* * *




「あちちっ……」
 校舎4階、生徒会室。
 廊下に漂う昼休みのざわめきとは扉一枚を隔て、穏やかな午後の時間が流れている。
 中央に置かれた楕円形の白テーブルには二人の姿。そのうちの一人が、たった今口をつけたばかりのティーカップからあわてて顔を離した。豊かな香りとともに紅茶から立ち昇る湯気をふうふうと遠慮なしに吹き飛ばし、おそるおそるもう一口。
 そんな猫舌の友人の様子を横目に、恋次は先ほどから書類へとペンを走らせていた。
「食後くらいゆっくり休めばいいのに。消化に悪いよ」
「綾井が出てる間に充分休んだよ。悪いな、お使い行かせて」
「べつにかまわないけど……須賀さん、紅茶が変わったの気づくかなあ」
 寿人の茶目っ気ある言葉に恋次はふとペンを動かす手を止めた。顔を上げて寿人の視線の先へとまなざしを向ければ、食器棚の端にこれまでと違うメーカーの茶葉が置かれている。
 昼休みになって、会室へと寿人がついてくるのはいつものこと。購買部のパンをかじりながらとりとめのない雑談を楽しんで、栗原から頼まれれば少しの雑用を気軽に手伝っていくのがいつものことだ。
 今は須賀たち3年生の姿はなく、寿人と二人。普段と取り立てて変わりない昼食風景をやり過ごし、食後の紅茶を寿人に淹れてやろうとしたところで、あいにく茶葉を切らしていることに気づいた。

『じゃ、俺買ってくるよ。梅田に淹れてもらう紅茶、おいしいから』

 鼻歌まじりに会室を出ていった寿人だったが、ついでに校舎も抜け出していたらしい。
「ずいぶん遅いと思ったら、外まで買いに行ってたのか? 購買部まででよかったのに」
「だって、まさか紅茶まで購買にあると思わなかったからさ」
 職員室や研究室で教師たちがいつでも飲めるようにと、紅茶はもちろんのこと、緑茶もコーヒーも購買部には常に置かれている。もっとも、生徒で茶葉から淹れた紅茶を飲みたいときに飲めるのは、室内で電気ケトルを使える生徒会役員だけ。それを一般生徒が知らないというなら驚きもしないが、これだけ生徒会室に入り浸っている寿人が知らないはずはない。
 じ、と正面の相手を見返すと、薄茶の瞳がにこ、と笑む。あくまで知らなかったと無邪気に目で言い張る相手に、問いかけた。
「いくらだった?」
「いいよ。これって経費で落としてないんだろ? いつも忙しい九条会に俺からのプレゼント」
 無邪気な瞳に再び茶目っ気が宿る。
 恋次は室内に漂う香りをす、と胸に吸った。鼻腔を通り抜けていくそれは、いつもより深く、艶(あで)やか。不粋だとは思うが、値段に換算すれば倍以上になるだろう。

 ……つまりは、そういうことか。

「じゃあ、遠慮なくいただく。須賀さんより先で悪いけど」
 寿人が淹れてくれたまま脇に置いてあったカップへ手を伸ばすと、くす、と小さな笑みが返ってくる。
「おいしく淹れてあげて」
「了解」
 微笑んで、恋次もカップに口をつけた。イングリッシュ・ティーの豊かな味わいを楽しみながら、向かい合う友人をちら、と見やる。

 ……そうしてなにも訊こうとしないのは、優しさなのか?

 校内でささやかれている噂を寿人も聞かないはずはないだろう。もともと自ら好んで人の噂話に口を開くような性格でないことは知っている。けれど、あの日、彼女を自分の元へと案内してきたのは、ほかならぬ今目の前にいる寿人だったのだ。それを実際に目の当たりにした九条生からいろいろとしつこく訊ねられたりもしていることだろう。
「俺さ……」
 ゆっくりと紅茶を飲み下し、ほっと一つ息をついた寿人が言った。
「梅田といると、気が楽」
「気が楽?」
 うん、とうなずいて、寿人がまたカップへと口をつける。

