こちらの声にさらに笑みを深くしてうなずくのは、同じ2年6組のクラスメイトである綾井 寿人(あやい ひさと)。人目を引く色素の薄いその日本人離れした容貌がアイルランド人である祖父から受け継ぐ血によることも、今では周知の事実だ。
 寿人が今出てきたばかりの数学科研究室を見やり、ため息混じりに自分の肩へと手をやった。
「あーあ、日高(ひだか)センセイの話って長いんだもんなあ。肩凝っちゃった」
「それで話はついたのか?」
「一週間待つって」
 待ったところでしょうがないのに、ともう一度ため息をこぼす途中で、寿人が表情を変えた。
「あれ……なんだ、遠藤もいたんだ。だったら、声かけてくれればいいのに。先生に叱られてる話なんて、あまり後輩には聞かれたくないんだけどなあ」
 にこ、と茶目っ気たっぷりの寿人の笑顔に一真が一瞬目を輝かせ、けれどすぐに、ほんの少し不満の色をその目ににじませる。
「綾井せんぱ……あ、綾井くんが一人で勝手にしゃべってただけでしょう?」

 ……綾井くん?

 つい呼ばれた相手を振り返れば、寿人は変わらぬ表情で小首を傾げた。
「そっか、じゃあ、ほかの人には言っちゃダメ。このことは口にチャックだぞ」
 白い歯が綺麗に並んだ口元に指を添え、まるで幼い子どもをあやす口調。
 一真の隣で「マルちゃん」と呼ばれていた少女が思わず、といったように笑みをこぼし、つられて恋次も笑いを噛んだ。
 当の一真ははにかむように前髪に手をやると、やはり笑顔でうなずいた。
「わかった、言いません。言わないけど……なんで日高先生に?」
「日高センセイは俺の担任だもん」
「そうなんですか? へえ、知らなかった……でも、なんで担任の先生に?」
「まあ、進路のことで、ちょっとな」
「進路?」
 この話はもうおしまい、と寿人が微笑み、振り返りこちらを仰ぐ。
「梅田は会室の仕事終わったの?」
「ん、ああ……それより次、芸術だろ。早く準備しないとそろそろ予鈴が鳴るぞ」
「そういえば、さっき涼星の1時の鐘が鳴ってたっけ」
 数研にいても聞こえた、と寿人が思い出したようにつぶやけば、名残惜しげに一真が頭を下げた。
「それじゃ、俺も失礼します」
「あ、そうだよ、遠藤くん! まだ棚の整理の途中だった! ほら、早く早くっ、休み時間が終わっちゃう!」
「イッテテ……」
「梅田先輩、綾井先輩、失礼しますっ!」
 はきはきした声音の少女に背を押されて、一真は再び多目的ホールのうちへと戻っていく。ガラス戸越しに眺めれば、二人で仲良く奥の棚の整理に取りかかる。埃にむせたらしい一真の背を少女があわてて叩く様子に思わず笑いながら、恋次も歩き出した。
 少し遅れて、寿人の楽しげな声が背中から聞こえてくる。
「あの子、遠藤の彼女なのかな。おもしろいなあ」
「俺には綾井と遠藤のほうがおもしろかったけど」
 綾井くん、と茶化しながら肩越しに見やれば、寿人は苦笑顔でだいぶ伸びた前髪をかきやった。
「そう呼ばれるようになったのは、ほんとについ最近だよ。理由は知らないけど、遠藤なりに思うことがあったんじゃないの」
「理由は知らない?」
「知らないよ。今度から綾井くんって呼んでいいですかって、わざわざ訊かれたわけでもないしね。もう俺のこと先輩だと思えなくなったのかなあ」
 そう冗談めかして、寿人が笑う。

