LESSON 2 : の爪痕





 振り替え休日の明けた火曜。
 校舎4階、昼休みの生徒会室には九条会の四人のほか、体育祭執行部の役員の面々が顔を揃えていた。
「最後に、各団の闇会≠ノは、一応例年のように注意だけまわしておくってことで……異議は?」
「ありません」
「なーし」
「右に同じく」
「それじゃあ、今日はこれにてひとまずお疲れさまでした、と。あ、報告書は期限厳守な」
 今年度の体育祭の総括に向けての短い会合を終え、執行部長の氷室(ひむろ)がテーブルの上の書類をまとめながら、にこ、と微笑む。それへ倣うように同じテーブルについていた皆の口からも、ほっと息がもれた。
「とりあえず、お疲れお疲れーっと」
「なあ、俺らのお疲れさま会≠ヘどこでやんの?」
「よく闇会の話のすぐ後にそんなこと訊けるな、おまえ」
「べつにかまわないだろ、闇だって結局は認められてんだし。俺たちが自分たちの苦労を慰めあったって、誰にも文句は言われないはずだけど」
「まあなー、ぶっちゃけ、それがあるから報告書だってがんばって作れるってもんだよな」
「楽しみにするのはかまわないけど、口に出す時と場を考えろって言ってんの、俺は」
「だって、それこそこういう場所じゃなきゃできない話じゃんか」
 それについてはメールで知らせるよ、と氷室が早々に話を切り上げ、席を立つ。
 生徒会としてこの場を見守っていた恋次も静かに腰を上げた。
「氷室さん、お疲れさまでした」
「おう、九条会の皆さんもご協力ありがとう。ご近所へのお礼回りも、執行部だけじゃ手が足りなくてほんと助かったよ」
「生徒会としては当然の仕事ですから」
「あ、なんなら恋次たちも参加する?」
 体育祭を終えて執行部が役員水入らずで行う慰労会への誘い。
 くい、とグラスを傾けるような氷室の仕草に、恋次は苦笑した。
「俺は遠慮しておきます」
「賢明だね」
 に、と意味深な笑みをその理知的な顔に残して氷室がドアノブに手をかけた。その背へ、九条会副会長である栗原の陽気な笑い声が響く。
「オレンジジュースで、なにかっこつけてんだか」
 氷室も今度はさわやかに笑うと、そのままドアの向こうへと踏み出した。続いて部屋を後にする執行部の面々を全て見送り、ようやく肩の荷が下りたとばかりに会長の須賀が長く息をつく。
「終わった……とりあえず、だけど」
「お疲れさまでした」
 恋次は定位置へ座りなおした須賀の前へ、湯気立つティーカップを置いた。ほどよく酸味の混じった豊かな香りに、ありがとう、とふわふわの髪を揺らして須賀が目を細める。そうして熱い紅茶をひと口含む同じテーブルの横では、会計の月島が憂い顔だった。
「このウチの企画、どうしても収支計算が合わないんだけど……栗原の報告書、本当に正しいんだろうな」
「いくら合わないの?」
 横からのぞき込んだ須賀に、十円、と月島が短く言い捨てる。
「なんだよ、たったの十円くらい。俺が出しとくって」
 栗原が笑えば、そういう問題じゃない、とすぐさま噛みついた。
「十円だからいいってことじゃないだろ。もしこれが万単位でずれてたらどうするつもりだった? 自分で帳尻合わせられるのか?」
 鋭く睨まれ、突き返された報告書を栗原が渋々の表情で受け取る。
「ちゃんと見直したはずだけどなあ……」
 ぶつぶつとつぶやきながら貼りつけてある領収書をぺらぺらと見返していく途中で、あ、と誤りに気づいたらしい。
「ここの値段写し間違えてた。よし、これでバッチリ! 大丈夫! ほら、月島」
 どこまでも調子のいい栗原の声と、月島の呆れたような吐息とを背中で聞きながら、恋次は出窓に引かれていた薄いカーテンを勢いよく開けた。とたんに、初夏の明るい日射しが部屋のうちへと降り注ぐ。
 通り抜けていく風に漆黒の髪を遊ばせていると、その風にあおられるように中庭から弾む音と声が上ってきた。よく見知っている二人の2年生が古ぼけたバスケットゴールの前で、熱い1on1を繰り広げている。
「バスケ部、2回戦も突破したんだってね」
 左隣に並んだ須賀が笑顔で中庭を眺め下ろした。
「女子は負けちゃって残念だけど、そのぶん男子にはがんばってほしいな」
「そうですね」
 うなずくところに、中庭の二人がこちらに気づく。軽く片手を上げた相手へ同じように挨拶を返し、恋次は隣でふわりと揺れる栗色の髪を見下ろした。
 頬を撫でる涼風に、須賀は心地よさそうな穏やかな表情だ。つい、くす、と笑いをこぼすと、不思議そうに見上げてくる。
「梅田? どうしたの?」
「いや……今日はごきげんがいいんだな、と思って」
「え?」
「ほら、体育祭の前から少し沈んでいるように見えたので」
 九条会主催企画の準備が始まった頃から、目に見えて須賀の様子が変わっていたのを思い出す。生徒会の仕事を投げやりにこなすようなことこそなかったが、いつもは明るい笑顔にも、どことなく思い悩む影がちらついているように見えたものだ。
 その理由に、元・九条会会長である兄との因縁があるとは、栗原から聞かされた。体育祭における九条会主催企画も、九条生の間ではいわくつきであるとされるその兄が始めたものだ、と。
 そもそも兄の後を追うように須賀も会長へ立候補したことを思えば、さぞ兄妹仲がいいか、また須賀が兄のことをよほど慕っているかだろうと想像できるのだが。