 ……気が楽、か。

 それはおそらく、気の置けない相手、という意味ではない。唐突にそんなことを言う寿人の意図はわからないが、言い得て妙だ、と恋次も小さくうなずいた。

 ……それは俺も同じかもしれない。

「綾井がなにも訊いてこないのは、だからか」
「おとといのこと?」
 苦笑してうなずけば、三度(みたび)寿人の瞳に茶目っ気が宿る。
「聞きたがりじゃないだけだよ。聞いてほしいなら聞くけど、そういうことは絹田のほうが得意じゃないかなあ」
 適役はほかに相手がいる。そう言われて、かえって今目の前の相手に聞いてもらいたくなった。寿人に聞いてもらいたくなった。途中になっていた仕事へキリのいいところまで筆を入れて、後はもうまとめてテーブルの端へ置いてしまう。
 いかにもこれからが本番とばかりのこちらの様子を眺めても、寿人は特に構えることもなく、ひょうひょうと紅茶を飲んでいた。
「実月(みつき)を連れてきたのは綾井だろ」
「まあね、困ってるみたいだったから」
「……ありがとな、あいつを助けてくれて」
 幼い頃から、彼女はどちらかというと外では引っ込み思案な内弁慶の性質だった。いくらきょうだいや幼なじみの通う学校といえど、一人で知らない校内を歩くのは少なからず不安だったはず。
「案内してくださいって頼まれたら、誰も断らないよ」
「実月に頼まれたのか? だったら、なおさらだ」
 彼女から案内を頼んだなら、それは相手が寿人だから。相手を誰とわかったうえでのことだろう。これまで彼女の前で寿人の話をしたことは何度かある。その容貌について詳しく聞かせたことはなかったが、きっとその人好きのする笑顔から察したに違いない。人の性質を見抜く目は、さすが血を分け合った兄と同じ。
「龍ちゃんによく似てたろ。あいつ……実月は、龍ちゃんの妹なんだ」
 そう、実月は龍太と、父と母を同じくして生まれた妹。
 そして……
「鈴蘭の制服だったね。1年生? 年子か」
「いや、2年」
「え? だって、妹だろ?」
 寿人が小首を傾げて目を瞬かせる。それへ、まるで小さなカラクリ箱を開けるような心地で告げた。
「双子の妹なんだ」
「へぇ……男と女の双子って、俺、初めて見たかも」
 寿人が小首を傾げたまま無邪気に笑う。そうして右足を椅子の縁へ軽く乗せると、右膝を腕の中へ。その仕草を目に留め、恋次はわずかに眉根を寄せた。
「……痛むのか?」
「ん? ああ、これ? 平気。ただの癖。ごめんな、行儀悪くて」
「いや、もう見慣れてるから」
 無意識に右脚をかばう寿人の癖。知り合ってからこれまで幾度となく見てきたものだが、そこに隠された過去の傷を本人の口から聞いたのは、ほんの数週間前のことだった。その事実を知っている人間は、この校内で自分も含めごくわずか。寿人が所属しているバスケ部でも知っているのは主将と面倒見のいいマネージャーだけらしい。ほとんどのチームメイトは、なにも知らずに同じコートの上を走っている。
 ふと、先ほどの寿人の言葉を思い返した。

『俺さ……梅田といると、気が楽』

 部活中に見かける寿人は、いつもひょうひょうとしている。学校生活のどんな時間でも、寿人はひょうひょうとしている。己の過去についてここで語ったときも、そうだった。まるで昨夜の夕食のメニューを話すような口振りだった。
「綾井」
 気づくと呼びかけていた。いつのまにか、ふらり出窓の方へと向けられていた寿人の視線が戻ってくる。
「俺も、綾井といると気が楽かもしれない」
 寿人はなにも言わずに微笑むと、肩をすくめた。
 扉は廊下のざわめきをせき止めているが、開いた出窓は中庭に響く楽しげな声を呼び入れる。
「――っし! 絹田、絹田、見た? 今の! ノータッチでシュパッて!」
 聞き覚えのあるあの声は岡田か。呼びかける相手が絹田だけということは、めずらしくいつもの相棒は一緒ではないらしい。直也はどうしたのだろう。そう考えて、すぐに思いつく。

