その夜、どうしてそんなに遅くまで起きていたのかは覚えていない。 眠れぬまま、ベッドに仰向けになって部屋の天井をただ見上げていた。 夜風が枕元のカーテンをそよそよと揺らし、その影が、海の底から見上げたように深い藍色の天井でちらちらと動いていた。 次の瞬間、さーっと青白い光が部屋中を映し出した。 思わず起き上がって窓の向こうを振り返ると、そこには雲ひとつない星空が広がっていた。 ほんの数時間前までは、あんなに激しい雨だったのに。 気づいたときには、部屋を飛び出していた。忍び足で廊下を歩き、家族みんなが寝静まった家を抜け出すのは、夜の大海原へ漕ぎ出す冒険の主人公になったようで胸が高鳴った。 真夜中の町は、まるで別世界。起きているのは自分と、等間隔に光を灯す街路灯だけ。だが、不思議と怖くはなかった。きっと、行くべき場所が心の中にはっきり見えていたから。 途中、立ち止まって見上げた西の空には、再び靄(もや)のように薄い雲がかかっていた。 もう何百回、いや何千回通っただろう。きっとこれからも何千回、何万回も通るだろうその道を、雲と追いかけっこしながらひたすらに駆けて、駆けて、目指したのはエンジュの木。その梢の向こうに見える窓へ、足下の小石をそっと投げつけた。 コツン。 一度投げては、息を潜めて待つ。 コツン。 …………。 コツン。 …………。 三度目で、窓が開いた。 ささやく声が、降ってきた。 「どうしたの? れんちゃん」 「暑ィ……」 「俺思うんだけどさ、みんな寒いときは寒い寒い寒いっ≠ト連呼するのに、暑いときは暑い暑い暑いっ≠ト言わないじゃん。なんでだろ」 「……しゃべるのも暑いからじゃねえ?」 「ふぅん、そっか。今の会話の中で俺たち何回暑い≠チて言ったかな」 「考えるだけで暑ィよ」 「あ、直也また暑い≠チて言った! ……あ、俺もまた言っちゃった」 梅雨の晴れ間となった週末、九条の街。 ゆらりアスファルトから立ち上る陽炎(かげろう)に、並ぶビル群がにじんで見える。 時刻はまもなく正午になるところ。 容赦なく降り注ぐ日差しの下、短い影を踏みしめ歩いていると、ジリジリと太陽がこの肌を焼く音が聞こえてきそうだ。 屋台で買ったばかりのかき氷が、瞬く間に溶けていく。カップの中の氷の山が崩れていく速さと競うように忙しなくスプーンを口に運びながら、龍太は隣を歩く友人の横顔を見上げた。 「な、見て見て、直也。俺のベロ青くなってる?」 「なってる、すげー色」 そう笑う直也の舌も、イチゴシロップの色素に染まって真っ赤だ。 「麻季(あさき)が一緒にレモン食べてたら、俺たち信号になれたね。惜しい」 「なれたところでうれしくねえな……」 すぐにしかめ面で返された予想通りのつぶやきに、くすりと笑う。と、 「ん、なに? 直也」 じっと隣から注ぐ視線に気づいて、龍太は眼鏡の奥の大きな瞳をきょとん、とさせた。 「龍太って、青好きだよな?」 「色のこと? うん、青大好きだよ。空の色だから」 「だよな」 「それがどうかした?」 「いや、べつに……」 「でも、黄色も好き。あ、早く食べないと直也の氷全部溶けちゃうよ!」 「ん、ああ……」 あわててスプーンを口に運ぶ直也。 その横で、龍太もだいぶ小さくなった青い氷の山をつつく。 「氷と言えばさ、今日の氷川(ひかわ)先生の現国、難しくなかった?」 「おう。俺、問5から先全滅……」 あまりにあわてて氷を口に入れたせいか、頭痛がしたらしい。眉間に手をやり、うめくようにつぶやく友をよそに、龍太はぱっと顔を輝かせた。 