LESSON 3 : の雲





 2年1組での出来事は九条生の間に一大センセーションを巻き起こした。一日置いた木曜の今日でも、校内のあちこちで恋次の名をささやく声が後を絶たない。現在、彼に大事に想う相手がいるらしいことに動揺を隠せない様子の女子生徒もあれば、過去に別れた相手があることに衝撃を受けた様子の女子生徒もあれば、「それでこそ恋次くんだよね」と、むしろ嬉々とした表情で声を弾ませる女子生徒たちの輪もあるらしい。
 そして、そんな噂話の輪を作っているのは、なにも女子生徒たちに限ったことではなかった。

「恋次に元カノがいたとか、全然知んなかったぜ、俺」
 昼休みの2年6組の教室。
 陽の当たる心地よい窓際でも、恋バナの花が咲いていた。
「ショックなような、言われてみれば当たり前のような……なーんか変な気分」
「なんで充がショック受けるんだよ」
「だってみんなの恋ちゃんだから独り占めしない≠チてのが、九条生の暗黙のルールだったわけじゃん? 卒業するまで、恋次って俺らの中でそういう存在なのかと思ってた。しょっちゅう女の子に言い寄られて困ってる絹田とは違ってさ」
「最後の一言はよけいだろ」
 ひく、とわずかに頬をひきつらせる一人に、してやったりのもう一人。クラスメイトの絹田と岡田が楽しげに花守に興じている横で、直也は一人しかめ面だった。もとよりその手の話題は得意でない上、今はじ、と床をにらみつけて考えごと。
 思いついたように岡田がパチンと軽やかに指を鳴らした。
「あ、でも、俺らの中ではやっぱり変わってないのか。恋次の相手って、今も昔も九条生じゃないんだもんな」
「それはまあ……そうかもな」
 机に片肘をついてうなずく絹田。そうしてまなざしを向けるのは、いまだしかめ面の直也の顔。
 その直也は黒板の上に掛けられた時計を一度見上げ、小さく息をつくと、それまで膝の上でもてあそんでいたバスケットボールをぽんっと、横にいる岡田に向かって軽く放った。
「わっ、なんだよ、直也」
「俺、ちょっと出てくる」
「えー、今日の勝負は?」
「パス。遊び終わったら、ちゃんとそいつ持って帰ってこいよ」
 くれぐれも中庭に忘れてくるなよ、と相棒に念を押して立ち上がる。
「お隣さん?」
 訊ねてきたのは絹田。いかにも女好きのする整った顔立ちに、今はどことなく訳知り顔の表情がにじんでいる。そんな相手を見返し、直也は無言で肩をすくめると足早に教室を後にした。
 向かった先は、絹田が訊ねたとおりのお隣さん、2年7組の教室だ。開け放たれた出入り口からはいつものように昼休みのざわめきが漏れ聞こえている。一度前髪をかきやった右手を制服のポケットへと突っ込みながら教室の中をのぞけば、目的の相手の姿はなかった。
「おう、入倉。どうした? あ、綾井なら今いないよ」
「綾井なんかに用はねえ」
 舌打ち混じりに返せば、声をかけてきた相手は苦笑して肩をすくめた。
「そりゃ、失礼」
 直也はふう、と小さく息を吐いて、窓際へと視線をやる。その席の主が確かに留守なのを認め、くる、と踵(きびす)を返した。
 回廊の窓越しに一度4階を見上げたが、またすぐに歩き出す。6組の教室へは戻らずに、そのまま素通り。直也が次に向かったのは、校舎の反対端だ。
 東のこちらは午後にもなると、西側よりもいささか陽の光が少ない。中央階段の柱のせいでさらに影の落ちた廊下を踏みしめ辿り着いた2年1組の教室。前方の入り口から中をのぞけば、またしても目的の人物は見あたらなかった。代わりに目に留めたのは、窓際でふわりと風に揺れる長い黒髪だ。直也はそっと教室のうちへと足を踏み入れる。
「……穂積(ほづみ)」
「ああ、入倉」
 呼びかけに振り返った相手が微笑んだ。
「龍太ならいないよ。昼休みになってすぐ、どっか行っちゃった」
「今日の様子は?」
「んー、相変わらず、かな」
「相変わらず、か」
 再び窓の外へとまなざしを向ける穂積。その隣へと、直也は静かに並ぶ。表の通りを眺める穂積とは反対に窓枠へと背を預けて教室を見渡せば、穂積がぽつり、つぶやいた。
「あたしたち、黙って見てるしかないのかなー……」
「…………」
「恋次くんのこと責めるわけにもいかないしね。ちょっとくやしいな」
「くやしい?」
「うん……1年2組の仲良しトリオ≠熈十四年来の幼なじみ≠ノはやっぱり勝てないのかなって」
「……こういうことは勝ち負けじゃねえだろ」
「わかってるけどさ……やっぱり入り込めないこともあるんだって、今度ばかりは実感した」
 顔を伏せるでも肩を落とすでもないが、いつになくしょんぼりとして見える穂積。その横顔を見下ろして、直也も一度奥歯を噛みしめた。
 そのまま静かに数分の時が過ぎた。
 龍太はまだ教室に戻ってこない。
「6組って、次の授業なに?」
「古典」
「古典か」
 つぶやいて、くす、と穂積が小さく笑む。
「そういえば5限に古典があると、よく居眠りしてたよね。龍太と入倉」
「おまえだって人のこと言えねえだろ」
「言えるよ。二人とも誰のノートのおかげで古典の単位落とさずに済んだと思ってるの?」
「じゃあ、おまえは誰のおかげで数Aの単位落とさずに済んだと思ってんだよ」
「う、それは……」
 ふん、と鼻で笑う直也を穂積が決まり悪そうに見上げる。が、それもつかの間、すぐににこ、と瞳を細めた。
「ね、明日の放課後、時間ある?」
「あ? 明日は部活」
「その後」
「その後?」
「うん、金曜だからちょっと遅くなっても平気でしょ? 龍太の元気が出るようなプレゼントでもさ、なにか一緒に探そうよ」
 先ほどのしょんぼり顔よりもいくらか明るさの戻った友人の表情を見下ろして、直也の顔にもかすかに笑みがにじむ。
「……おう」