 ……先輩、か。

 なるほどな、と納得した。
 先ほど一真がどこか不満げに見えたのは、確かに寿人の言葉に不満を覚えたからだろう。後輩、と自分を示したその言葉に。
 一真も寿人も、地元はここ九条だ。出身も同じ九条中。そもそも一真は中学時代にブラスバンド部で誰より慕ってやまなかった寿人を追って、ここ九条高校へとやってきた。「まるで初恋の人に恋い焦がれるような」と周囲に揶揄(やゆ)されながらも、いつもまっすぐに寿人だけを見つめていた。綾井先輩、と呼びかけていた。
 その一真が、寿人のことを「先輩」と呼ばなくなった。
 先ほどの一真の声音と、その奥にあるだろう彼の心情を考えてみて、恋次はわずかに眉根を寄せた。そのままの表情で、いつのまにか隣に並んでいた友人の横顔を見下ろす。
「いいのか」
 ちら、と寿人が茶目っ気にじませた薄茶の瞳をこちらへと向けた。
「それって、意味深な質問だなあ」
「おまえがそう感じるなら、そうなんだろ」
「そうかもね」
 くす、と笑って寿人が肩をすくめる。それから、さらりと答えを口に載せた。
「いいんだよ」
「だけど……」
 3階へと降りてくると、廊下のにぎわいはさらに増す。楽しげに笑いあう幾人かの生徒たちとすれ違った後で、恋次は低い声音で訊ねやった。
「綾井はあいつのことを、遠ざけたいんじゃなかったのか」
 隣の寿人はただ穏やかに微笑んでいる。そうして、いいんだよ、ともう一度うなずいた。
「きっと、なるように、なる」
「……綾井らしくない台詞だな、それはまた」
「そうかなあ? でも、らしくないって言うなら、その言葉、俺もそのまま梅田に返すよ」
「え?」
「だって、めずらしく俺たちの話に入れ込んでる。今までは俺たちのことに限らず、他人の話なんて余裕の顔で聞き流してたのに……」
 何かあったのか、と言葉にはしないまでも、悪戯な表情で見上げられる。光の加減で緑みがかって見えるその瞳が、確かにこの左頬の傷をとらえているのだと気づいて、恋次も思わず肩をすくめた。
「さあ、そうだったかな……」



 
* * *



 3階端の廊下で恋次の頬に何度目かの苦笑が浮かんでいるその頃。
 同じく3階の反対端、2年1組の教室では、龍太が物思いに沈んでいた。
 机に片手で頬杖をついては、ぼんやりと窓の外の通りを眺めている。風に吹かれたさらさらの髪が目にかかっても、また風が吹き流してくれるからとでもいうように、そのままにしている。トレードマークであるはずの青いふちの眼鏡もポロシャツの胸ポケットにしまわれていた。
「ねえ、龍太。どうしたの?」
 朝からいつもと明らかに違って見える友人の様子に首を傾げているのは、クラスメイトの女子、穂積(ほづみ)。風で乱れた自分の髪をまとめなおしながら、ちら、とどこかへ目を向ける。
「元気ないのがめずらしいわけじゃないけど……」
 怒ったり、拗ねたり、大げさに悲しんでみせたり、と感情の変化に素直な龍太の表情には見慣れている。けれど、こんなふうにただぼんやりと感情の見えない様子を目にするのは、初めて。
「本当にどうしちゃったんだと思う? 入倉(いりくら)」
 呼びかけられて、龍太のすぐ前の席に横向きに腰かけていた男子生徒がそちらへと顔を向ける。
 茶色くあせた髪の下からのぞく目が鋭い。猫を思わせるその顔つきを露骨にしかめて舌打ちする、入倉 直也(いりくら なおや)。龍太と穂積とは元・クラスメイトの間柄だ。午前のうちに龍太から借りていた教科書がそのままになっていることを思い出した。急いで届けに来たはいいが、その相手の様子が気になって教室に戻れないでいたところだ。
 ついさっきまで中庭で遊んでいた名残のバスケットボールをもてあそびつつ、龍太の横顔を再び見やる。
「龍太? どっか具合でも悪いのかよ」
「…………」
「……とりあえず、これ。化学の教科書、返したからな」
「…………」
 声が聞こえているのかいないのか、龍太はただ窓の外を眺めている。まったく反応を返してこない相手にもう一度舌打ちして、直也は立ち上がった。
 黙って様子を見ていた穂積が、え、と驚いた顔になる。
「ちょっと入倉、もうおしまい?」
「5限に遅れたくねえ」
「あんたね……」
「それに、今は話したくねえんだろ、龍太。だったら、俺も訊かねえよ」
 その言葉に、初めて龍太が振り返った。今にも涙の雨を降らせそうな憂いの雲が張りついた瞳で、じっと直也を見上げる。そうして、こく、と小さくうなずいた。
「じゃあな」
 ぽん、と優しく龍太の頭に一度手を置いて、直也は1組の教室を後にした。
 廊下に踏み出したスニーカーの紐が緩んでいるのに気づいて、廊下の端に備え付けのベンチへと片足を置く。紐を結びなおし、顔を上げた瞬間、窓の外の眺めにふと、目を留める。
 欧州風の装飾を施された校門の門扉越しに、なにやらこちらの敷地内をうかがう数人の少年たちがいる。おそらく歳は変わらない高校生だろうが、私服姿のためどこの生徒かは一見してわからない。そのうちの一人がこちらに気づいた。すぐに仲間の肘をつついて知らせる素振りの後は、皆何かに追い立てられるように足早に去っていった。
「なんだ、あいつら……」
 低いつぶやきに、5時限目の予鈴が重なり響く。
 その音に促され歩き出した直也だったが、すぐに踵を返し再び窓の外へと目をやった。けれど、そこにはもう、いつもと変わらない明るい昼の街があるだけだ。
 直也はしかめ面で無造作に髪をかきやると、今度こそ歩き出した。



