* * *



 その本屋は半地下にあるらしい。通りから続く階段を下りてガラス戸を開けると、明るすぎない店内にはほどよい人数の客があった。
「なかなかいい店だな」
「うるさくなくていいでしょ?」
 落ち着きたいときによく来るのだ、と実月は慣れた様子で棚と棚の間の通路を歩いていく。
 実月に腕を引かれたまま、恋次も並ぶ蔵書を眺めながら歩いた。ベストセラーから専門書まで幅広い種類のものが置いてあるようだ。
「なにを買うんだ?」
「『キミ色アルカンシェル』の2巻」
「アルカンシェル(arcenciel)……虹か」
 タイトルからして、おそらく青春小説の類だろう。実月が読み終わったなら借りてみるのもいいかもしれない。そんなことを思っていると、それらしいジャンルの並んだ区域を実月はあっさりと通り過ぎた。驚きながらもついていくと、
「あ、あった!」
 実月の足が止まったのは少女マンガの並ぶコーナーだった。平積みされた単行本の中から一冊を迷いなく実月の手が取る。
「それ、か……」
「今うちのクラスで流行ってるの。おもしろいよ、恋次も読んでみる?」
「いや、いい……」
「男子もけっこうハマってるのに……じゃあ、恋次はどの子がいい?」
 見せられた表紙には制服姿のかわいらしい女の子たちが数人描かれている。特に興味は引かれなかったが、選んでと実月が強く言うので、仕方なく一人を指した。黒のショートヘアで、意志の強そうな大きな瞳が実月とどこか似ていなくもない。そういえば、実月も小学生の頃はこんなふうに短い髪をしていたな、と思い出した。
「ふぅん……恋次はレミが好きなんだ」
 まじまじと表紙を見下ろして、実月がつぶやいた。
「レミ?」
「この子の名前」
「ああ……でも、べつに好きってわけじゃ」
「この中だったら、レミがいいんでしょ?」
「まあ、な」
 そこは素直にうなずくと、実月はまたまじまじと表紙を見つめた。

 ……なにがそんなに気になるんだか。

 苦笑して見守っていると、やおら実月が顔を上げて言った。
「レミってね、すっごくわがままなの」
 かと思うと、レジに向かってすたすたと歩き出す。その背中をしばし見つめ、くす、と恋次は微笑んだ。
「俺、あっち見てるから」
 振り返った実月がうなずくのを確認してから、恋次は歩き出した。女の子ばかりのそこから抜け出し、向かったのは店の奥。
 小難しい専門書が並んだ棚の前には一人の男子学生がいるだけだった。白シャツに紺のズボン。オーソドックスな制服姿の彼はこちらに背を向けて、なにやら熱心に本を探している。
 恋次も棚に置かれた本の背表紙を眺めて歩きながら、やがて一冊の本の前で足を止めた。
「…………」
 しばし迷った末に、そっと本の縁へと指をかける。引き出した本の表紙を見下ろし、そのタイトルを声には出さずに口でなぞった。
 ――『その道‐梅田流派の歴史に想う‐』。
 奥付を開いてみると、まだ自分が生まれる前に出版されたものらしい。筆者の名前に見覚えはなかった。

