喩えるならば雪の花。
その心を覆う真っ白な氷を溶かしてみせたなら、
あなたはどんな色を見せてくれますか――。
カキーンと耳に響く快音が流れてくる。
じりじりと地上を焦がす夏の盛りの日射しの下(もと)、一真はふと歩みを止めた。
「どうしたの、カズ?」
「うん」
うなずいて、一真はただ耳を澄ませる。
聴こえてくるのは、遠い歓声。沸き立つ観衆の奏でる熱いさざめき。どこかの家から風に乗ってやってくる野球放送だ。
それを耳に留め、一真は大きな瞳を笑みに細めた。
「盛り上がってるなあって思って」
「盛り上がってる?」
再び歩き出した一真の隣で、須賀がふわふわの栗色の髪を揺らして首を傾げた。
次の瞬間、静かな通りの空気を震わせたその音に、ああ、と小さくうなずく。
「もう来週だっけ、甲子園が始まるの」
「うん、これは去年の大会の再放送みたいだけどね」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「実況の声が聴こえたから。俺もこの試合観てたし」
「ほんと、好きだねーカズも」
呆れたような感心したような須賀の声に、一真は苦笑した。
「お兄ちゃんの仕込みがよかったんじゃないのかな」
「お兄ちゃん、ね……」
今度こそ呆れたため息をつく須賀の隣に、ふわりと亜麻色の髪が並んだ。
「何の話してるの?」
にこ、と明るい日射しによく映える笑顔の主は寿人。
九条中の制服であるサックスブルーとホワイトのチェック柄のズボンに鮮やかな藍地のTシャツを合わせ、相変わらず校則などお構いなしの気ままなそのいでたち。
一真も思わず息をついた。
――自由人。
寿人を表すならこの一言しかないだろう。
平日と休日で全く異なる顔を持つ都心のオフィス街、九条。
オフィス街といえど、ここで生まれ育つ子どもたちにとってはかけがえのない故郷だ。自分はこの街に生まれ落ちたわけではないが、ここを地元として愛するようになって、早7年の時が過ぎた。
人々の集う繁華街だけがその名を負っているのではないことも、十分に知っている。むしろ、この街にも季節を愛でるように穏やかな時間が流れること。それを知らない人の多さに、悲しくなることもある。
今は夏休みの昼下がり。
午前で終わった部活の帰り道。
暑さにうだりながら歩く通りには、人々の足音よりもセミの鳴き声が響き渡っている。
……つまり、いくら人目が気にならないこの時期だからといって、その格好はどうだろう。
一真が思うことは、それだった。
ふと吹きつけた夏風が、少しの隔たりの先にある寿人の髪を優しくあおる。ふわりとのぞいた耳元に、キラ、と小さなピアスの光。だが、それよりも眩しく輝くのは、風にあおられた柔らかな髪そのものだ。
日本人離れしたその色が彼の身のうちに流れる血によるものだということは、以前聞かされた。人目を気にしない無頓着さもまた、その血によるものかどうかはわからないが、ただ彼が自分とは全く対象的な人物だということはわかっているつもりだ。
「そんなに俺のこと見つめちゃって、どうしたの?」
小首を傾げ、寿人が茶目っ気をたっぷりとにじませた表情で見返してくる。
一真は、いえ、と軽くかぶりを振った。
「綾井先輩は高校野球、見てますか?」
「高校野球? って、甲子園?」
「はい、今ノリちゃんとその話をしてたんですよ」
「ふぅん……甲子園か。残念だけど、俺はさっぱり」
「え、そうなんですか?」
寿人からよこされた答えに、一真は目を見張る。
……意外。スポーツ好きって言ってたのに。
知り合って、2ヵ月。
寿人とはよくスポーツ中継の話題で盛り上がるのが帰り道での定番だった。寿人が主に得意としているのはサッカーだったが、プロ野球のペナントレースについて二人で語り合うこともある。てっきり、夏の風物詩ともいえる高校野球についても、心を入れているものとばかり思っていた。