 
* * *



「はぁ……」
 4階、1年2組の教室では一真がため息をついていた。机の上に広げたノートを見下ろして、ふぅ、と今度は声なき吐息をもう一つ。
「一真がそんな顔して下向くと、目が落っこちそうだな」
 友人のどんぐりまなこをそうからかって苦笑するのは瀬戸。けれど、一真と同じ陸上競技部に所属する瀬戸にとっても、一真のため息の理由は他人事ではなかった。そもそも一真を陸上部へと誘ったのもこの瀬戸だ。一真の隣の机へと無遠慮に腰を下ろし、彼もまた小さなため息を一つこぼす。
「龍太先輩、大丈夫かな」
「火曜日に話したときには、梅田さんはなにも知らない様子だったのに……」
 つぶやいて、一真はノートからほかへその大きな瞳を向ける。視線の先では寄り集まった女子たちが楽しげに噂話の真っ最中。彼女たちの高い声が時折恋次の名を呼ぶ度に、一真はそっと顔をしかめた。
 同じ方へ濃茶の瞳を向けて、瀬戸がまた苦笑する。
「そりゃ、個人的な事情は知られたくないだろ。ましてや、あんなフクザツな恋愛事情が絡んでちゃあな」
 もっとも、実際にそのやりとりを見ていたわけではない。耳に入った噂もどこからどこまでが真実なのか定かではないけれど、と肩をすくめる瀬戸。
「……瀬戸、なんか楽しんでない? 沖本さんのこと心配じゃないの?」
「心配してるに決まってるだろ。でも……ぶっちゃけ、興味はある。幼なじみの三角カンケイなんてマンガみたいなこと、本当にあるんだな」
「…………」
 なんとも正直な友人へ思わず呆れた視線を向けて、一真は立ち上がった。
「沖本さんのとこ行ってくる。練習のこと確認したいし、体調も気になるし」
「あ、俺も行く」
 さすがに表情を改めた瀬戸と並んで、教室を後にした。廊下に出れば、ここでもあちらこちらの話し声の中に恋次の名が聞こえてくる。そちらを見やって、瀬戸が感嘆の吐息とともにつぶやいた。
「仮にまったく同じことが俺に起こったって、ここまで噂にはなんないだろうな、きっと」
 同感だ、と一真もうなずく。瀬戸だけじゃない。ほかのどの生徒に起こったって、ここまで騒がれることはないはずだ。騒がれる理由は、ひとえにその人が梅田恋次だから。
 東階段を下りると、2年1組の教室はもう目の前だ。脇のノートを抱え直し、前方の出入り口から中をうかがう。と、龍太の姿を捜すより先に、よく見知った相手を目に留めた。正面の窓際で、茶色くあせた髪が風に揺れている。
「入倉さんだ。沖本さんに会いに来たのかな」
 龍太とは一年次にクラスメイトだったのだ、と本人の口から以前に聞いている。その口振りからも、親しい仲であることが伝わってきたものだ。今はめずらしく一人の女子となにやら親しげに話している。
「あ、あの人……」
 彼女の長い黒髪と明るい横顔には一真も見覚えがあった。
「明日な」
「教室で待ってるから、終わったらメールして」
「わかった」
 彼女と話を終えたらしい直也が歩き出す。と、一真の姿を目に留めて、ほんの一瞬、決まり悪そうに視線を泳がせた。
「おう、遠藤」
「こんにちは」
「龍太なら、いねえ。俺もしばらく待ってたけど、まだ戻ってきそうにねえな」
「そう、ですか……」
「じゃあな」
 すれ違う直也の横顔には、龍太への心配と、それ以外のなにかが複雑に入り交じっているよう。少しずつ遠くなる直也の背中を見送った一真は、抱えたノートを一度見下ろし、また一つため息をこぼした。
「一真、龍太先輩いた?」
 瀬戸がようやく歩み寄ってくる。3階の廊下へと降りたとたん、どうやら顔見知りの2年生につかまっていたらしい。今も歩み寄ってくる途中で、横から声がかかる。
「あ、瀬戸くんだー。援団かっこよかったよー」
「どーもっス」
 ぺこりと頭を下げる瀬戸に、すれ違う女子生徒たちが笑顔で手を振っている。すらりと背高く、はっきりとした造作ながらも少年らしいやんちゃな雰囲気そのままの彼は、どうやら上級生の目を引くタチらしい。小走りでやってきた瀬戸が教室の中をのぞいて、今はそのやんちゃな表情を曇らせた。
「いないみたいだな」
「うん……学校には来てるみたいだけど。まだ教室に戻ってきそうにないって、入倉さんが言ってた」
「入倉さん? 入倉さんも来てたの?」
「沖本さんと仲いいから、やっぱり心配なんじゃないかな」
「そっか……あ、すいません」
 ふさいでいた道を2年生に譲って、廊下の端に寄る。1組の教室に入っていく彼らの背中をなんとはなしに目で追いながら、さて、と瀬戸がつぶやいた。
「どうする? 一真」
「うん、もう少し待ってみる」
「龍太先輩、早く元気になるといいな」
「うん……」