 ……親父は知ってる、かな。

 ぱらぱらとページをめくり、だが買う気にはならずに早々に元あった場所へと戻す。自分で買わずとも家の書庫にすでに並んでいるかもしれない。それに、読んだところで、きっと本当に自分の知りたいことはそこには書かれていないだろう。
 同じ棚にある違う本を手に取ったとき、視界の端で琥珀色がさらりと揺れた。
「おまたせ」
 こちらへ近づく途中で、実月が棚を見上げて大きな瞳を丸くする。
「へえ……弓の本って、けっこうたくさんあるんだね。あ、それ買うの?」
 ひょこっと小首を傾げてこちらの手元をのぞき込んだ実月にうなずいてみせる。そうして歩き出せば、
「あの……」
 唐突に背中から声をかけられた。
「恋次さん、ですよね?」
「え?」
 振り返ると、先ほどの男子学生が驚いた顔でこちらを見ていた。
「大輝(ひろき)……」
 思わず口から名前がこぼれ落ちる。
「はい。こんなところで恋次さんに会えるなんて……うれしいです」
 名前を呼ばれた相手は本当にうれしそうな笑顔でうなずいた。
 見覚えがあるどころではない。幼い頃からよく知っている相手だ。今日もこれから数時間後には顔を合わせるはずの相手だ。
「ごめん、後ろ姿じゃ大輝ってわからなかった」
「気にしないでください。俺もこんなところで会うなんて驚いて、本当に恋次さんかなって、始めは疑ってしまいましたから」
 頭に手をやり、すいません、と笑った相手が、こちらの隣で目をきょとん、とさせている実月に気づいて姿勢を正した。
「梅田門下の番矢(つがや)大輝です。恋次さんには7歳の頃からお世話になってます」
 短い黒髪、綺麗な卵形の輪郭の中にきりっと描かれた眉目(びもく)。清々しい笑顔の相手を前に、実月がまた目を丸くする。
「え……番矢大輝って……あの大輝くん?」
「おそらく、その大輝くん≠ナ間違いないかと」
「うわー、久しぶり! 大きくなったねー、大輝くん! あ、あたし実月、覚えてる?」
 実月も幼い頃に大輝とは何度か顔を合わせていた。が、数年ぶりに見る相手がこうも成長していては、すぐに思い出の中の姿と重ならなかったのだろう。目を輝かせて見上げている。
「うわー、小学生の頃はあたしと同じくらいの身長だったのに。今は恋次より大きいんだ」
「おかげさまで、なんとかここまで育ちました」
 ひとしきりはしゃいで懐かしむ実月を見下ろしていた大輝が、ふとこちらの手にある本へとまなざしを向けた。そうして切れ長の目を穏やかに細める。
「やっぱり、どんな装いでどんな場所にいようと、恋次さんは恋次さんですね」

 ……そういうそっちこそ。

 目にかかる前髪をかきやり、恋次は苦笑した。
「道場の外で敬語はやめてくれ。同い年なんだから」
 こうして互いに制服を着て外の街を歩いている今、ただの高校生にすぎないのだから。
 そう言外に示すと、大輝の表情が変わる。そっと目を閉じ深く息を吐くその顔は、道場の中で見る大輝そのものだ。そして、目を開けた大輝が、言った。
「それはできません。番矢の人間にとって、どんなときも梅田家の方は仰ぐべき存在ですから。俺の心が……いえ、この身体の中の血が許さないんです」
 その強い口調に、実月が目を見張る。
「え……どういうこと?」
 実月の問いかけに、大輝は穏やかな、それでいて誇りに満ちた表情で語り出した。
「番矢の家は梅田家第七代当主よりその名と役割を与えられて始まりました。自分たちは梅田家あってのもの。その教えと喜びが今の俺にも伝わって流れています。だから……俺にとって、恋次さんは本当に特別な人なんです」
 同じ年で今の世に在ることが本当にうれしい。けれど、うれしい分だけ軽々しく相手を呼ぶことも、ましてや対等の物言いをすることもできないのだ、と。
 大輝の言葉を、実月は心底驚いた顔で聴いている。
「それじゃあ、俺はこれで……」
 お先に失礼します、と律儀に頭を下げる大輝へ恋次は微笑んでうなずいた。
「ああ、また後でな」
「はい!」
 また後で会おう。ただその一言に弾けんばかりの笑顔になる大輝。
 彼が店を出ると同時に、実月がぐっとこの腕をつかんで見上げてきた。その顔が驚くほど真剣だ。
「大輝くんって……前世で恋次の恋人だったんじゃないの? それか、恋次に恋する平安貴族のお姫様とか……」
「…………」

 ……なにを言い出すかと思えば。

 思わず笑い出せば、実月は一人真剣な顔でうなずいている。
「あの大輝くんのうれしがりようは、ありえるよ……」
「外で会ったのが新鮮だっただけだろ」
 普段、顔を合わせるのはもっぱら道場の中、もしくはそれに関わる場所でのみだから。
「えー、それだけであそこまで笑顔になるかな?」
「りゅう……」
 龍ちゃんだって、笑顔になってくれるさ――。
 何気なくそう言いそうになって、思わず続きを飲み込む。
 そう、龍太だって、思いがけない場所で顔を合わせると、いつも喜んでくれる。まるで十年に一度の友と再会したかのように驚いて、笑ってくれる。