 ……龍ちゃんのとこ、かな。

 昨日も今日も直也とは顔を合わせていないが、会えば開口一番に叱られそうだ。直也にとって龍太がどんな存在であるかは認識しているつもり。龍太になにかあったとき、直也が心を痛めずにいるはずがない。いくら、これが自分と龍太の二人(あるいは実月を含めた三人)だけの問題であったとしてもだ。それが、人と人とが係わるということだろう。
「妹、か……」
 つぶやく声が聞こえた。顔を上げれば、寿人はまた出窓でふわり泳ぐカーテンを眺めている。
「綾井?」
 カップに残った紅茶を一息に飲み干し、寿人が立ち上がる。
「妹っていいな、と思ってさ。俺、男兄弟しかいないから」
「ああ、お兄さん……確か星隣(せいりん)大の4回生って言ってたっけ」
 匡人(まさと)という名の兄を寿人はよく「匡兄(まさニィ)」といかにも親しげに呼んでいる。実際にその姿を見たことはないが、寿人と似ているのだろうか。
 素朴な疑問をぶつけてみると、寿人は再び肩をすくめた。
「少なくとも、沖本兄妹ほどには似てないよ」
「そうか……あ、紅茶ごちそうさま」
 今度はにこ、と寿人が笑顔でうなずく。
 テーブルの上を片づけていると、ガシャン、と背後の中庭で大きな音が響いた。
「くそー、もう一回!」
 くやしげな岡田の声を背中に聞いて、生徒会室を後にする。
 廊下に出たとたん、横から声をかけられた。
「あ! う、梅田先輩、こんにちは!」
 振り返った先に並ぶのは1年生と思われる女子生徒が数人。
「こんにちは」
 微笑んで挨拶を返せば、たちまち彼女たちは頬を赤らめ、楽しげに顔を見合わせる。そうして、はしゃぐようにパタパタと廊下を駆けていった。
 彼女らの背中を見送り、くす、と寿人が笑う。
「さすが。どんなときも恋ちゃんマジック≠ヘ健在ってわけだ。俺、梅田が人前で落ち込んだり、誰かに八つ当たりしてるとこって、見たことないもんなあ」
「そんなの、べつに特別なことでもなんでもないさ」
 きっちり扉を閉め、合鍵は白シャツの胸ポケットへとしまう。会室を出てすぐ右手にある西階段を下りながら、さらりと言ってやった。
「そういうふうに育てられたから」
「なるほど、両親の教育の賜物ってわけか」
 無邪気に感心するらしい寿人の言葉に、わずかな引っかかりを覚える。
「いや……どちらかといえば、梅田の家≠フ、だろ」
 わざわざ訂正して聞かせるほどのことではなかったろうに、気づくとそう言っていた。隣を歩く寿人はさして感じることなどなかったように、なにも言わなかった。
 3階に降り立った恋次はそこで一度足を止める。
「ちょっと龍ちゃんの様子見てくるから」
 それじゃ、と足を左に向けると、この背中を追うでもなく、なんとも曖昧な調子で寿人の声が聞こえた。
「俺、梅田のそういうところ、嫌いじゃないよ」
「……え?」
 そういうところ、とはつまり、どういうところ?
 思わず足を止めて振り返ったが、寿人もすでに歩きだしていた。柱の陰に消えゆくその背中が実に茶目っ気な表情に見えて、つい苦笑する。
「……俺も、綾井のそういうところ、嫌いじゃない」



