* * *



 芸術選択の授業を終え、墨の香り漂う会議室を後にした。
 芸術の授業は2コマ続けて行われるため、もう教室の外は放課後の空気だ。
 廊下に出て、しばし考える。ここは校舎の東端。普段は校舎中央にある中央階段か、反対端にある西階段を上ってHR(ホームルーム)の307教室まで帰っているが、この東階段を上って3階まで行けば、龍太のHRである301教室は目の前だ。
 あれ以来、龍太とは顔を合わせていない。一真以外に龍太の様子を聞かされたこともない。その一真の話も、おとといの体育祭当日のことだった。

 ……龍ちゃん、ちゃんと学校に来てるかな。

 龍太は学校という場所が大好きだが、いかんせん自分の気持ちに正直すぎる。心が違う方向を向いてしまえば、ふらりと学校に来なくなるクセがいまだ抜けていない。それも個性と言ってしまえばそれまでだが、世の中それで全て通るほど甘くはない。赤点だらけだった先月の中間考査の結果を思い出し、恋次はその場で顔をしかめた。

 ……やっぱり様子を見ていこう。

 うなずいて東階段の方へと一歩踏み出したとき、ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
「恋次、これサンキューな」
 にこ、と笑顔で立っているのは、クラスメイトの鈴木二郎(すずき じろう)。出版部に所属し、しょっちゅうアンケート調査のため校内をうろついては九条生をつかまえているため、「出版部のジロ」といえば、九条生の間で知られている。
 また、出版部は運動部・文化部といったほかの一般的な校内団体と違い、生徒会直属の機関でもあるため、自分にとってはただのクラスメイトよりも深い関係といえるかもしれない。
 そのジロが気さくな笑みを浮かべて、こちらへと手本帳を差し出している。
「助かったよ」
「ああ」
 うっかり部室に持っていってそのまま忘れてきたらしいと言う彼に、この時間貸していたのだった。受け取り、ほかの授業用具とともに抱えていると、ジロがふと嘆息をもらす。
「跡取り息子は手本要らず、か」
「なんだそれ。うまいんだかうまくないんだか迷う言い回しだな」
 思わず小さく吹き出せば、ジロは逆立てた短い髪の先を指でいじりいじり、並んで歩き出した。
「実際たいした字を書くけどさ、いつから書道やってんの?」
「これも取材か?」
「いーや、俺のただの興味」
 まあ出版部員の性(さが)ってやつかもしれないけど、と笑う相手に、恋次もまた微笑んだ。
「さあ、いつだろうな。物心ついたときにはもう筆を握ってたから」
「いやだと思ったことはないわけ?」
 率直に訊ねられて、考える。そういえば、改めてそう訊かれたことも、考えたこともなかったかもしれない。
「……ない、と思う」
「マジで?」
 ジロが目を丸くした。
「恋次だってやんちゃな遊び盛りの時期はあっただろ? そんなときに正座して筆握らされて……俺ならまちがいなく逃げ出すぜ」
「俺だって、心底いやなことだったら逃げ出すさ、きっと」
 逃げ出さなかったということは、好きなんだろう。というよりも、好きになるように育てられた、といったほうが正しいかもしれない。環境がそうさせるのだ。だから、自分には特別なことをやらされている感覚はない。やって当然のことをやっているだけだ。
 淡々とそう話せば、隣でジロがまた嘆息をもらした。
「やって当然のこと、か……でも、べつに学校でまで跡取り息子でいる必要はねーんじゃね?」
「……え?」
「選択授業くらい、ハメはずしたっていーんじゃね? ピカソみたいな自画像描いたり、蛇使いみたいにピーヒャラ笛吹いてる恋次ってのも、見てみたかったな、俺」
「…………」
「つか、そもそも本業は違うんだよな。でも、そんなに書が好きで、いい字を書くんなら、いっそ書道の家元にでも生まれてくりゃよかったのに、なんて……」
 親父さんに聞かれたら怒られるかな、と悪びれずに笑って、ジロが身軽に階段を駆け上る。その背中を、気づけば見送っていた。
「梅田くん、どうしたの?」
 追い越していく友人たちに声をかけられ、はっとわれに返る。
「ああ、うん、なんでもない……」
 再び階段を踏みしめながらも、今のジロの声がなぜだか耳から離れなかった。