 
* * *



 1組の教室を後にした直也は廊下を歩きながら小さな舌打ちを鳴らした。他人から見れば不機嫌きわまりないしかめ面。ちょうどすれ違った女子生徒があわてて廊下の端に身を寄せた。
 回廊まで戻ってきたとき、窓ガラスに淡く映り込んだ己の姿に目を向け、直也は一度足を止めた。色あせた長めの前髪を再び無造作にかきやって、すぐまた歩き出す。
 6組の前を素通りして、7組へ。
「恋次もまだ、か……」
 ため息混じりに回廊の窓にもたれて、4階を仰ぎ見る。中庭へと張り出した生徒会室の大きな出窓はすぐそこに。けれど、引かれた薄いカーテンのおかげで室内の様子をうかがい知ることはできない。
「おまえが龍太を泣かせてどうすんだよ……」
 今は見えない相手に向かって、吐き捨てた。
 上から下へと目を転じれば、中庭からは楽しげな音が上ってくる。
「――っし! 絹田、絹田、見た? 今の! ノータッチでシュパッて!」
 古ぼけたリングの前で会心のシュートに喜ぶ岡田と、木陰のベンチに座ってわれ関せずと雑誌を広げている絹田の姿があった。
 手すりに片肘をついて友人たちの様子を眺めていた直也は、ふと頭上の空へとまなざしを向けた。校舎の壁に四角く切り取られた空からはギラギラと熱く眩しい光が降ってくるが、頬に吹きつける風には先月には感じなかった湿気のにおいが少しずつ。
「もうすぐ梅雨か」
 低いつぶやきが、ガシャン、と中庭から上る音にすぐさまかき消された。見れば、リングに嫌われたボールをくやしげに岡田が追いかけている。
「くそー、もう一回!」
 シュート練習に熱のこもる相棒に目を細め、直也が再び見上げたのは6月の空。明るい青の中に、はぐれ雲が一つ、漂っていた。



 
* * *



 ふわふわと心細げにはぐれ雲が空を泳いでいる。
 校舎5階の中屋上。
 フェンスに背を預けて、龍太が一人きりで座り込んでいる。降り注ぐ陽射しを受けて、ぼんやりと空を仰いでいる。
「あの雲、俺みたい……」
 つぶやいて、それまでコンクリートの上に投げ出していた両脚を腕の中に引き寄せた。膝の上には一枚のジャージ。白地の背に「九条」と校名がデザインされた陸部ジャージだ。「九」の文字に絡みつく銀糸の龍は今日も遠い天を仰いでいる。
 龍と一緒に抱えた己の両膝に、龍太はコツンと額をぶつけた。
「恋ちゃんの、バカ……」


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※タイトルは「ひとひら」の雲

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