 ……それにしては、お兄さんにつきまとういわくとやらが穏やかじゃないんだよな。

『そうだな、あの人をわかりやすく一言で表すなら……あの人、須賀の兄貴は……九条会史上もっとも嫌われた生徒会長≠セよ』

 先日に栗原から聞かされた話を思い返しつつも、恋次は須賀へと微笑んだ。
「ともあれ、須賀さんが元気になってよかったです」
「……ありがと」
 須賀がいつもの笑顔を見せてくれたのもつかの間、今度はそこに悪戯な色がちらりとにじむ。
「でも、実際のところ、あの企画が梅田にとっては災難になっちゃったね。ほっぺた、大丈夫?」
「あ……」
 思わず左の頬に手をやった。そこには絆創膏(ばんそうこう)も湿布も何も貼られてはいないが、あのとき龍太の手に張られた名残(なごり)がうっすらと見えている。龍太の爪がわずかに引っかかってできた、一本の傷。
 レースの最中であり、校庭の端だったということもあって、自分と龍太の様子に気づいていた生徒はほとんどいなかった。が、その数少ない目撃者の一人が、いま隣にいる須賀というわけだ。
「あれだけいつも梅田にべったりの沖本くんでも、あんなふうに怒ったりするんだね。意外な光景だったよ」
「龍ちゃんが怒るのはめずらしくはないんですけどね……」
 もともと感情の起伏が激しく、自分自身に素直な龍太だ。しかし、あのときに限っては、確かに九条生には見慣れない龍太の顔だったろう、と思う。
 恋次は苦笑して、頬にやっていた手を下ろした。痛むのは頬じゃない。この胸のうちだ。
「栗原に文句の一つでも言ってやれば? どうせ無理やり参加させられたんでしょ?」
「いや、俺が自分から参加するって言い出したんです。楽しそうだと思ったので」
「でも、誤算だったわけね」
「まあ、そうですね。誤算は……ありました」
 須賀の率直な言いように笑いを噛みつつ、恋次はうなずいた。
 誤算なら、あった。引きたくないと準備段階から思っていた指令を、よもや本番で自分の手が引いてしまうとは。
 なぜあんな指令を作ったんだ、と栗原を恨めしく思わないでもなかったが、引いたら引いたで、いくらでもうまくしのぐ方法があったはず。最悪の結果を引き寄せたのも、結局は自分自身なのだ。

 ……栗原さんに文句は言えないな。

 もう一度苦笑してみせ、恋次は出窓から離れた。見下ろした中庭にも、楽しげに響いていた声はすでにない。
「それじゃ、5限が芸術選択なのでお先に失礼します」
「うん、お疲れ」
「栗原さんも月島さんも、お疲れさまです」
「おう、またな」
「また放課後」
 はい、とうなずいて会室を後にする。
 まだ昼休みの終わらない廊下は、ざわざわと人の声、足音が響いていた。
 中庭をぐるりと囲むロの字型の回廊の端に据えられた生徒会室を出て右へ。すぐ左は別棟の多目的ホールへと続くガラス張りの渡り廊下。それを横目に眺めて過ぎ、目の前の西階段を下りようとしたところ、あ、と背後で聞こえた声に恋次は振り返った。
 たった今通り過ぎたばかりの渡り廊下に続くガラス戸から、一人の1年生が顔をのぞかせている。見知った相手だ。
「ああ、遠藤」
「やっぱり梅田さんだ。こんにちは」
 短い黒髪に、どんぐりまなこと呼ぶがぴったりの大きな瞳が印象的な、遠藤一真(えんどう かずま)。
 一真は1年生らしいまだあどけない顔に笑みを乗せると、こちらへとそっと頭を下げた。
 恋次も微笑み返す。
「またピアノの練習?」
「いえ、今は浅野先生に手伝いを頼まれて……」
「浅野先生って、音楽の?」
「はい。よくここのピアノ触らせてもらってるから、断れなくて、俺……今日の放課後も使わせてもらう予定だし」
 短い前髪を指で引っかきながら、悪びれずに笑う一真。
「ああ、そうか。今日は陸部の活動日じゃないんだっけ」
 はい、と一真が歯切れよくうなずいた。
 5月の末にマネージャーとして陸上競技部に入部した一真は、そこで主将を務める龍太の後輩になる。くわえて、九条会会長である須賀とは親戚関係にあるらしい。