「ほんとに? やった、仲間だ!」 「仲間じゃねえ……」 「え? 仲間だよ。俺も問5から先が全然解けなかったもん」 「龍太の場合、全滅なのは現国だけじゃねえんだろ」 「う……」 あまりに図星で言い返す言葉もない。なんだか急に俺も頭痛がしてきたみたい、と額に手をやり、空を見上げた。まるでもう夏がやってきたような明るさ。視界の真ん中で、光る雲がもくもくと誇らしげに湧き起こっている。 「あーあ、このままテストなんか飛び越して早く夏休みになんないかなー。学校って、なんでテストなんかあるんだろ」 「ガキみたいなこと言ってんなよ」 「だって、せっかくの土日なのにさー」 勉強するより思い切り跳んでいたい、と。 右手にスプーン、左手に氷のカップを握ったままの両腕を、青い空へと勢いよく伸ばした。 とたん、腕を伝ってきた冷たい雫に思わず悲鳴を上げながら、 「月曜日って、化学あるんだっけ。な、今夜うちに泊まって一緒に勉強しない? 直也、化学得意だろ? 教えてよ」 誘ってみたが、よこされたのはつれない返事。 「悪ィ、今日はこれから約束があって」 「約束? テスト中なのに?」 「まあ、な……」 「ふぅん……」 「だいたい、明日の夜は……いや、俺なんかより恋次に教わればいいじゃねえか」 「恋ちゃんは生徒会の仕事があるっていうんだもん。球技大会の準備の準備するんだって」 「準備の準備? ……生徒会ってやっぱりめんどくせえんだな。あ、俺ちょっと本屋寄ってくけど」 「あ、俺も行く行く! ちょうど慶(けい)に頼まれてた絵本があったんだ。うちの近所の本屋さんになくってさ」 今はどこの学校も期末考査期間。涼しげで淡い色調の目立つ制服姿が行き交う通りを抜けて、駅ビルの中へ。入り口の自動ドアをくぐったとたんに、ひやりと冷気が全身を包み込む。 くしゃん、と同時にくしゃみをして、思わず二人、顔を見合わせた。 「やっぱかき氷は暑い外で食べるに限るね」 「だな」 目的の本屋はすぐそこ。だが、その入り口の前で、あ、と龍太は足を止めた。 「見て見て、直也。ほら!」 ほら、と指さした先に揺れる、色とりどりの七夕飾り。投網(とあみ)やスイカ、瓜、ナス、キュウリといった供え物を模した飾りに、五色(ごしき)の短冊が天井から注ぐライトの下で煌めいている。 この商業施設を訪れる人たちがよく待ち合わせに使う広場だ。今はそこに大きな笹と筆記台が飾られ、誰でも自由に願い事を書いた短冊を下げられるようになっていた。 迷わず龍太がそちらへ足を向けると、ついてくる直也がしかめ面。 「書くのか?」 「直也も書けば?」 「俺はいいよ。そんな短冊に書くような願い事なんてねえし……」 半分は本音かもしれない。でも、もう半分はきっと、揺れる短冊の中に覚えのある名前がいくつも混ざっていることに気づいたから。今の自分たちと同じように、九条生、特にクラスメイトたちに短冊を見られるのが気恥ずかしいのに違いない。 「なに笑ってんだよ、龍太」 「直也って、やっぱりシャイボーイ」 「そんなんじゃ……」 言い返す途中、直也が目を丸くして後の言葉を呑み込んだ。 「……なんだ、それ」 「何って、短冊」 「ここで書くんじゃねえのかよ」 「もう書いてきちゃった。毎年、俺んちでも七夕飾り作るから。でも、家の小さな笹じゃとても飾りきれなくて……よかった、ここにも笹があって」 「そんなに願い事あるのか?」 欲張りなやつ、と呆れ顔で直也がつぶやくのを横目に、龍太はカバンから取り出した短冊の束をせっせと笹の枝へと下げていく。 「願い事は一つだよ。