 
* * *



 予鈴が鳴り終えるのを聞いてからようやく教室移動の準備を始める彼らは、まだ体育祭の余韻から脱け出せていないのかもしれない。応援合戦で使用したフラッグやボード、果ては衣装まで。教室の隅にいまだ残る祭りの跡を眺め、窓際の席でカバンから次の授業で使用する筆を取り出していると、聞こえてくるクラスメイトたちの話は、やはり体育祭のことらしい。
「しっかし、ああまでホワイトに全部持ってかれるとは思わなかったよな」
「終わってみれば、ホワイトの完全優勝だもんな」
「チアはうちが一番色っぽかったのによ」
「でも、レモンもかわいかったぜ。振り付けもちゃんとハチをイメージしてるのがわかりやすかったし」
「俺はやっぱホワイトかな。清楚な感じが逆に垢抜けてたっつーか……へへ、解団式の後でホワイトのチアの子と一緒に写真撮らせてもらっちゃった」
「援団はやっぱおいしいよなー。あの舞龍(ぶりゅう)Tシャツ、まじカッコいいもん。俺も欲しい」
「だーめ、熾烈(しれつ)なオーディションを勝ち抜いた俺たちの特権なんだから」
「ちぇ……そういや、援団はうちが1位だったんだよな?」
「ヴィジュアル部門はな。大沢団長が得点荒稼ぎしてくれたから。まあ、それでホワイトのやつらに一矢報いたって、ところかな」
「あ、そうそう。うちの女子たちが騒いでたんだけど、なんかすげーカッコいい人が来てたらしいよ。懐かしそうに眺めてたから、OBじゃないかって。OBだったら九条祭でも会えるかもしれないって、えらくはしゃいでたけど……あ、恋次。恋次は聞いてない?」
 突然水を向けられ、恋次も顔を上げる。
「え、OB?」
「そう、恋次くんとタイプは違うけど、負けず劣らずかっこよかった≠チて、評判の人」
 に、と悪戯な笑顔つきの言葉に、苦笑で返した。
「俺は聞いてないけど」
「じゃあ、在学中はそんなメジャーな人でもなかったのかな。卒業してからハジけてかっこよくなったとか……」
「でもさー、それって、もったいなくね? どうせハジけんなら、高校時代にハジけたいぜ、俺は。だって、この制服着てられんの、たったの三年間だもん。九条生ライフを満喫するぜー、俺は!」
 得意げな彼に周囲は、いつものことだ、と目を細めやる。
「海斗(かいと)さ、ほんっと学校が好きだよな」
「そりゃあな、中1のときに兄貴の体育祭見に来てから、高校は俺も絶対九条!≠チて、決めてたもん」
「知ってる? うちの学校って、毎年生徒の1割は海斗みたいな弟・妹族なんだって」
「ああ、それは俺も聞いてる。ちゃんと生徒会の統計で出てるよ」
 恋次がうなずいてみせれば、弟族の彼――海斗が興味深そうに目を輝かせた。
 九条がめずらしい都立高だといわれる理由の一つは、自分たちが毎日身にまとっているこのチャコールグレーの制服。そしてまた一つは、兄弟姉妹で通う率が高いことだ。卒業生に現役生の兄・姉が多いことはもちろんだが、同じ現役生同士で兄弟姉妹が通うことも少なくない。
 そのゆえんについて、幾代か前の生徒会でもいろいろとおもしろく話し合いがなされたそうだが、主観的な意見ばかりが上って、はっきりとした答えは見つけられなかったそうだ。