『べつに学校でまで跡取り息子でいる必要はねーんじゃね?』

 人からそんなことを言われたのは、初めてだ。
 いや、自分ですらそんなことを考えたことはなかった。
 やって当然のことをやっているだけだ、と。先ほどの己の言葉を思い返す。
 もし、この芸術の授業の選択肢に「書道」がなかったなら、自分はいったい何を選んでいたのだろう。ふと、そんな疑問が胸に浮かんだ。

 ……そんなこと、考えてもムダ、か。

 愚問だろう。現に「書道」があって、それを自分で選んだのだから。それだけの話。そのことに何も不満はないはずだ。

 ……そんなことより、今は龍ちゃんのこと。

 顔を上げると、そこはちょうど3階。目の前に、2年1組のHRである301教室。ざわざわと活気に満ちたあの中に、龍太はいるだろうか。
「あ、梅田」
 右から明るい声が聞こえた。振り返れば、寿人だ。頬に絵の具をつけて無邪気に笑う友人を見て、一瞬、かけるべき言葉を見失う。
「え?」
 思わずもらした声に、寿人が小首を傾げた。
「え? って、なにが?」
「綾井、今、美術室から出てきたよな」
 美術室はここ3階、表の通り側に横並びのHRとは廊下を挟んで位置している。そちらを指差せば、寿人があっけらかんとうなずいた。
「出てきたよ。美術とってるもん」
「美術?」
「美術だよ」
「音楽とってるんじゃなかったのか?」
「美術だよ。なんでそんなに驚いてんの」
 寿人が小首を傾げたまま苦笑している。
「俺、てっきり綾井は音楽をとってるものと思ってた……」
 そう素直に答えれば、ふと寿人の瞳に悪戯な色が混ざったよう。
「あれ? 俺、音楽が好きだなんて、梅田に言ったことあったっけ?」