でも、短冊一枚じゃ書ききれないんだ」 「あ?」 どういう意味だ、と直也が再び目を丸くする。 それへ、龍太はにっこりと笑ってみせた。 「だってさ……」 * * * 梅雨の晴れ間が続く翌日。 昼下がりの九条の街。 校内行事の準備のため買い物に訪れた駅ビルの一角で、思わぬ物に出会った。 「どうした? 梅田」 「あ、いえ、べつに……」 「お、そっか。明日は七夕だっけ。へー、けっこう豪華だな」 数歩先で振り返った栗原が楽しげにそちらへ足を向けるのを見て、恋次もそっと足を踏み出した。 平日にはスーツ姿と制服姿のあふれるこの街も、今日はいささか趣が違う。近くの会館ではアイドルグループのコンサートが催されるらしく、学校からここへ歩いてくる間にも、その特別な時間を心待ちにする様子の少年少女たちと次から次へとすれ違ったもの。 今も筆記台の前には、短冊に願い事を記そうと並ぶ若者たちの列までできている。 その人並が途切れた頃を見計らって、栗原と二人、盛大に飾られた笹の前に立った。数え切れないほどの願いを託された枝葉は、重いと不平を言うこともなく、ただただたおやかに空調の風に揺られている。 「せっかくだから、俺も書こう」 栗原が筆記台の上で短冊にさらさらと筆ペンを走らせる。 どんな願い事を書いたんですか? そう訊ねるつもりはなかったが、顔に出ていたのかもしれない。 ペンを置いた栗原が苦笑して短冊をこちらへ向ける。 「切実な願いだよ」 『期末で平均70点取れますように 有志(ゆうし)』 「……ですね。でも、栗原さんは要領がいいから大丈夫だと思いますよ」 くす、と恋次は微笑む。 「梅田は書かないのか?」 「はい」 「ああ、もう家で書いてるか。出版委員の1年から聞いたけど、なんか古くて由緒正しい家の跡取り息子なんだってな。由緒正しいっていうからには、昔からのこういう行事って、やっぱ大切にしてるんだろ?」 「いいえ」 穏やかに首を横に振れば、栗原が一度は笹へ伸ばした腕を止めて、え、と振り返る。 反対に、恋次はやはり穏やかなまなざしを揺れる七夕飾りへと向けた。 「星祭りは梅田の家でもやりますが、願い事は書きません」 「え、じゃあ、昔の七夕って、こんなふうに願い事書かなかったの?」 「いえ、そういうわけじゃなくて……ただ梅田の家のしきたりと相容れないだけです」 そう端的に話すと、相手は一瞬目をきょとん、とさせた後で、 「へえ、そうなんだ……」 ぽつり、つぶやいた。 改めて短冊を笹に下げるその様子を見守っていると、ふいに栗原が笑い出した。 「どうしたんですか?」 「ん……これ……」 これ、と栗原がつかんだのは、ほかの枝に下げられていた一枚の短冊。 いや、一枚ではなかった。 「これも……これもか……」 次から次へと揺れる短冊に手を伸ばしては、頬に浮かべた笑みを深くしていく。 やがて、 「欲のないおまえと正反対で、幼なじみはずいぶんとたくさんの願い事があるんだな」 ほら、と見せられた短冊に、恋次も苦笑する。 そう、笹を見つけた瞬間に、もしかしたら、と思ったが。 ……やっぱり。 緑色のインクでしたためられた願いの下に、龍太=Aと思った通り十三年来の幼なじみの名が記されていた。 「しっかし、梢(こずえ)姉ちゃんのあかちゃんが元気で生まれてきますように∞佐藤先生の愛猫タマが無事に見つかりますように∞豆腐屋のシンちゃんの腰が早く良くなりますように=c…って、全部他人のことだな、これ……」 「それが龍ちゃんの信念ですからね」 「信念?」 はい、とうなずきかけて、いや、と思い直す。