女は今も自分たちをただの幼なじみと呼んでいる。
 小さなため息とともに、プリクラを机の引き出しの中へとそっと入れる。

 ……わかってないのは、俺もなのか。

 龍太の言葉が、今また胸の奥で響く。

『恋ちゃんはそうやって優しいのに、いつも大事なことだけわからない!』

 大事なことって、なんだ。龍太はいったい、なにを言っている?
 パタンと閉じた引き出しが、思いのほか大きな音を立てた。自分でも気づいていない苛立ちを代弁するように。



 
* * *



 部屋の電気もつけずに、実月はぼんやりと窓の外を眺めていた。
 窓際に置かれた机の上に、スタンド式の鏡が立てられている。窓の外から鏡へと視線を移し、そこに映る自分の顔をしばしじっと見つめた。そこからまた視線を移すのは、同じ机の上に置かれたプリクラ。
「あたしたち、どういうふうに見える?」
 誰にともなく問いかけて、そっと鏡を伏せる。
 机の端に並べられた辞典へと手を伸ばし、引き出した古語辞典。開けば、はらりと間から一枚の封筒が舞い落ちた。薄紅色のそれには宛名も差出人も書かれてはいない。
「平安貴族、か……」
 拾い上げた封筒を見下ろし、つぶやく。中から同じ薄紅色の便せんを取り出し、けれど開くことはせずに手を離す。はらり、便せんが机の上へと舞い落ちる。
「あたしはそんな風流のわかるお姫様じゃないもん……」
 ただの16歳の女の子だもん。
 両手で頬杖をつき、窓の外へとまなざしを向けた実月は、夕暮れの町を映した大きな瞳をそっと閉じた。
「もう……龍太のやつ、また落ち込んでるな……おなか、痛い……」



 
* * *



 冴えた弦音(つるね)を聴くと、心が鎮まる。
 生まれたときから、いや、生まれる前のまだ母の胎内に在るときからきっと、自分はこの音を子守歌代わりに聴いていたのだろう。
 道場にはすでに大輝が訪れ、師範の指導のもと的前に立っていた。ほかにも数人の少年たちが来ていたが、すでに今日の鍛錬を終えた様子らしい。挨拶を交わし、きっちりと礼をして出て行く彼らを見送って、恋次も己の弓を手に落ち=i一番後ろ)の的前へと立った。この道場でこの的を使うのは、梅田の嫡流に連なる者だけだ。
 射場に響く弦音を聴くと、意識せずとも心が鎮まる。だが、今日に限っては何か違う意識がしきりに心を落ち着かせようとしているようだった。
 前方では師範の大輝への指導が終わったらしい。「ありがとうございました」と大輝の颯爽とした挨拶が聞こえる。
 師範が最も上座に当たる畳敷きの審判席へと腰を下ろした。壁際の控えには大輝が正座し、こちらへと礼をする。
「勉強させていただきます」
 清々しいその声に、今日の大輝の言葉を思い出す。

『番矢(つがや)の人間にとって、どんなときも梅田家の方は仰ぐべき存在ですから』

 軽々しく相手を呼ぶことも、対等の物言いをすることも己の心が許さない。いや、この身体に流れる血が許さないのだ、と。
 自分にとって、大輝は友だ。初めて引き合わされたそのときから、友だと思ってきた。番矢の家の始まりは確かに梅田に仕えることだったかもしれないが、この21世紀の世の中で家と家の主従関係などリアリティのない昔話のようなものだろう。現に、大輝の言葉を実月は驚いて聴いていた。自分は……大輝を友と思いながらも、それを当然のものとして聴いていた。
 これもすべて、そういうふうに育てられたから、だ。
 番矢は梅田家あってのものと大輝は言っていたが、それはこちらにとっても言えること。そうして多くの門下に支えられているからこそ、この梅田は今も成り立っている。梅田家の嫡男として生まれた自分はそうやって生かされているのだ。
 それを忘れたことはない。与えられた恵みへの感謝を、忘れたことはない。
 今の自分に、なにも不満はない。
 この目の前にある矢道のように、己の前に続くまっすぐな道を歩いていくだけ。未来へ続く、まっすぐな道を。

 ……それが、梅田恋次の道。

 息を吐き、心のうちの余計なものもすべて吐き出し終えるまで、目を閉じた。
 今はただ、無心であれ。
 番(つが)えた矢を送り込み、28メートル先にある的を見据える。静かに打ち起こした弓を、ゆっくりと引く。引き絞られた矢は、やがて離れるべくして離れ、鋭く空を切り裂いていく。残った弓が弦と相打ち合って、美しい弦音を響かせる。
 けれど、矢道の向こうで的中する音は、この耳に届かなかった。






To be continued.
劇中時間 06/12(Thu)
「A rose is a rose is a rose.」=「バラはバラ以外の何ものでもない」




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