「遠藤は好きなの?」
「はい。ずーっとちっちゃな頃から見てましたから」
「へえ……」
「あの、先輩は嫌い、ですか?」
「ううん、嫌いっていうわけじゃないんだけど、ちょっと苦手」
「どうしてですか?」
思わずこちらの口をついて出てきた問いに、寿人が苦笑顔で髪をかきやっている。
「そんな理由を聞いてどうすんの」
「どうするってわけじゃないですけど……ただ、なんとなく。だって、先輩スポーツ観るの好きって言ってたでしょ? それこそ野球も好きって言ってたのに、なんで甲子園だけはだめなんですか?」
「ふふ、今はカズのほうが正論だと思うよ、綾井」
こちらと寿人に挟まれたまん中で、須賀が口元に手をやりくすくすと笑っている。
「参ったなあ……」
寿人がふぅっと息で前髪を吹き上げた。ちら、と見えた形のよい眉が八の字を描いている。
そのまま、うなじをなでる柔らかな髪をかきやっているかと思うと、今度はひょい、と須賀の背中越しに寿人が顔を突き出した。
「秘密」
そうして、いつもの飛び切り明るい笑顔をくれる。
「……ず、ずるいですよ。先輩はいっつもそうやって笑ってー……」
「拗ねんなよー。遠藤のそのおっきな目で睨まれると、妙に迫力あるんだよなあ……」
「それはたしかに……」
寿人の言葉に、須賀がくす、とまた笑みをこぼす。
「もう、ノリちゃん!」
迫力があると言われた表情そのままで隣を見やれば、ごめんごめん、と苦笑が返ってくる。
その相手の顔を見上げ、ふと思い当たった。
「……もしかして、ノリちゃんは知ってるの?」
「え?」
「綾井先輩が甲子園を嫌いな理由」
だから嫌いとは言ってないのに、とつぶやく寿人の声は置き去りにして、一真はじっと隣の従姉( いとこ )を見上げやる。
須賀は前髪をかきやりながら、ちら、と目線を泳がせた。
「綾井がああ言ってる以上、あたしの口からは言えないな」
「…………」
それはつまり、自分の問いを肯定しているということ。
一真は一度自分の足元へと視線を落とすと、ぽつ、とつぶやいた。
「……帰る」
「え?」
「俺、先に帰るっ!」
くる、ときびすを返し、今まで向かっていた方向とは正反対にその強い瞳をめぐらせる。そうして歩き出したところを、後ろからぐい、と腕を引かれた。
「ちょっとちょっと、カズ。怒らないでよー」
「べつに怒ってないよ!」
「ほら、怒ってるー……中学生になってもそういうところは全然変わらないなあ、もう」
その言葉には、さすがに足を止める。まるで自分がちっとも融通の利かない駄々っ子のように思えてきた。
須賀と二人ならば、幼い頃から知ってるだけにそれもご愛嬌で済むかもしれないが、今は寿人もいる。寿人はこんな自分をどう思っただろう、と心中不安げに一真は振り返る。
と、明るい日射しの下で、相手はただ笑顔だった。
「近くにいるイトコっていいなあ……」
しみじみ、といった調子のその声はどこかうらやましそうでもある。
「綾井先輩もイトコいるんですか?」
「そりゃ、いるさ」
「へえ、男の子? 女の子? 先輩に似てますか?」
「聞きたがりだな、遠藤。べつにかまわないけど」
「…………」
聞きたがりだ、と指摘され、一真はわずかに顔を赤らめた。
もともと自分のことをそういう性格だと思ったことはない。だが、相手が寿人なら別。それが自分とは全く異なる雰囲気を持つ人物への単なる興味や好奇心といったものなのかどうか、自分自身わかってはいなかった。
ただ、寿人に惹かれている。
それが事実だ。
初めて寿人に出会った瞬間の、あの茜空の色を今でも忘れたことはない。そのとき耳に入り込んできたあの蕩(とろ)けるような音色も――。
つい考え込んでいた一真は、視界でひらひらと何かが揺れるのを感じて、はっと顔を上げた。
