歓声と砂埃の舞う校庭。
 第77代体育祭≠ニ文字の躍(おど)る旗が、初夏の風に吹かれて心地よさそうに空を泳いでいる。





  LESSON 1 :





 青葉の光る6月。第二日曜日。
 中天を過ぎた太陽がそろそろと傾く間合いを計りながら、地上にざわめく熱気を見下ろしていた。
 降り注ぐ陽射しを正面に受け、恋次(れんじ)はそっと額に手をかざした。同時に乾いたピストルの音が青空にこだまする。並ぶ列から一人、また一人と風の向こうへ消えていく。少しずつ見通しのよくなっていく視界の中に、捜している姿は見当たらなかった。
「どうした? 恋次。次、おまえの番だぞ」
 柄にもなく緊張でもしてるのか、と笑い声に背をつつかれる。
 恋次は額にやっていた手を下ろすついで、目にかかる前髪をかきやった。
「緊張ならしてる。なんせ、あの巻物を作ったのは、この俺の手なんだから」
 そのひと言に、また一つ笑いの渦がその場に湧き起こった。

 彼らが通う都立九条(くじょう)高校は、都心の真ん中にある。
 周囲は静かなオフィス街。徒歩五分の最寄り駅。すぐ隣は緑豊かで広々とした都立公園という恵まれた環境。
 創立当時からの行事に熱く力を注ぐ伝統校だけあって、そこに通う九条生にはひたむきな生徒が多い。

 九条生にとって高校生活における三大イベントの一つ、体育祭。
 たった今行われているのは生徒会主催による企画、『巻物指令レース』だ。コース上に置かれた巻物には、それぞれに指令が書かれている。その指令をこなしていち早くゴールした者から順に得点が与えられるという、いわば借り物競争とたいして変わらない内容のレースではあるのだが。指令というだけあって、ただそこに記されているもの――あるいは、者――をさがすだけでは済まないところがこのレースの醍醐味(だいごみ)だ、と。
 実際にこのレースを企画した者のほくそ笑んだ顔を思い出し、恋次もまた一人、苦笑を頬ににじませた。
 生徒会主催企画、すなわち自分たちの企画。数メートル先に置かれた巻物、そこに指令を一つひとつ記したのは、ほかならぬ書記の立場に身を置いている恋次自身の手だ。その中身についても、当然ながら記憶している。
「なあ、恋次。今、どんな気分だ?」
 すぐ隣のレーンに並んだ一人に訊ねられ、恋次は微笑んだ。
「そうだな……今から絞首刑に処される罪人の気分、かな」
 不敵な笑みを投げれば、たちまち相手が目を丸くする。
「はっ? そんなオソロシイ指令が待ってんのかよ!」
「さあな」
 冗談じゃない、こんなところで俺の人生が終わってたまるか、とピリッと辛い表情になった相手を横目に、乾いたピストルの号砲を聞いた。
 五列のレーンから猛然と走り出した影が四つ。少しでも早く辿り着いて自分に都合のいい内容の巻物を選べるようにというつもりなのだろうが、しっかりと紐で閉じられたその中身を外から見分けることは、残念ながら不可能だ。
「なあ、恋次ならわかるだろ? どれが当たりで、どれがハズレか……」
 後から追いついたこちらに、こそっとささやき訊ねてくる。
 そんな彼らに、たまらず小さく吹き出した。
「いくらなんでも、それは無理……」
 そもそも当たりハズレの判別ができてしまう人間がレースに参加していいはずがないだろう。