 そんなことをかいつまんで話すと、海斗は目をぱちくりさせた。
「ゆえんも何も、ただの引力だろ」
「引力?」
「だって、一番身近な人間がキラキラして見えるんだぜ。俺も兄貴みたいになりたい。理由なんて、ただそれだけだよ」
 はっきりと言い切った海斗の頭を、隣にいた一人がくしゃくしゃと撫で回す。
「おまえ、かっわいいなー。でも、それこそ今のは主観的な意見で、答えになってないぜ」
 たちまち広がる笑いの輪の中で、弟族・海斗は不満顔。
 恋次は一人、物思う。
 身近なところにもいたな、と須賀の先ほどの横顔を思い返した。
 須賀と兄の間にもそういった引力が働いて、彼女を九条会の会長へと導いたのだろうか。須賀の兄という人物を知らないだけに、なんとも言えないが。
 いや、そもそも兄≠ニいう存在を自分は知らない。きょうだいのない自分には、始めから測り知れないことなのかもしれない。
 ふと、窓からさわやかな風が吹きつけてきた。流され、さらりと視界をよぎった己の髪の色に思い出される面影が、二つ。自分にとって須賀よりも、いや、この世界の誰よりも身近なところに在る彼ら。
「兄と妹、か……」
 とうに痛みなど忘れたはずの左頬の傷が疼(うず)いた気がして、そっと手を当てた。
「あ、そうだ、恋次。お疲れな」
「え?」
「ほら、解団式の後は、恋次すぐ生徒会のほうに行っちゃっただろ。そういえば、まだ恋次に言ってなかったと思って」
 海斗が言えば、皆こぞってうなずく。
「おう、そうだよな。いろいろとお疲れ、恋次」
 長い間の準備に、当日に、本当にお疲れさま。
 おかげで今年もめいっぱい体育祭を楽しめたよ。
「ありがと、恋次」
 口々にそう言った彼らが、教室移動のために立ち上がる。
 その背中をいつものように微笑んで見送りながら、恋次は口元に手をやった。
 クラスメイトに労(ねぎら)われて、感謝されて、うれしいはずなのに。
「……なんで、こんな複雑な心境なんだろうな、俺」
 小さなつぶやきを手のひらで握り潰し、立ち上がる。
 本鈴が鳴るまで、もういくらもない。次の授業は1階東の会議室で行われる。校舎の西にあるここからは反対端だ。急がなければ、と踏み出した廊下に輝く蜜蝋色を見つけた。
「綾井? 5限に遅れるぞ」
 中庭を臨む窓にもたれてどこかを見上げていた寿人が振り返り、うなずく。
「さあて、そろそろ行くかなあ」
 そんなのん気な声とともに、やはりのんびりと寿人は歩き出す。その足音も、ロッカーから授業用具を取り出しているうちにこの耳から遠ざかり、やがて消えた。
「俺も行くか」
 閉じたロッカーに鍵を閉め、歩き出した恋次は、それまで寿人が立っていた場所でふと足を止めた。
 寿人が見上げていた方向へとまなざしを向ければ、そこにあるのは生徒会室。出窓でふわり、カーテンが揺れている。
「わかりやすいんだか、わかりにくいんだか……」
 本当に不思議なやつだ、とつぶやいた声は誰の耳に届くこともなく、開いた窓からこぼれて落ちる。
 落ちた先の中庭にも、拾い上げようとする人影は一つもなかった。


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