「――え?」
「どうしたの、遠藤。ぼんやりしちゃって」
目の前にあるのは寿人の手のひら。いつの間に須賀と入れ替わったのか、寿人がすぐ隣にいる。にこ、と笑むその顔は、欧州の少年のようだ。石畳に荘厳な教会でも背景にして立ったなら、どんなにか絵になることだろう。
そんなことを思いながら、一真はただ寿人の笑顔を見上げていた。
「おーい、遠藤?」
「……あ、すいません。じろじろ見ちゃって」
寿人が目をきょとん、とさせてこちらを見下ろしている。
短い前髪を指先で引っかき引っかき目を泳がせると、くっくっ、と笑い声が降ってきた。
「かわいいなあ、遠藤」
「は?」
「おまえって、今までの俺の周りには絶対いないタイプだなあ……」
「……今まで、のって?」
訊き返したが、それには答えてもらえなかった。
寿人はただ穏やかに笑い、ゆっくりと歩き出す。それにつられて、一真も歩き出した。
つい先程まで帰ろうとしていたことも、今ではもうどうでもよくなっていた。
いや、実際のところ本当に帰ろうとしていたわけではない。今日、この日このときに自分が帰ってしまうわけにはいかないことくらい、わかっていた。けれど、そんなことを口に出してしまったら、妙に自分がうぬぼれの強い男のように思えて気恥ずかしい。だから今までそ知らぬふりをしていたのだが。
……かえって恥ずかしいとこ見せちゃったな。
寿人の横顔を仰ぎ、一真はまた前髪を指先で引っかいた。
三人一列だった先程とは違って、今は並んだ寿人と自分の一歩後ろを須賀がついてくる。肩越しにちら、と見やれば須賀もまたちら、と見返してくる。その表情が実に楽しそうだった。
というよりも、「楽しみにしててね」とこちらに言っているような笑顔だ。
――そう、今日は8月1日。
13回目の誕生日だ。
それを祝ってくれるために、須賀と寿人が今こうして自分のそばにいる。
学校を出てすぐに、どこへ行くのかと訊ねれば、意外にも「公園だよ」とさらりと答えを教えられた。だから、この足がどこへ向かっているのかはわかっている。けれど、向かった先で何をしてくれるのかはわからない。
思い返しては逸(はや)ろうとする心をそっと抑えるように、一真は先程の会話を続けることにした。
「先輩のイトコって、どんな人なんですか?」
「どんなって言われても答えづらいけど……一人じゃないしね」
くす、と小さく笑みをこぼして寿人が前髪をかきやる。
「じゃあ、一番仲良しなのは?」
「仲良し? っていったら……ユキかな。同い年だし」
……ユキ。
そう口にしたときの寿人の表情に、思わず目を奪われた。考えてみれば、寿人の身内の話などこれまで詳しくその口に聞いたことも、その口から聞かされたこともなかったから。
ユキという名のイトコがいる――。
ただそれを聞いただけで、今までの何十倍も寿人を知れたような気がした。
「ユキ、ちゃん……女の子ですか?」
「違う違う。男だよ」
「男なのに、ユキ? ユウキじゃなくて?」
「ユキは呼び名。本名はユキトっていうんだよ。清廉潔白の廉っていう字に人って書いて、廉人( ゆきと )って読むの」
「へ、え……ユキトさん」
口の中でその名を噛み直し、不思議な気分になった。その名前以外顔も何もわからない相手に対して湧いてくるこの気持ちはなんだろう。
……それにしても、ヒサトにユキトか。
寿人に匡人( まさと )という名の兄がいることは、以前、同じブラスの先輩から聞いている。それを思い出し、一真はまた隣を歩む横顔を眺めやる。
「みんな名前に人≠ェつくんですね」
すると、綾井家の男はね、と軽く答えを放り寿人が笑んだ。
「ユキは……俺に似てるんだ…………匡兄( まさニイ )よりも」
「え、それは顔が? それとも性格が?」
手拍子で訊き返したが、やはり寿人は笑顔を向けてくるだけ。肝心なことを教えてくれないのは、いつものことだ。