 ……当たりがどれ、というなら、それこそ全部だけどな。

 心中で毒づきながら、恋次は目の前の巻物を手に取った。どれを選んでも、なるようにしかならない。知っているからこその、開き直りだ。

 ……あの指令に当たらなければ、それでいい。

 苦笑を噛みつつ、端からゆっくりと解いた巻物。その文面に目を走らせ、恋次は思わず歩んでいた足を止めた。

 ……え。

「なになに、現順位が1位の団のチアリーダーと二人三脚でゴールせよ=c…っしゃあ! 超ラッキー! 誰を選んでもいいんだよな?」
「教頭先生とハイスピード・アルプス一万尺=H くだらねー! ……ちっ、教頭先生! どこにいるんですかーっ? え、電話中? それ、まじで困るんだけど!」
「えーと、これはサービス指令です=Bおおっ、やった! 台形の面積を求める公式を暗誦(あんしょう)せよ=Aか。簡単じゃん! えーと、底辺×高さ÷2だろ? あれ、違ったっけ? えーと……」
「自分の団の応援団長の長所を彼の歳の数だけ挙げよ=c…歳の数って、18個っ? そうだな……一つ、統率力がある、だろ。二つ、めっちゃたくましい、だろ。三つ、声がよく通る、だろ。四つ、強面(こわもて)だけど実はおちゃめ。五つ、実は笑うとかわいい。六つ、実は照れ屋さん。七つ…………どうしよう、なんか、キュンとしてきた……」
 それぞれ課された指令に一喜一憂の表情で駆けていく。
 彼らの後ろ姿を見やり、もう一度自分の手の中にある指令へと目を落とし、恋次は盛大なため息をこぼした。同時に、腹の底からこみ上げてくる笑いに顔をゆがめる。
 このレースのために作られた指令はおよそ三十。30分の1の確率は決して低くはない。けれど、避けたいと願っていたものをこうして引き当ててしまう自分の運の良さ(・・)には、笑うしかない。

 ……栗原(くりはら)さんも大笑いだろうな。

 心中でつぶやき、恋次は校庭の東へと顔を向けた。


 梅田恋次(うめだ れんじ)。
 2年7組の生徒であり、また生徒会組織である九条会の書記として、日々その責任を遂行している。
 涼しげで理知的な切れ長の目。すっと通った鼻筋。漆黒(しっこく)で少し長めの髪が、はらりと物憂げに目にかかる。
 その端整な顔立ちと落ち着いた物腰で、「まるで絵に描いたような好青年」と九条生の間では謳(うた)われているが、本人は自分への評判そのものに興味を示すことはない。ゆえに、ほかならばつきまとうであろう妬みやひがみといったものも、彼の周囲には見当たらない。あるのは、九条生の憧ればかり。
 男子生徒ですら、時おり、はっと胸に手をやりたくなるようなその優しく艶(つや)めいた微笑を、人は「恋ちゃんマジック」と呼ぶ。