 * * *



 2年1組と1年2組は階は違えど、校舎の同じ東側。なにも校舎の端から端へと移動するわけではないのだから、5時限目の本鈴が鳴るギリギリまで龍太を待とう。
 そんな一真の計画は、クラスメイトからの電話であっけなく崩れた。
「もしもし、越智? どうしたの? え、グラマーの予習? うん、してあるけど……いいよ、机の上にあるやつ……あれ、ない? ……あ、今持ってた。うん、わかった、これから教室に戻るから」
「ノンのやつ、一真のノート見せてくれって、泣きついてきたんだろ」
「うん、ユースケたちも今日は全滅みたい」
「あいつらもこりねーな」
 二つ折りの携帯電話を制服のポケットへしまいながら一真は苦笑する。脇に抱えているのは二冊のノート。練習メニューを記した一冊のほか、同じ机の上に重なっていたグラマーのノートを間違えて一緒に持ってきてしまったらしい。
「瀬戸はちゃんと……あれ? 瀬戸?」
 あいつらもこりないとクラスメイトをけなしたはずの瀬戸が、なぜかあわてた顔で階段を駆け上っている。
「……人のこと言えないじゃん、瀬戸」
 ちら、と未練のまなざしを2年1組の教室へと向けてから、仕方なしと一真も足早に東階段を上った。
「一真、早く早く」
 中学生の給食の時間よろしく机を寄り合わせた彼らの元へと歩み寄りながら、ふと聞こえた高い声に一真はそちらを見やる。ほぼ同時に前方の出入り口から教室へと戻ってきた女子たちが、なにやらはしゃいだ様子だった。
「やっぱりかっこいいよねー、梅田先輩!」
「目の保養、目の保養」
「あの声思い出したら、あたし今晩眠れないかも」
「わかるよ、ユッコ! あたしも! あの声がいいんだよね〜」
 会室の前で待っててよかった、と目を輝かせる彼女たちの言葉に、一真は廊下へと飛び出しかけて、
「あ、ノート!」
「一真? どした?」
 驚いた顔の越智へとグラマーのノートを預けて、今度こそ廊下へと飛び出した。飛び出す直前にさらに聞こえた黄色い声はとりあえず右から左に流しておく。
「綾井先輩って、いつも梅田先輩と一緒にいるよね。仲良しなんだ」
「よく梅田先輩のお弁当ほしがってるの見かける」
「あは、かわいー」
 中央階段の脇を抜け、中庭を見下ろせる回廊へ。明るい窓越しに生徒会室の出窓が見えるが、カーテンが引かれているために室内の様子まではわからない。
「いてっ」
「あ、ごめん!」
 すれ違いざまぶつかった1年生に謝りながら、会室の扉の前へと辿り着く。少しばかり上がった息を鎮めながら、コンコン、と丁寧な手つきでノックした。
「…………」
 返事はない。もう一度、コンコンコン、と強めにノックしてみたが、やはり結果は同じ。
「もう戻っちゃったか……沖本さんのことなにか聞けるかと思ったんだけどな」
 前髪を引っかき、残念、と一真はつぶやく。そのとき、左に力ない足音を聞いた。振り返れば、一人の男子生徒がうつむきがちにとぼとぼと西階段を下りてくる。
「沖本さん!」
「……あ、一真」
 ほんの一瞬、空ろな表情で顔を上げた龍太が、そこにいるのが一真とわかってたちまちぱっと笑顔を作った。
「沖本さん、あの……大丈夫ですか」
「大丈夫って、なにが? 俺は元気だよっ! ほらっ!」
 ぴょん、と残りの数段を一気に飛び降りて、また笑顔。
 一真がなにも言えずに立っていると、龍太はその笑顔のままふいっと目をそらして階段の手すりへと手を置いた。
「5限に遅れるから、俺もう行くよ。次、世界史だからさ! 俺、世界史って大好きなんだよな! 遅刻しちゃ大変だし! じゃあな、一真! また部活で!」
 一気にまくしたてて、階段を下りていく。その背中でちらりと銀の龍が儚げに光った。
 龍太が世界史の授業ではいつも寝ていることも、遅刻常習者であることも知っている。一真は前髪を指先で引っかき、はあ、とため息を吐いた。
「空(から)元気が見てられないなー……」
「そうだね」
 背後で穏やかな声。
「あ、柚木(ゆずき)さん」
 いつからそうしていたのか、回廊の窓に背を預けて穏やかに苦笑しているのは、陸上部で唯一の3年生、柚木。細身で優しげな風情の彼がゆっくりと歩み寄ってきて、後ろからそっと一真の肩に手を置いた。
「さて、どうしようか……」