くやしいような歯がゆいような気分をぐっと喉の奥で堪え、一真もわずかに笑んでみせた。
「いつか会ってみたいです、そのユキトさん」
「……俺は会わせたくないけどなあ」
「えっ? どうしてですか……?」
「……だから、さっき言ったじゃん。あいつは俺に似てるって。それ聞いただけ十分だろ」
「…………」
……似てるっていうから会ってみたいんだけどな。
一真が思うところ、寿人は寿人でしかありえない。
多少の面影が似るというのは血縁関係ならばあるだろう。けれど、いつも寿人が見せる笑顔も、語る言葉も、それはすべて寿人のもの。寿人以外の誰かが作り出せるものではないのだ、と。
……綾井先輩に似てる人、か。
どこがどう似ているのかは答えてくれなかったが、寿人本人があえてそう口にするのだから、嘘ということはないだろう。もし容姿が似ているというのなら、ユキトというその彼もまた、色素薄く甘い笑みを咲かせるのだろうか。
……あれ、でもおじいさんが向こうの人って言ってたっけ。ってことはお母さんがダブルなんだよな。じゃなきゃ、綾井って名字になるわけないし……そしたら、綾井家のユキトさんには外の血が入ってないから、やっぱり顔が似てるわけじゃないのかな。となると、言動が…………?
前髪を引っかき引っかき考え込んでいると、ふと隣を歩む寿人の足が止まった。
「綾井先輩? どうしたんですか?」
公園はこっちですよ、と指差し振り返れば、寿人が、うん、とうなずく。どこか上の空なその様子に一真は首を傾げ、何を見ているのだろう、と寿人の視線の先を追う。
が、この目が追いつかないうちに寿人がくる、とこちらを振り向いた。
「遠藤と須賀さんは先に行ってて」
「へ?」
「え、ちょっと、綾井?」
「いいからいいから……」
寿人は須賀に歩み寄ると、その耳元で何かをささやいた。
「……ね」
そうして茶目っ気たっぷりのウィンクを投げたかと思うと、青信号に変わったばかりの横断歩道を軽やかに渡っていく。
「……ノリちゃん。綾井先輩なんだって?」
「うん……」
一真が肩越しに後ろを見やれば、須賀はただ呆気に取られた表情で、通りの向こうへと小さくなる背中を眺めていた。須賀にとっても、寿人の行動は予定外だったらしい。
寿人の背中が路地に消えていくのを見送り、須賀がこちらを振り返った。
「じゃ、行こうか、カズ」
「え? あ、うん……」
後ろ髪を引かれる思いで一真も一度寿人の歩いていった方を見やったが、すでにその姿はどこにも見えない。
一真は二度三度、その大きな瞳を瞬かせて小さく息をつくと、一歩先を歩く須賀の後を追った。
結局、寿人の意図とやらは知れないままだ。
* * *
「あ、やっと来たっ!」
夏日に照らされた都立公園。
揺らめく明るい緑の向こうから、高い声が飛んでくる。
そちらへと目を向けた瞬間に、噴水の縁からいっせいに羽を広げたハトたちの飛影に、たちまちその姿が隠されてしまった。
しかし、声の正体はすでに知れている。
「美苗( みなえ )先輩?」
おとなしくなった羽音の向こうでしきりに手を振っているのは、たしかに同じトランペットパートの3年生、水村美苗だ。コーヒー色の髪をさらりと揺らしてこちらへ手を振る彼女の周りには、ほか、すでに帰ったはずの部活仲間たちの姿が、数人ではあるが見えていた。
「あれ、川名( かわな )先輩たちも……」
そこに居並ぶのは、ほとんどが共にトランペットを手にする者、またはトロンボーンといった合奏以外でもよく音を合わせることの多い相手。つまりは部内でもことさら仲のよいメンバーたちだ。
ちなみに、今年の新入部員で金管に振り分けられたのはこの自分ひとり。ゆえに、目の前にずらりと顔を揃えているのは当然ながら、皆上級生ばかりだ。もっとも、こんな状況にはそれこそ部活内でいやというほど慣らされてきたが……。