 一般生徒の応援席、ちょうどトラックのカーブのところに据えられたハニーレモン団の陣へと近づけば、すぐに身を乗り出してくる姿があった。
「恋ちゃん! 指令、なんだって? 俺に協力できることある?」
 艶やかな黒髪を揺らし、満開の笑顔で声をかけてくるのは、同じく2年生で十四年来の幼なじみでもある、沖本龍太(おきもと りゅうた)。
 その相手へうなずき返し、恋次はさらに近づいた。伸ばした手で龍太の頭をこちらへと引き寄せる。
「え、なに? 恋ちゃん」
 黄色い声が飛び交うまんなかで、きょとん、と見上げてくる小柄な幼なじみ。その耳元に、すっと顔を近づける。
「あいつは?」
「へ?」
 一瞬わからない顔をした相手が、ああ、とすぐに気づいた表情でうなずく。
「実月(みつき)のこと?」
 ささやき返され、恋次もうなずいた。
「もう帰ったのか?」
「俺がリレー走るの見てから帰るって言ってたから、まだだと思うけど……」
 龍太は顔を上げて一般観覧席を見渡すと、あれ、と拍子抜けしたようにつぶやき、再び声をひそめる。
「トイレにでも行ってんのかな。せっかく恋ちゃんの出番なのに。でも、なんで? 実月がどうかしたの?」
「いや……」
 訊き返され、口ごもる。口元に手をやり短く考えた後に、恋次はふわりと微笑んだ。
「おいで、龍ちゃん」
 その場にしゃがんで背を見せれば、再び龍太が目を丸くする。
「なにしてんの、恋ちゃん」
「おんぶ」
「は?」
「龍ちゃんをおんぶするのが指令なんだよ」
 さらりと白状して、ほら、と促した。
「頼むから急いでくれ。エキシビで得点が低いとはいえ、一応これも順位に絡むんだから」
「だったら、よけいに協力なんかできないよなー、龍太」
 周囲の3年生の笑い声に、龍太がわざとらしく考える顔をした。
「うーん、団と幼なじみの板ばさみか……人気者は困っちゃうなー」
「あたしだったら、迷わず行くけどな! 梅田くん、沖本くんの代わりにあたしじゃダメ?」
「残念ながら」
「わははっ、一刀両断されてやんの。おめーに用はないってさ、ルミ」
「ちょっと住吉(すみよし)、あんた笑いすぎ!」
 わいわいとはしゃぐ輪の中で、龍ちゃん、と恋次はもう一度呼びかける。視界の端では、チアの衣装を着た女子と二人三脚をした一人がゴールテープを切っているところだった。ハニーレモンの一員である彼が1位でゴールしたのを見届け、ようやく龍太がこちらの肩へと手を置く。
「龍ちゃんもしたたかだな……」
「わかってないな、恋ちゃん。戦いは非情なものさ」
 そうは言いながらも、背負われた龍太はごきげんの声を上げた。
「にししっ、恋ちゃんにおんぶされるの久しぶり! 高いなー、気持ちいい!」
「痛い痛いっ! 暴れるなよ」
「だって、楽しいんだもん! ほらほら恋ちゃん、走れー!」
 小さな子どもがはしゃぐように足をばたつかせた龍太が、きゅうっと首に腕を絡めてくる。
「恋次くん、がんばってー」
「いいなー、龍太いいなー!」
「よっ、ご両人!」
 次々と投げられる声援の間を駆け抜けながら、恋次は何度も背中の重みを抱えなおした。
 先ほど、龍太を背負って立ち上がった瞬間に覚えた違和感。その正体を、この腕が今しきりに訴えている。