 
* * *



「起立、礼」
「ありがとうございましたー」
 授業終了の挨拶を終えて、教師の背中が廊下へと消えたとたん、斜め後ろの席で瀬戸(せと)が大げさなまでに机に突っ伏した。
「俺、もう、無理……」
 校舎4階、1年2組の教室では必修である倫理の授業が終わったところだ。
 一真は授業用具を抱え、通り過ぎまにぽん、と友人の肩を叩いた。
「お疲れ」
「なんなの、この授業……俺の頭の許容範囲をとっくに超えてる……」
「和樹(かずき)の頭は、それこそ超がつくほど単純だもんな」
 隣の席の越智(おち)がイジワルを言っても、疲れ果てた瀬戸には言い返す元気もないらしい。
「俺、この授業で覚えたことっていったら、倫の字はのり≠チて読めることだけだよ……」
「それって、この授業じゃなくてもわかるじゃん」
 いつものように瀬戸を一刀両断する越智の声を背中で聞きながら、一真は思わず小さく吹き出した。
 4月から授業を受けていて覚えたことがその一つだけでは、さぞかし教える側も張り合いがないことだろう。「今日はここまで……」とため息混じりに授業を終わらせた先生に同情しつつも、一真もまた早々と教科書とノートをロッカーの奥へとしまいこんだ。扉にダイヤル式の鍵をきっちりとかけて振り返ったところで、あ、と小さく声をもらす。
「あ……」
 東階段を上ってきた相手もつられたように声をもらし、ついで微笑んだ。
「こんにちは。久しぶりだね、遠藤くん」
「こんにちは」
 相手がこちらへ歩み寄ろうとするのを見て取って、一真のほうから足を運ぶ。彼女とはおよそ二ヶ月前に部活見学で世話になった間柄だ。近づくごとに、綺麗な黒髪を肩の上で揺らせて彼女は苦笑した。
「久しぶりって言うのが残念だな。君とはもっと当たり前に顔を合わせられると思って楽しみにしてたのに」
「え、と……すいません。期待を裏切るようなことして」
「あ、ううん、そんなに恐縮しないで。ごめんね、未練がましいこと言って」
「これから練習ですか?」
「うん」
 髪を耳にかきやり、彼女が胸に抱え直したのは黒くて細長いケース。
「先輩、やっぱりフルートだったんですね」
「やっぱりって?」
「あの日、音楽室を見学させてもらったとき、先輩を見てフルートが似合いそうな人だな≠チて、最初に思ったから」
 にこ、と一真が微笑むと、見上げた彼女はほんのりと頬を赤らめ、また髪を耳にかきやる。
「あ、ありがとう、うれしい……あの、遠藤くん」
「はい?」
「あの日、遠藤くん言ってたでしょ? 中学のとき憧れた人を追って自分もトランペットを始めたって。もしかして、その人ってうちの高校にいるの?」
「え……?」
「楽しそうにトランペット眺めてたのに、うちの編成聞いたとたん顔色変えて、それ以来一度も音楽室に来なくなっちゃったから……もしかして、その人がブラスにいないことを知って自分も入部をあきらめたのかなって。もしそうなら、その憧れの人って誰なんだろうって、気になっちゃって……」
「あ……」
 一真も思わず前髪へと手をやった。短い間そうして考えていたが、やがてまっすぐに相手に向かってうなずく。
「はい」
「誰って、訊いてもいい?」
 再び、うなずく。これは隠しておくことでもないだろう。本人だって、中学時代に何をしていたのか人から問われれば、きっとあっけらかんと答えるはずだ。
「綾井くん、です」
「……綾井くんって、7組の?」
 三度(みたび)うなずけば、相手は見るからに驚いた様子。目を見張って胸のフルートケースを抱え直す彼女を見下ろし、一真は小首を傾げてみせた。
「びっくり、しました?」
「びっくり、した……あたし1年のとき同じクラスだったんだけど、綾井くん、そんなふうに全然見えないから……」
 過去を知らない人から見ればそういうものらしい。一真にとっては銀色のトランペットを持っている寿人の姿は当たり前だったけれど。複雑な胸中で一真は苦笑を噛む。
 と、背後から駆け寄ってくる元気な足音が聞こえてきた。そして、耳に覚えのあるすっとんきょうな大きな声。
「お姉ちゃん、何してるの?」
「あ、トモちゃん」
 一真は振り返り、目を丸くした。
「マルちゃん……え?」
 長い黒髪を揺らして駆け寄ってきた相手は、「マルちゃん」と呼んで慕うクラスメイトの丸山友子(まるやま ともこ)。その彼女から、目の前でフルートケースを抱えて佇む小柄な2年生へとまなざしを滑らせる。
「あ、ごめん。あたし、まだ自己紹介もしてなかったね。2年2組の丸山祐子(ゆうこ)」
 よろしく、と穏やかに彼女が笑えば、またすっとんきょうな声が廊下に響く。
「よろしくじゃないよ、祐ちゃん! なんで遠藤くんと知り合いなのっ? びっくりだよっ!」
「え……マルちゃんの、お姉ちゃん?」
 向かい合う二人を見比べ、びっくりしたのは自分のほうだ、と一真は思わずぽかんと口を開けた。



 
* * *



 先に戻ってるよ、と頬に絵の具をつけたまま歩き出す寿人の背中を、気づけばまたぼんやりと見送っていた。
「恋次、どうした?」
 この背中を追い越していく友人たちにまた覚えのある言葉をかけられて、はっとわれに返る。
「……どうも今日は調子が狂うな」
 目にかかる前髪をかきやり、苦笑した。気を取り直すように一度小さく息を吐き、2年1組の後方の出入り口から中をうかがう。
「龍ちゃん、いるかな」
 手近なところにいた男子生徒に声をかければ、相手はうなずきながらもおかしそうに目を細める。
「恋次のほうから来ることもあるんだ。恋ちゃん、いる?≠ヘ龍太の専売特許だと思ってた」
 それも、もっともな話だ。学校に来れば、特に用がなくても日に一度は7組にやってきて自分の顔を見ていく龍太。しかし、自分のほうからこうして校舎の反対端の龍太の教室を訪れることは、考えてみれば2年に進級して以来、あまりない。
「龍太なら自分の席にいるよ」
 教えられて目を向ければ、果たして窓際の前から三番目の席に幼なじみの横顔を見つけた。