「一真、今日誕生日なんだって? おめでとさん!」
こちらの驚いた顔を楽しそうに眺めているのは同じくトランペットパートの3年、川名葉月( はづき )。ツンツン逆立てた黒髪とこぼれる白い歯が、青空の下だといつにも増して気さくに見える。
「おめでとーーーっ!」
「やっと13歳? 若ェなあーっ」
「いいよなー、人生まだまだこれからって感じ」
この場に集う先輩たちが降らす祝福の雨を受けながら、一真はただ驚くやら照れくさいやら、だ。
……先輩たちがめずらしくみんな早く帰ってたのは、こういうわけだったのか。
と、水村が意味ありげな視線を隣の須賀へ送る。須賀はうなずいて仲間たちのもとへと歩き出しながら、それが、と小さく苦笑してみせた。
「綾井がさ……」
「あれ、そういや寿人のやついねーな」
きょろきょろと辺りを見回す川名につられて一真も周囲を見やったが、眩しい日射しの向こうから寿人がやって来る様子はまだ見えない。
「言いだしっぺが途中でいなくなるって、どういうこと〜?」
む、と顔をしかめる水村の言葉に一真は目を丸くした。
「え……これ、綾井先輩が言い出したことなんですか?」
「あ……」
思わず口が滑った、と正直に書かれた顔で、水村が口元に手をやる。すまなそうに眉を下げて一度須賀を見てから、こちらへと向き直った。
「そうだよ。綾井の発案なの。でも、言わないでくれって頼まれてたから、遠藤も知らないフリしててね」
「……はぁ」
……綾井先輩が。
寿人が自分の誕生日を知っていたことも意外だったが、それ以上にこんなイベントを考えてくれたことが不思議でならなかった。寿人らしいといえば寿人らしいし、反対にらしくないといえばらしくないようにも思える。
しかし、水村の言うとおり、その発起人は今どこで何をしているのだろう。
一真は前髪を指先で引っかき、もう一度公園の入り口を眺めやる。
と、
「……ふぅん、そういうこと。じゃあ、寿人には遠慮なく先に始めてようぜ。もう時間もギリギリだし」
自分が目を外した隙に須賀が仲間たちに何事かを伝えたらしい。
聴こえた声に振り向けば、川名たちはそれぞれ納得したようにうなずいては、どこかへと歩き出していった。
須賀も水村もしかり、だ。
何が始まるのか、と目を凝らしていると、皆涼しげな木陰に集まっている。そのうちに、小さくマウスピースを鳴らす音が聴こえてきた。
……え、これって。
「それじゃあ、一真の誕生日を祝しまして、俺らから愛情たっぷりのプレゼントを贈ります!」
その言葉と共に姿を現した彼らは、手に手に自分の楽器を持っていた。
ちら、と川名が腕時計に目を落とす。
瞬間、こちらの背後で盛大な噴水が吹き上がった。飛び散る水しぶきが頬をなでていく。その一粒一粒が、陽光に照らされ虹色に輝いた。
そして、
――明るい空に響き渡る
HAPPY BIRTHDAY TO YOU≠フメロディー。
ざわ、と全身を熱い何かが駆け巡った。
それが足のつま先から頭のてっぺんまでを貫いて、知らず手が震えていた。
「ハッピーバースデー、一真」
マウスピースから口を離し、川名が屈託なく笑いかけてくる。
「……ありがとう、ございます」
「プレゼント、モノで用意できなくてごめんな」
「そんなこと……」
「しかも一回しか合わせてなかったからさ……」
内心、冷や汗だった、と苦笑する川名の隣で、トロンボーンの矢沢 涼( やざわ りょう )がひとつ大きく息を吐いた。
「冷や汗かいたのはこっちだぜ。アドリブ入れるんなら最初に言っとけって、葉月」
「や、つい、ノリで……」
「なんのための打ち合わせだよ」
やりあう二人を眺めているうちに、今度は知らず一真の口から笑いがこぼれた。
「ほんと、ありがとうございます。先輩」
「ん? お、おう……」