 ……軽い。

「……龍ちゃん、痩せた?」
 呼びかけ、訊ねてみたが、龍太の耳に届く前にそれは、ざわめく歓声の渦に呑まれて消えてしまったらしい。
 反対に、龍太のほうが耳元で呼びかけてきた。
「なあ、恋ちゃん。さっき、実月のこと訊いてきたのって、なんで?」
「…………」
 答えを返す前に、ゴール手前へとさしかかる。
「はいはい、指令書を拝見」
 ジャッジ役である栗原が手を広げて待ち構えていた。
 同じく九条会所属の先輩。一枚一枚の指令を記したのは恋次の手だが、その指令を生み出したのは目の前にいる彼の頭だ。ほか二人のジャッジとともに、参加者が指令をきちんとこなしたかを見極める。白旗が三本上がればゴールすることを認められ、一本でも赤が上がればイチからやり直しだ。
「龍ちゃん、つかまってて」
 片方で龍太の体を支え、もう片方の手で指令の書かれた巻物を栗原へ手渡す。
 受け取った相手は、開いてすぐに笑い転げた。
「あはっ……ははっ、引いちゃったんだ、恋次!」
「……おかげさまで」
 笑い続ける栗原の横から、二人のジャッジも巻物をのぞき込む。
「……へぇ〜」
 とたんに感心するような、笑いをこらえるような、なんとも複雑な表情になった。
 笑うだけ笑った栗原が、こちらの背にいる龍太を見やる。
「それで、コレの答えが龍太?」
「充分でしょう?」
「そうか〜? 俺が覚えてるあのときのおまえは、そんな穏やかな幼なじみの顔じゃなくて、もっとフツウの男≠フ顔をしてたと思ったけどな」
 栗原の言うあのとき≠ニは、まさにこの巻物を作成していたときのこと。半紙に筆を走らせながら「レースに参加しても、この指令にだけは当たりたくない」と言ったこちらの顔を、彼はおもしろそうに眺めていた。
「……指令に背いてはいないはずですけど」
 巻物の一部を指して、恋次は微笑んだ。
 そこに目を落とした栗原が、なるほどな、とうなずく。
「つまり、うちのやつじゃないってことか……ま、いいだろ、認めてやるよ」
「どうも」
 ぱっと上げられた白旗三本に、どっと歓声が上がったのは校庭の右、ブルー団の陣。皆とそろいの青のミサンガを巻いた右の拳をそちらへ一度掲げ、恋次はゴールへと駆け出した。
 が、
「ちょっと待って! 恋ちゃん!」
 龍太の鋭い声音に出足を止められる。
「結局、恋ちゃんの引いた指令ってなんだったの?」
 ここからじゃ見えなかった、と龍太が身を乗り出して栗原を振り返った。
「……後で教えるよ」
「やだ、今気になる!」
 ぎゅっとTシャツの肩をつかまれ、恋次は眉根を寄せた。ほんの五メートル先に待っているゴールライン。そこを越えた後だってかまわないだろう。わずか数秒のことだ。ガマンしてくれ、と肩越しに振り返ったが、龍太は頑(がん)として首を縦に振らなかった。
 仕方なく、龍太を背負ったまま栗原の元へ戻る。
「いきますよ、教頭先生。せーの、アーループース、一万じゃ……あれ? なんだよ、恋次はもう白旗もらっただろ?」
 こちらの顔を見て、次に栗原のジャッジを受けていたライバルが目を丸くした。
「そうなんだけど――」
「栗さん! 恋ちゃんの指令、俺にも見せて!」
「そのためにわざわざ戻ってきたのか?」
「だって、気になる!」
 栗原がちら、と含んだような目線をこちらへ向けたかと思うと、開かれたままの巻物をぽいっと放り投げた。
「ほらよ」
「ありがと! ……」
 受け取り、すぐ静かになる龍太。
 恋次は肩越しに幼なじみの様子を見やり、ゴールラインまでのんびりと歩を進めた。
「お疲れ様です、恋次先輩」
「ありがとう」
 役員に2位のシールをゼッケンに貼られている間も、背中の龍太は大人しかった。
「降ろすぞ、龍ちゃん」
 腕を放すと、ストッと身軽に龍太が校庭へ降り立つ。振り返った恋次は、そこにある幼なじみの表情に目を見張った。
 泣き出しそうなほどに顔を赤らめ、大きな瞳でこちらを睨み上げている龍太。
「恋ちゃんのバカ!」
「どうしたんだよ、唐突に」
「唐突なんかじゃない! 俺を怒らせたのは恋ちゃんだろ!」
 ぐい、と龍太が手にあるものを突き出した。
 栗原から渡された巻物。
 広げられたそこに書かれている指令は……


 目を閉じて、
 真っ先にその心に浮かぶのは、この場にいる誰の顔?
 思い浮かべた君に、この指令。

 其の者 背に負ひて、ともに走るべし



「なんだよ、これ!」
「それを俺に言わないでくれ。考えたのは栗原さ――」
「そうじゃない! 俺が言ってるのは、そんなんじゃなっ……」
 ごほ、と興奮のあまり龍太がむせ返る。その背をさすろうと差し出した手は、しかし鋭く振り払われた。
「龍ちゃん?」
「なんで?」
「え?」
 問われた意味がわからずに、ただ聞き返した。

 ……なんでって、何が。

「なんで?」
 龍太もただ繰り返す。こちらをまっすぐに見上げる瞳から、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「なんで?」
「…………」
「なんで……なんで恋ちゃんは、さっき実月のこと訊いてきたの?」
「それは……」
「うちのやつじゃないとか、幼なじみの顔とか……栗さんの言ってた意味が、やっとわかった…………本当の答えは俺じゃないんだろ。俺はただ……実月の代わりなんだ……」
「龍……」
 しまった、と思ったが、もう遅い。今さら自分の浅はかな行動を悔いてみたところで、傷ついた相手の耳に届く言葉など何もなかった。名前を呼ぶ資格すらない。ただ見つめるしかできなかった。
 龍太が細い肩を震わせ、すっと右手を振り上げる。
「恋ちゃんの無神経っ!」
 パン、と乾いた音が、ピストルの号砲に紛れて、この左頬を打った。





To be continued.

劇中時間 06/08(Sun)





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