 
* * *



 寿人と別れ、校舎の反対端へとやってきた恋次。
 1組の教室をのぞくと、龍太の姿は見あたらなかった。こちらに気づいた穂積が、苦笑顔で首を振る。今はいない、ということらしい。
「5限の授業は?」
「世界史」
「世界史か……龍ちゃん、このままサボらないといいけどな」
 世界史は龍太の苦手な科目だ。先月の中間考査の結果もそれは悲しい点数だったことを思い返して、恋次は眉根を寄せた。
「恋次くん、あの……」
「え?」
「……ううん、やっぱりなんでもない」
 なにかを言いかけた穂積が、少し迷う素振りの後で結局は言葉を飲み込む。
「龍ちゃんのこと?」
「ううん、いいの。あたしたちのことは気にしないで」
 ――あたしたち。
 穂積が自分自身のほかに誰を指してそう言ったのかは、容易に想像がつく。そうだ、龍太のことで心を痛めるのは直也だけじゃない。
「心配かけてすまないな」
 わずかに肩をすくめた穂積の視線が、ふっと横へ滑った。
「龍太……」
 穂積の口からぽつ、とこぼれた名前に、恋次は、はっと振り返る。Tシャツの上に陸上部のジャージを羽織った龍太が廊下に立ち尽くしていた。龍太はきゅっと口を引き結ぶと、つ、と顔を背けてすぐ脇を通り抜けていく。恋次はとっさに、その腕をつかんだ。ぴた、と龍太の足が止まる。
「龍ちゃん」
「…………」
 呼びかけても、返事はない。かまわずに龍太の腕を引いて、廊下へと連れ出す。振り払われるかと思ったが、意外にも龍太はおとなしくついてきた。
 廊下で談笑していた1組の生徒たちが気を遣うのか、教室の中へと入っていく。
 人けのない廊下の隅で龍太と二人、向かい合った。そっと龍太の腕を放す。艶(つや)やかな漆黒の髪が風にさら、と揺れて、龍太の大きな瞳を一瞬、覆い隠した。
「龍ちゃん、最近めがねかけてないな。合わなくなったのか?」
「…………」
「めがね屋さん、行ったほうがいいよ」
「…………」
 龍太は相変わらず口を利こうとしない。大きな目も伏せたままで、どこを見ているのかもわからない。
「……体育祭でのことは軽率だったと思ってる。ごめん」
 ひと思いに謝れば、それまでうつむいたままだった龍太が顔を上げた。その顔にいつもの無邪気な笑顔の花が咲くことを期待して、まっすぐに恋次は見つめ返す。
 龍太とのケンカはこの十四年の間でそれこそ数え切れないほど経験してきた。ケンカの種も理由も些末(さまつ)すぎていちいち覚えてはいないが、今回のことはそんな小さなケンカではないと自覚はしているつもり。龍太を傷つけたのは自分だと、はっきりわかっているつもりだ。だから、そのことを龍太にもわかってもらえさえすれば、きっとすぐにいつもの屈託のない龍太に戻ってくれるだろうと思っていた。
 じっとこの顔を見上げていた龍太が、やがてふっとそのまなざしをそらす。
「ごめんで済んだらケーサツはいらないよ、恋ちゃん」
 期待とは裏腹の、素っ気ない龍太の言葉。くるっとこちらに背を向け、まさにとりつく島もない。
 こうなったら、龍太の気の済むまでとことんつきあうしかないだろう。

 ……俺にできることといったら、もうそれだけだ。

「……また出直すよ」
「来なくていい」
 間髪入れずに返ってきた一言に、前へと踏み出しかけた足を思わず止めた。
「龍ちゃん?」
「何回来たってムダだよ。俺、恋ちゃんとは絶交する」
 それだけ言って、龍太は1組の教室へと戻っていった。ほんの一瞬、龍太の背中で銀の龍が光に照らされる。
 龍太の姿がすっかり教室の中へと消えるのを見送って、恋次も再び歩きだした。