揃って頭に手をやる川名と矢沢の様子に、仲間たちからも笑い声が上がる。
一真がそのままの笑顔でくるりと視線をめぐらせれば、須賀と水村もまた柔らかな表情で楽器を抱えている。
空にはまだ彼らからの贈り物が響いていた。その中をハトたちの翼が夏日に照り返されて、光っている。
こんなプレゼントを受け取ったのは初めてだ。目に見える物としてはどこにも残っていないし、きっともうこの先二度と同じものはもらえないだろう。
それでも、こんなに満たされている。
――ただ、ひとつのことをのぞけば。
ここに居並ぶ仲間たちを順に眺め、それから一真はひとり公園の入り口を振り返った。見つけたい人物は、まだ現れない。
「まったく、綾井はどこに行ったんだか」
すぐ隣で聴こえた声に顔を上げれば、須賀が苦笑を浮かべて同じ方向を眺めていた。
「ノリちゃんは聞いてるんじゃないの?」
「ん、それが、聞いてないの」
「え? だって、綾井先輩が何か言ってたでしょ?」
「あれは、ただ――」
須賀が言いかけたそのとき、背後からまた盛大な羽音が聞こえてきた。が、その音が尋常ではない。何かに追い立てられるかのように慌てふためいた表情のハトたちが、いっせいにこちらへとやって来る。
「うわっ?」
「きゃっ」
バサバサと顔の横をかすめていく羽を、須賀と二人、危ういところで避けていると、その羽音の向こうから白い影が近づいてきた。
「 Shit! 」
舌打ちと、何やら早口の英語をつぶやきながら、それがやって来る。
やって来たかと思うと、こちらの目の前でぴたっと足を止め……ようとして、一度よろけた。弾みで腕の中から飛び跳ねた白い箱を慌てて抱え直し、一度しゃがみこんでほーっと息をつくと、ゆっくり立ち上がり、こちらを向いた。
「 Hey, boy☆ 」
片手を腰に当て、もう一方の手で白い箱を肩の上に抱え上げた目の前のそれが、なんともかわいらしいとぼけた表情で親しげに声をかけてきた。
「…………?」
一真はただ目を丸くするばかりだ。
隣の須賀も、ぽかん、と口を開けている。おそらく後ろに並ぶ川名たちも同じだろう。突然の出来事に、あれほどさっきまで続いていた笑い声がぴたっと止まっている。
「 Hi! 」
「……ハ、Hi ……」
腰に当てていた手をちょいちょい、とひらめかせて笑う相手に、一真も引きつった笑みを浮かべて挨拶を返した。
と、耳元で須賀がこそっとささやき訊いてくる。
「……カズ。知り合い?」
「はっ? し、知り合いのわけないじゃん。こんな……」
……こんな、スノーマン。
目の前に現れたのは、まっ白な体に黒い帽子をかぶり、おどけた表情をした雪男。この真夏の日射しにも溶けてしまわないのは、当然着ぐるみだから、だ。
「 Are you Kazuma? 」
「えっ?」
そのスノーマンの口から飛び出した自分の名前に、一真はただ驚いた声を上げる。
スノーマンはとぼけた笑顔のまま――着ぐるみだから表情が変わらない――、もう一度、今度はもっとゆっくり問いかけてきた。
「 Are you Kazuma? 」
「……イ、イエス」
「 si ……I got it! 」
おそらく喜んでいるのだろう。空いている一方の手でまんまるのおなかをぽーん、と一つ叩くと、肩の上に抱えていた白い箱をこちらへそっと差し出してきた。
「 Presents for you 」
一真はスノーマンにも負けないくらいに目を丸くしてその箱をじっと見つめた。
これはどうやら彼から自分への贈り物らしいが……そもそも、見ず知らずのスノーマンから贈り物をされるいわれはない。
受け取るのをためらい、不安げに目の前の相手を見上げると、
「 Happy Birthday ……遠藤」
スノーマンの下から、見慣れた柔らかな甘い笑顔が現れた。
「――――あ、綾井先輩っ?」