ガラス戸を一歩くぐれば、そこは別空間だった。
 開け放たれた正面の窓、その向こうに揺れる緑が映っていた。
 流れる音が、風に乗せられ運ばれていく。
 すぐ背中で聞こえているはずの校舎内のざわめきも、まるでこの体ごとすり抜けて、あの窓へと吸い込まれていくような。
 足を止めて、しばし目を閉じて、この空間に染まる。
 ふと、それまで流れていた音色がぴた、とやんだ。


     


「入倉さん?」
 呼ばれて、目を開ける。
 中央に置かれた一台のピアノ。
 向かい合う1年生が一人。
 直也はゆっくりと歩み寄った。
「……ちょっと、いいか?」
 はい、と笑顔でうなずくのは一真だ。
「めずらしいですね、入倉さんがここに来るの」
「おまえと男同士の会話をしてこいって、言われた……」
 言われたのでなければ、自分からわざわざこんな話を持ってきたりはしない。そんな心中のつぶやきが知らず顔に表れていたのか、向かい合う相手は苦笑。
「面倒だと思うけど、てきとーに答えてくれればいいから」
 すぐそばまで近づくと、直也はピアノの天板に肘をつく。
 うなずいて、一真が小首を傾げた。
「なんだか、ほっとしたような顔してますね、入倉さん」
「ん……まあ、質問する相手があいつじゃなくて、そこは正直ほっとしてる」
「あいつって、綾井先輩のことですか?」
 小首を傾げたままの一真が、今度はまた大きな瞳を細めて笑顔になる。その笑顔に少しの悪戯心がちらついて見えるのは気のせいではないだろう。
 相手の問いには答えず、直也は前髪をわざと不揃いにかきやった。手の中のメモへと一度目を落とし、小さく息をつく。
「遠藤の好きなタイプって、どんなやつ?」
 苦手な話題はさっさと済ませてしまうに限る、と腹に決めて顔を上げれば、
「明るくって、笑顔の綺麗な女の子が好きです」
 あまりにあっさりと返されて、次に繋げる言葉を探す時間も無かった。
「即答……」
「あ、俺、もう質問役終わってるんで……回答者の人と話しながら、自分も考えてたんですよね」
「ああ、そうか……」
 うなずいて、今自分が肘をついているピアノを見下ろす。
「……やっぱり、ピアノが弾けるやつのほうがよかったりすんのか?」
「ピアノはあんまり関係ない、かな。好きな音楽が同じだったら、楽しみも増えるかもしれないけど……ピアノを弾いてる女の子を見て特に何かを思ったりはしない、です」
 そこまで淡々と語った一真が、でも、と表情を変えた。
「……でも?」
「俺のピアノを喜んで聴いてくれたら、それはうれしい、かな……」
 思わず照れ笑いのにじんだ相手の顔を見て、直也も知らず頬が緩む。
「俺、ピアノとか楽器のことは全然わかんねえけど、遠藤ってそうとう弾けるんだろ?」
 ついさっき流れていた音もそうだ。クラシックに詳しくもなければ曲の名前もわからないが、確かに覚えのある節だったと思う。すらすらとよどみなく耳に入り込んでくる感じが心地よかった、と。
 めずらしく素直な直也の褒め言葉に、一真はさらにはにかんだ。
「ありがとうございます……でも、俺、音高や音大を目指そうと思ったこともないし、長く触ってた程ほどにしか弾けないですよ」
「長くって、どれくらい?」
「生まれる前から家にはピアノがあったんで、初めて触ったのがいつかは覚えてないですけど……ちゃんとレッスンを始めたのは、たぶん3歳……」
「へえ……じゃあ、歴は俺と同じだ」
 懐かしい日々を思い返し、直也はつぶやく。
 え、と一真がそれまで伏せていた目を上げた。
 それへ、直也は穏やかに続ける。
「俺がバスケ始めたのも、それくらい」
「そうなんですか」
 椅子に座ったままの相手を見下ろして、今度はわずかに顔をしかめてみせた。
「……なに笑ってんだよ」
「や、え、と……女の子の話をしてるときよりも楽しそうだなって……」
 前髪を引っかきながらの一真の言葉は、あまりに的を射ていた。腹が立つことはなかったが、どうにも面映い。岡田のように茶化してくれたほうが、まだ慣れている。
 苦手な話題はやはりさっさと済ませてしまうに限る、と直也は軽く咳払いをすると、次の問いへと移った。
「おまえ、今好きなやつとかいる?」
「特にいないです」
「…………」
「そんな意外そうな顔しないでください。ほんとに今いないんですよ」
「じゃあ、当然つき合ってるやつもいないよな……」
 はい、と一真ははっきりうなずく。
 その小気味いいテンポにつられて、直也はさらに問いを重ねた。
「今いない≠チてことは、中学時代は?」
「……憧れた女の子はいたような、ですけど……俺、恋愛はからっきしで。あの人を追いかけるだけで精一杯でしたから」
 あの人。
 思い浮かぶ人物は一人だけだ。
「よく……」
「え?」
「よく、そういうこと、まっすぐ言えるよな、おまえ……」
 ふいに心に湧き出したのは、羨望だったろうか。
 ぽつりつぶやけば、とたんに相手が目を丸くした。
「えっ、お、おかしいですか?」
「おかしくはねえけど……」
 おかしくはない。
 そう、やはりこれは、目の前の相手に感じたこれは、羨望だ。
 だが、一真のほうはそんなこちらの様子に気づくこともなく、しきりに短い前髪を引っかいている。
「たまに、友達からも言われます。一真って、時々平気でそういうこと言う≠チて……自分じゃ意識してないんですけど」
「意識してねえから言えるんだろ」
「あ、そっか」
 きょとん、とした表情に、直也は思わず吹き出した。
「ははっ」
「あ、笑った……」
「は?」
「あ、え、と……入倉さんって、あんまり笑わないから。たまにこうして目の前で笑ってもらえると、うれしいんですよね」
「……だから、よく言えるよな、そういうこと」
「あ、しまった……」
 今度は悪戯に笑ってみせれば、一真もまた笑顔で前髪を引っかいている。
 相手が寿人でなくてよかったという思いから始まったこの座談会だったが、今では相手が一真でよかった、とそう思う直也だった。
「やっと最後の質問。遠恋って、できる?」
「遠距離も近距離も経験がないからわからないですけど……遠恋はあまりしたくないですね。でも、せざるを得ない状況なら、たぶんがまんできます……あ、やっぱりがまんはできないかも」
「え?」
「どうしても会いたくなったら、会いに行きます。無理してでも」
「…………」
 まっすぐな言葉だった。
 会いたくなったら、無理をしてでも会いに行く――。
 相手の言葉を噛みなおして、いま心からこみ上げてくるこれはなんだろう、と直也は前髪をかきやった。
「こういうやつって、ダメ、ですかね」
「俺は女じゃねえから、なんとも言えねえ、けど……今の回答は、すごく遠藤らしい気がする……」
「そう、ですか?」
「おう……」
 うなずいて、直也は正面の窓へと目を向けた。
 風の中で、緑が揺れている。
「自分らしい、か……」
「え?」
 大きな瞳が見上げてくる。
 見下ろし、直也は微笑んだ。
「なんでもねえ」



End?


座談会、直也&一真篇でした。
拍手お礼ではひたすらほのぼのでしたが、視点を直也くんにしたことで、ちょっぴり複雑にもなった感じ。一真くんと話すことで直也くんも何か感じてもらえたようでよかったです。笑
一真くん、グッジョブ(・∀・)b


座談会シリーズ、楽しんでいただけましたか?
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました☆







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