 ……それが今は、絶交か。

 会計を済ませ店の外に出ると、思いのほか風が心地よかった。
 さら、と隣で揺れる琥珀色を見下ろして、大輝の言葉を思い返す。
「どんな装いでどんな場所にいようと、か……」
「え?」
 実月が小首を傾げてこちらを見上げる。その仕草も、自分を映す瞳も、何一つ今までと変わりはないのだ。
「実月は実月、だよな」
 すると、目の前の瞳には不満の色がにじんだ。
「大輝くんの言葉で納得しないで。あたしと恋次の間には梅田家も沖本家も関係ない」
「それは俺だって……」

 ……俺だって。

 俺だって、思う――。
 いや、果たして本当にそうだろうか。どこにどんな装いでいようと自分は自分。梅田恋次である以上、梅田家の嫡男であり、知る人から見れば跡取り息子なのだ。一昨日のジロの言葉も、そういうことだろう。ジロや寿人に返した己の言葉も、そういうことだろう。
 そういうふうに育てられて、今の自分がここにいる。
 唐突に電子音が聞こえた。なんの飾り気もないこのアラーム音は自分の携帯電話の着信だ。制服のポケットから取り出して開いてみれば、発信者は栗原だった。
「ちょっと悪い、生徒会の先輩から」
 うなずく実月を視界の端に置いて、携帯電話を耳に押し当てる。
「はい」
『恋次? 俺だけど、今平気か?』
「大丈夫です。何か緊急の召集ですか?」
『や、ただの連絡。明日、篠ヶ崎の生徒会が来るってさ。うちの体育祭について改めていろいろ詳しく訊きたいから、できれば九条会全員を揃えておいてほしいってな』
「明日の放課後ですね、わかりました。月島さんは今日欠席してるんですよね? 大丈夫ですか?」
『おう、さっき電話したら、もう熱も下がったし明日は来れるってさ。それより、せっかく仕事切り上げて放課後空けたのに悪かったな、邪魔して』
「いえ、べつに……」
 苦笑しながら、それじゃ、と電話を切った。二つ折りの画面を閉じる直前に目に入った時刻は午後ももう5時をまわろうかとしている。陽がかなり伸びているせいで気づかなかったが、実月と過ごすうちにだいぶ時間が経っていたようだ。
「そろそろ帰るか……」
 と、それまで隣にいたはずの実月の姿がない。どこに、と辺りを見回せば、手に握ったままの携帯電話が再び鳴る。反射的に出れば、捜す相手がそこにいた。
『あたし、先に帰るね。そろそろ龍太も部活終わる頃でしょ? 偶然顔合わせちゃったらかわいそうだし』
「そう、だな……わかった。送ってやれなくて、ごめん」
『全然平気だよ。じゃあ、またね。あ……』
「どうした?」
『うん……今日、一緒にプリクラ撮ってくれてありがと』
「……ああ」
 うなずいて、恋次は小さな微笑を頬に浮かべた。遠く人波の向こうで、一人の少女がこちらに向かって手を振っている。傾き始めた初夏の太陽に、風に揺れる琥珀色が照らされていた。
 見上げた空がほんのりと淡く色づき始めている。
 初夏の夕暮れは、一年のうちで龍太が最も好きな景色だ。

 ……龍ちゃんも、この空見てるかな。

 この空が、せめて少しでも龍太の心を癒してくれるようにと、願った。



 
* * *



「龍太くん、空が綺麗だよ」
 開いた窓からそよ、と一筋の涼風が入り込んできた。風は長椅子に座る龍太の髪を戯れに梳いて、またどこかへと走り去っていく。
 窓枠に頭を預けてぼんやりしていた龍太は、柚木の言葉に一度窓の外へと視線を向けたものの、その漆黒の瞳は何の感想も映さずにまた部屋の中へと戻ってくる。
 ここは校庭の西にある部室棟、陸上競技部が使用している1階の一室だ。姿があるのは龍太と柚木だけ。一真や瀬戸、小坂たちほかの部員はすでに家路についている。この一室どころか、部室棟のどの部屋にも、もう生徒が残っている気配は感じられなかった。
「龍太くん」
 柚木がそっと名前を呼ぶ。
 制服には着替えたものの、龍太は長椅子から腰を上げようとしない。かれこれ二十分、机の上に広げた自分のジャージをただじっと見つめている。だが、灯りも消され、窓から射し込む夕陽の名残だけでは、そこに雄々しく縫い込まれた銀龍の姿はよく見えない。
 また風が吹いた。さら、と龍太の漆黒の髪が揺られて、その頬をくすぐっている。と、やにわに龍太が己の髪をつかんだ。
「俺、髪切ろうかな……」
 ぽつり、龍太がつぶやく。握りしめた手をするりと解いて、
「髪、切ろうかな……あの頃みたいに……」
 またつぶやいた。
 そんな龍太の横顔を柚木は静かに見守っている。
 やがて沈黙に耐えかねたのか、答えを求めるように龍太が顔を上げると、柚木は穏やかに微笑んで言った。
「それで龍太くんが本当に納得できるならね」
「…………」
 龍太はうつむいて、再びジャージに宿る銀の龍を見下ろした。
 龍太の背後では、窓枠に切り取られた初夏の夕景が先ほどよりも美しく色づいている。けれど、龍太の瞳がそれを映すことはこの日なかった。