 ……よかった。ちゃんと登校してたんだ。

 あえて声をかけずに歩み寄る。あと数歩というところで、それまでぼんやりと窓の外を眺めていた龍太が振り返った。とたん、顔をこわばらせた幼なじみの様子に内心とまどいつつも、恋次はいつものように微笑んでみせる。
「龍ちゃん、今日は陸部休みだろ? 久しぶりに一緒に帰らないか」
「…………」
 龍太はしばらくじっとこちらの顔を見上げていたが、やがてふいっと再び窓の外へと顔を向けた。
「……龍ちゃん?」
「…………」
 呼びかけても、まるでこの声が聞こえていないかのように龍太の横顔は自分がいない景色を眺めている。
「昨日、武田さんから『熊屋』のようかんいただいたんだ。龍ちゃん好きだったろ。帰ったら一緒に食べよう」
「…………」
「慶太も一緒に……三人で……」
「…………」
 何を言っても、返ってくるのは沈黙ばかり。大好物のお菓子や、かわいがっている弟の名前を出せばあるいは、と思ったが。徒労だったらしい。

 ……どうしたもんかな。

 小さくため息をこぼすと、いつのまにか教室の中が静かになっていた。さすがに、十四年来の幼なじみ同士≠フ様子がいつもと違うことに皆気づいたらしい。遠巻きにこちらを眺めている1組の生徒たちの中で、とりわけ龍太と仲のいい穂積が心配そうだ。彼女へ心配は要らないというように一度微笑んでみせ、もう一度幼なじみへと向き直る。
「何かおもしろいものでも外にあるのか?」
 同じ窓の外へと視線を向ければ、くるっと今度は龍太が教室の中へとまなざしを戻す。そうして、ちら、と大きな瞳を一度こちらへと向けたかと思うと、またすぐに目を伏せた。
「……今日は……」
 ぽつ、と龍太がつぶやいた。
 これだけかたくなに口を閉ざしていた龍太だ。今聞き逃したら、おそらく二度目はないだろう。待ち望んでいた龍太の声に耳を澄ます。
 そうして目の前の幼なじみと向き合っている間、校舎の反対端にある自分の教室を珍客が訪れていることなど、当然ながら知る由(よし)もなかった。



 
* * *



「うぉ……今の子、かわいい……」
「あれって鈴蘭(すずらん)の制服だよな?」
 校舎の西側では、回廊を歩く男子生徒たちが次々と足を止めて振り返っていた。
 彼らの視線を一身に集めているのは、セーラー服をまとった一人の少女。肩を少し過ぎて揺れる艶やかな髪は上品な琥珀(こはく)色。きょろきょろと辺りを見回す大きな瞳が愛らしい。
 振り返って彼女を眺めていた男子生徒の一人が、首を傾げた。
「かわいいけど……誰かに似てねー?」
 あの顔を確かにどこかで見た気がする、と彼がつぶやけば、隣に立つ友人が頭を小突く。
「どうせ街でおまえが声かけた中の一人だろ」
「ちげーって。もっと身近な感じ……」
 小突かれた頭をさすりながら、彼が眉根を寄せて考え込む。
 そんな話し声を知ってか知らずか、少女は「307教室」と書かれたプレートを見つけると、ほっとしたように教室前方の出入り口へと歩み寄った。ひょこっと小首を傾げて中をのぞく彼女の仕草を見て、あ、と彼は目を見張る。
 そして彼が叫ぶのと少女が口を開いたのは、同時だった。
「わかった、龍太に似てるんだ!」
「あのっ……梅田恋次、いますか?」


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