 ……考えてみれば、不思議な縁だな。

 ふと思いついて、恋次はまじまじと一真の顔を見下ろした。
「何か俺の顔についてますか?」
 身長は170センチに届いていないだろう小柄な相手が、不思議そうに首を傾げてこちらを見返す。
「いや、ごめん。須賀さんとイトコって聞いたけど、あまり印象は似てないなと思って」
 どちらも整った顔立ちではあるが、華やかな洋の香りの強い須賀に比べて、一真は純朴な和犬といった雰囲気だ。こちらの言わんとしていることをすぐ察したようで、一真はまた前髪を引っかき、うなずいた。
「ノリちゃ……え、と……須賀さんも俺も、どっちも母親似なんです」
「名字が違うってことは……」
「母方のイトコです。俺の母さんとノリちゃ……須賀さんのお父さんが兄妹で……ノリちゃんのお母さんはすっごく綺麗な人なんですよ。だから、ノリちゃんも昔っから外国の人形みたいにかわいくて……あ、俺が言ってたことは本人には内緒にしてください」
 まだ前髪に手をやったまま照れ笑いを浮かべる一真へ、了解、と恋次も微笑んでうなずいた。
 と、一真がそこで表情を変える。
「あの、沖本さんのことなんですけど……」
「龍ちゃん?」
「はい。体育祭が終わった後で顔を合わせたとき、なんとなく様子が変だったので気になって……なんだか少し痩せたようにも見えるし……梅田さんは何か知りませんか?」
 まっすぐに仰がれて、恋次は苦笑を噛んだ。
「……気づいたら知らせるよ」
「はい、お願いします。もう今月は予選会があるから、ちょっと心配で……」
 一真がわずかに目を伏せる。
 その表情を見下ろし、今度は自然と苦くはない笑みが口元に上ってくる。

 ……すっかりマネージャーの顔だな。もう迷いはないのか。

 そこに、明るい声が飛び込んできた。
「遠藤くん? どうしたの?」
 一真の背後から、一人の女子生徒が近づいてくる。
「あ、マルちゃん」
「休み時間、もう終わっちゃうよ」
 さらりと輝く長い髪に明るい笑顔の彼女がこちらへと視線をめぐらせた瞬間に、あっ、と大きな声を上げた。
「うわっ、梅田先輩っ? え? 遠藤くん、梅田先輩と知り合いなの?」
「え、と、一応――」
「えーっ、すごい! すごいすごい! すごいよ、遠藤くん!」
「イテッ……!」
 元気な声で叫んだかと思うと、勢いよく一真の腕を叩く。まるで夏の日の噴水のような彼女の様子に、恋次はつい吹き出した。
「ほら、マルちゃん。梅田さんだってびっくりしてるじゃん」
「えー、びっくりしたのはこっちだよ!」
「違うよ、一番びっくりしたのは俺だよ。いつマルちゃんに叩かれるかわからないんだもん」
 一真が眉を八の字にして、しきりに腕をさすっている。
 恋次はくっくっ、と笑いを噛みながら、二人の微笑ましい様子を見下ろした。
 と、何を見たのか、こちらの肩越しへと視線を滑らせた一真が、大きくて丸い瞳をさらに丸くする。
「あれ、梅田?」
 背後からかけられた声に、そういうことか、とうなずいて恋次は振り返った。
 一人の男子生徒が人好きのする笑顔で近づいてくる。サックスブルーの地に白いチェック柄が入った夏服ズボンに、上は涼しげな白の私服Tシャツ。回廊の窓から射し込む陽光が、気ままないでたちで歩く彼の髪を甘い蜜蝋(みつろう)色に輝かせていた。
 そのまばゆい光に目を細め、恋次は彼の名を呼ぶ。
「ようやく釈放か、綾井(あやい)」


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