 
* * *



 その頃、部室棟の柱の陰になにやら身を潜めた格好の二人の人影があった。
 少年らしいその人影は、辺りをうかがいながら数メートル先にある水飲み場の陰へと走り込む。その後も同じように物陰から物陰へと身を隠し、再び走り出そうとしたところであわてて踏み止(とど)まった。
 いっそう身を潜め、息を殺す彼らの前を、全日制の事務職員たちが和やかに談笑しながら過ぎていく。職員たちが戻ってこないこと、ほかに通る人影がないことを確認した少年二人はそこから飛び出すと、一息に西門を越えていった。
 通りに出た彼らが向かったのは、すぐ目の前にある都立公園。夕方の公園をただそぞろ歩きしているようにしか見えない彼らを疑う者は誰もいない。少年たちもほっとしたように公園の奥へと歩いていく。やがてスロープの手すりに腰掛けた二人の姿を見つけると、少年たちは再び駆け出した。
「ユウキ!」
 呼ばれて、一人が振り返る。斜めにかぶった白いキャップから金茶に染めた短めの髪がのぞいている。瞳が、日本人にはめずらしい灰色だ。チューイング・ガムをぷーっとふくらませながら、二人がそばまで来るのを待つらしい。そうして駆け寄ってきた二人へ、彼はまず優しげな笑顔を見せた。
「ジョージもヒナもお疲れ。どうだった?」
「どうもこうも、おカタイったらないぜ」
 息弾ませながら駆けてきた二人は、灰色の瞳の少年の足下へとしゃがみ込む。そうして仕事≠フ成果を代わる代わる話し出した。
「体育館はどうやら校舎内にあるらしいぜ。西門を越えるのは簡単だけど、その後は案外しんどかった。建物ん中はセキュリティ厳しくて、入り込むのはまず無理だな」
「校庭に部室棟ってのがあってさ、運良く1階にお目当ての部屋があったんだけど、隣の部屋にまだ残ってるやつらがいて、よく見れなかった」
「……なあ、あそこって定時もやってんだろ? だったら、定時生のふりすりゃ私服で堂々と入れるんじゃないの?」
 ガムを噛みながら灰色少年が訊ねると、足下の二人は一度顔を見合わせ、同時に首を横に振った。
「全日の下校時間と定時の登校時間が微妙にかぶっててさ、うまく潜り込めたとしても人の目が多すぎるよ」
「リスクでかすぎ」
「ふぅん、そっか……」
 灰色少年はうなずくと、またガムをふくらませる。その表情はなにも考えていないようで、なにかをじっと考えているようでもある。
「……ユウキ、どうする」
 それまで隣で様子をうかがっていたもう一人の少年が低い声で問いかけた。
「んー、どうするもなにも、やるっきゃないだろ」
 灰色少年が伸びをしながら立ち上がれば、ほかの三人もそれへ倣うように立ち上がった。
「じゃあさ、ユウキ、最初の案でいくってこと?」
「うん。俺たちバカなんだからさ、そんな難しいことあれこれ考えたって、結局うまくいかないって」
 その言葉に、ほかの三人が「そりゃ、そうだ」と一斉に笑い声を上げる。
「そういや、明日って13日だっけ? Xデーが13日の金曜日なんて、おあつらえ向きじゃん」
 にっと笑った灰色少年が足下にガムを吐き捨てた。とたん、その笑顔に剣呑(けんのん)な色がにじみ出す。
「さーて……明日が楽しみだな」


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