 ……絶交って、小学生のケンカじゃあるまいし。

 子どもっぽさも龍太の魅力。だが、今回ばかりは手に余る。
「……頼むから成長してくれ、とも言えないか」
 今回ばかりは自分の口からはそう言えないのがつらいところだ。
 さんさんと陽光の射し込む明るい回廊で、ふっと一息入れた。初夏の風に吹かれながら見下ろした中庭には人影がない。バスケを楽しんでいた岡田たちも、もう自分たちの教室へと引き上げたらしい。
 そよ、と吹きつけた風が小さな話し声を道連れに過ぎていった。開いた窓の向こう、中庭を挟んだ正面で一人の生徒が携帯電話で楽しげに語らっているのが見える。その様子をしばし眺め、恋次は制服のポケットからそっと自分の携帯電話を取り出した。



 
* * *



「ハイ、俺あ〜がり!」
 ここは都心に位置する、私立鈴蘭学院。
 校舎3階、ほどよく陽の当たる教室の窓際でにぎやかな声が聞こえている。
「あー、また負けた……」
「沖もっちゃん、弱ェー。これで四回連続大貧民じゃん。よし、今から君をクイーン・オブ・大貧民≠ニ呼んであげよう」
「呼ばなくていい」
 だいたい大貧民の女王なんて言葉そのものが矛盾してる、と頬をふくらませるのは艶やかな琥珀色の髪の少女。大きな漆黒の瞳に拗ねた表情を浮かべて、机の上にばらまかれたトランプのカードを思い切りかきまぜた。
「もう一回やろ!」
「どうせ次も沖もっちゃんが大貧民だろ?」
「やってみなきゃわかんない!」
「負けず嫌いだなー、実月(みつき)は……」
 呆れ半分楽しさ半分の顔が連なる輪の中で、少女は念入りに切ったカードを順に配っていく。配り終える頃、軽快な電子音がその場に響いた。
「誰かケータイ鳴ってるよー」
「誰?」
「俺じゃねーし」
「あたしも」
「あ、ごめん。あたしだ」
「誰かもなにも自分じゃん」
「へへ、そうでした」
 先にカードを配ってしまい、机の脇に掛けていたカバンからアザレア色の携帯電話を取り出す。
「メール、誰だろ」
 二つ折りのそれをぱか、と開いて、少女は大きな瞳をさらに丸くした。
 唐突に立ち上がった彼女に、輪に連なるクラスメイトたちも目を丸くする。
「実月? どうしたの?」
「あたしパスする!」
「は? 言い出しっぺが抜けんなよ」
「ごめん、急用」
 携帯電話を握りしめて小走りで廊下へ向かう少女を見て、一人が不満そうにつぶやいた。
「なんだよ、沖もっちゃん。うっれしそうにしちゃってさ……」
 廊下に出た少女は人けのない階段の踊り場へと歩いていく。携帯電話を耳に押し当て、発信音が切り替わるのを今か今かと待つ表情。やがて、その表情がぱっとほころんだ。
「もしもし、恋次? めずらしいね……うん、大丈夫だよ。どこで待ち合わせ……え、ほんと? うん……うん、わかった、待ってる。それじゃ、後でね」
 通話の切れた携帯電話を見下ろして、少女はうれしそうに大きな瞳を細めた。
「へへ……俺が迎えに行く、だって」



 
* * *



 携帯電話を片手に、窓辺でしばらく風に吹かれていた。
「梅田、そんなところでぼんやりしてどうした?」
 通りかかった若い教師に声をかけられ、すぐに姿勢を正していつもの微笑を頬に浮かべる。
「氷川(ひかわ)先生。いえ、べつに……少し暑くて風に当たってました」
「そうだな、今年も日に日に蒸し暑くなってきたな……お」
 ふっと視界に影が差す。一片(ひとひら)の雲がちょうど太陽を隠して流れていったらしい。とたんに、吹く風にも湿気のにおいが増したよう。
「そろそろ梅雨入りも近そうだな」
「そうですね……」
 見上げた空に再び明るさが戻る。それを合図に、失礼します、と会釈をして恋次は歩き出した。
 窓辺に残った教師が感心したように、ぽつりつぶやく。
「絵に描いたような好青年か……まったくだな」





To be continued.
劇中時間 06/12(Thu)





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