目の前の幼なじみと向き合っている間、校舎の反対端にある自分の教室を珍客が訪れていることなど、知る由もなかった。



「あのっ……梅田恋次、いますか?」
 少女の声が、放課後のざわめきの中でリン、と軽やかに響く。
 突然現れたセーラー服姿のその少女を、2年7組の生徒たちは皆呆気に取られて見返した。
「……誰?」
「知らねー……あれって、鈴蘭(すずらん)の制服だろ」
「恋次って、言ってた? 恋次の妹?」
「や、恋次は一人っ子のはず……」
 一瞬こそしん、と静まり返ったものの、またすぐに先ほどとは違うざわめきが教室の中を行き交いだす。
 投げかけた問いに返ってくる答えがないことに不安になったのか、少女が胸の白いリボンに手をやった。首から提げた来校者用のパスも、不安げに揺れている。
「あ、あの……ここ、2年7組の教室ですよね」
「そうだよ」
 ようやく返ってきた答えに安堵の表情を見せて、少女は聞こえた声の方へと大きな瞳を向ける。そうして、あ、とその目を見開いた。
「梅田のこと捜してるの? 梅田なら、たぶんまだ向こうにいるんじゃないかなあ」
 絵の具がついた頬に人好きのする笑みを浮かべる寿人。たった今自分が入ってきた後方の出入り口へと親指を向けて、捜す相手はあっちだよ、と教えた。
 少女も一度寿人の指す方へと視線をやり、すぐにまた寿人の顔へとそのまなざしを戻す。
「あの……もしよかったら、案内してもらえませんか?」
「うん、いいよ。うちの学校、迷いやすいからね」
 快く寿人がうなずけば、少女もにこ、と微笑んだ。
「ありがとうございます」
 廊下を二人が並んで歩けば、たちまち視線が集まってくる。そんな周囲の視線もおかまいなしに歩く寿人の横顔をちら、と見て、少女がささやいた。
「綾井くん、でしょ?」
「俺のこと知ってるの?」
 唐突に名前を呼ばれても驚く様子のない寿人に、少女がくす、と再び微笑む。
「恋次からよく聞いてるから。同じクラスに綾井っておもしろいやつがいるって」
「ふうん……俺のどこらへんがおもしろいのかなあ」
「たとえば、ほっぺたとか?」
「ほっぺた?」
「絵の具ついてるよ」
 ここに、と少女が自分の右頬を指差すのを、寿人も笑顔で見下ろした。
「梅田の彼女?」
 すると、少女の瞳にちらりと悪戯な影が走る。少女は寿人を見返すと、肯定も否定もせずに問い返した。
「そんなふうに見えるかな?」



 
* * *



「……今日は」
 ぽつ、と龍太がつぶやいた。
「……今日は、恋ちゃんと一緒には帰らない……」
「…………わかった」
 龍太からの返事に正直少しの落胆は覚えたが、龍太が返事をしてくれただけいい状況だろう、と恋次はうなずいた。
 龍太とのケンカはこの十四年の間でそれこそ数え切れないほど経験してきた。ケンカの種も理由も瑣末(さまつ)過ぎていちいち覚えてはいない。が、今回のことはそんな小さなケンカではないと自覚はしているつもり。龍太を傷つけたのは自分だと、わかっているつもりだ。だから、そのことを龍太にもわかってもらえさえすれば、きっとすぐにいつもの屈託のない龍太に戻ってくれるだろうと思っている。

 ……龍ちゃんは、優しいから。

「いつでもうちにおいで。 『熊屋』 のようかん、龍ちゃんの分もとっておくからさ」
 そっといつものように龍太の頭に手を置くと、龍太がふっとうつむいた。その肩が小刻みに震えている。
「……恋ちゃんは……」
 聞こえてきたのは、今まで聞いたこともないような龍太の低い声。
 え、と思わず目を見張ると、龍太が勢いよく顔を上げて、キッ、と大きな瞳で睨みつけてきた。
「恋ちゃんはそうやって優しいのに、いつも大事なことだけわからない!」
「……龍ちゃ――」
「全然わかってないよっ!」
 龍太がぎゅっと目を閉じて、声の限りに叫んだ。
「そんなんだから、恋ちゃんはチエミちゃんにフラレるんだっ!」
 水を打ったようにしん、と静まり返った教室で、龍太の荒い呼吸の音だけがやけに大きく耳に響いた。
 周囲の友人たちが固唾を呑んでこの場の成り行きを見守っている様子は、振り返ってみなくても手に取るようにわかる。
「……チエミのことは関係ないだろ」
 今さら別れた彼女を引き合いに出すのはやめてくれ。
 そう淡々と返せば、皆がいっせいに息を呑む。
 恋次は心中でため息を吐きながら、幼なじみの頭をぽんぽん、と二度あやした。が、三度目は龍太の手に振り払われた。
「関係なくないよ! チエミちゃんだけじゃない。だからミヤコちゃんもアユミちゃんも――」
「龍ちゃん、いいかげんにしてくれ」
 あくまで感情は抑えたつもり。かっとなっている龍太に自分までが感情的になってしまえば、それこそ事態の収拾がつかなくなる。

 ……今は何を言ってもムダ、か。

「わかった、もういい。今日は一人で帰るよ」
 苦笑して踵を返す。
 教室はいまだ静まり返ったまま。360度突き刺さる視線の中を歩き出したが、三歩目で足が動かなくなった。
「あ、ほら。いたいた梅田……あれ? みんなどうしたの?」
 前方の出入り口に寿人が立っている。まだ右頬に絵の具をつけたままで、小首を傾げて教室を見回している。
 その隣に、
「実……」
「実月(みつき)!」
 呼ぼうとした名を後ろからかっさらわれた。

 ……なんで、実月がここに。

 今の状況が、飲み込めない。
 向かい合うセーラー服姿の少女は楽しむような、困ったような、複雑な表情。
「龍太の忘れ物を届けに来たんだけど……」
 琥珀色の髪がさら、と揺れる。
 一歩、この足が前へと踏み出しかけたそのとき、すぐ横を一人の影が追い越していった。視界の端を、はらりと綺麗な漆黒が駆け抜ける。
「なんで来たんだよ、バカ!」
「だから忘れ物を届けにきたって言ったでしょ。バカとはなによ、バカとは」
「じゃあ、もういいだろ。帰ろう、実月」
「え、でも、恋次は――」
 言いかける少女の体を龍太が唐突に抱きしめた。さほど身長の変わらない少女の肩でさらりと揺れる髪に一度顔を埋(うず)め、龍太が己の肩越しにこちらを振り返る。
「実月は俺のもんだよ、恋ちゃん。こいつに二度と触れないで」
 捨て台詞を吐いた後は、振り返りもせずに少女の腕をつかんで歩き出す。少女はやはり困ったように龍太の横顔を見返すと、こちらへ一度小さく手を振った。そのまま素直に腕を引かれていく彼女の背中で、綺麗な琥珀色の髪が揺れている。
「…………」
 ズキ、と左頬の傷が疼いた気がして、手を当てる。
 くら、と冗談でなく目眩(めまい)がした。

 ……もう、何がなんだか、わからない。





To be continued.

劇中時間 06/10(Tue)





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