もしかしたら、信念とは当たらないかもしれない。きっと、それは龍太の中からただ自然に生まれ出てきた想いなのだろう。 「龍ちゃんの願い事は、いつも周りの人間が笑顔になることなんですよ」 そう、龍太が願うのは、いつだって。 「それって、いかにも沖本らしいけど。でも、なにも一人一枚ずつ書かなくたって、みんなが幸せでありますように≠チて書けば済むことだよな」 「俺も子どもの頃にそう言ったことがあります。そうしたら……」 『だってさ、みんなっていっても一人ひとりちがうでしょ? 何がうれしくて、何がほしいのか、彦星様も織姫様もわからなくて困っちゃうかもしれないから』 「――って」 なるほどな、と栗原が苦笑顔でうなずいた。 「願う相手のことどころか、叶えてくれる相手のことまで考えちゃうんだ。おせっかいと言えばそれまでだけど……」 あの笑顔で言われたら何も反論できないんだろうな、とまた違う短冊へと手を伸ばす。 「緑のペンで書いてあるのには何か意味があるのか? 普通、短冊に書く文字って黒だよな」 「ああ、それはおまじないです」 「おまじない?」 「栗原さんは聞いたことありませんか? 緑色のインクのおまじない……」 あれはいつだったか、まだ小学校に上がって間もない頃だったと思う。 いつものように遊びにやってきた龍太が、チラシの紙を山ほど抱えていた。 『龍ちゃん、それなに?』 『あのね、れんちゃん! おれ、今日となりの家のこずえ姉ちゃんからすっごくいいこと聞いたんだ! 緑色のインクで紙に名前を書くと、その人がしあわせになるんだって。れんちゃんもいっしょに書こうよ。緑色って、おれクレヨンしかもってないけど、クレヨンでも平気かな?』 それから二人、縁側に並んで寝転びながら、思いつく限りの人物の名前をチラシの裏にクレヨンで書きつけたものだった。 家族、友達、親戚、先生、毎日顔を合わせる近所の人に、商店街の人たち……。 そうして栗原へと語って聞かせるうち、記憶の波に優しく洗われ、静かに眠っていたあの頃の自分たちが急に色鮮やかに思い出されてくる。 「へえ、そうやって今のあいつ……や、今の二人ができあがっていったわけか……わかる気がする。いいな、幼なじみって」 「……俺も、そう思います」 笹を見上げて穏やかに笑う栗原の横で、恋次は筆記台の上の短冊へと視線を落とす。 『どなたでもご自由に願い事をお書きください』 ……欲のない、か。 ほんの一瞬、迷った後で、一枚をそっと手に取った。 こちらの様子に気づくこともなく、栗原が先に歩き出す。 「それじゃ、俺たちも九条生の笑顔のために買い物に戻るとするか。な、 * 「あら、恋ちゃん。お帰りなさい」 「おう、恋ちゃん。土曜日なのに学校かい? さすが生徒会長さんてえのは忙しいんだな」 地下鉄に揺られて帰り着いた地元の町。 地上に出ると、待っていてくれたのは優しい夕空と温かい声だった。 慣れ親しんだ商店街を歩けば、右から左から呼ばれる己の名前。 ……そういえば、栗原さん、急に俺のこと恋次≠チて呼ぶようになったな。 後輩をあまり名前で呼ぶ人じゃなかったのに、と。 そんなことを頭の片隅でふと覚えつつ、八百屋の店主へと苦笑を向ける。 「会長じゃないですよ。俺、まだ1年ですから」 「あれ、そうかい? 生徒会に入ったって聞いたから、てっきり……んじゃ、次期・会長さんだ」 期待してるぜ、と働き者の温かい手に背中を優しく叩かれる。 「そうよ、なんたって恋ちゃんはこの商店街の花だもの」 にぎやかな笑い声に背を押されて、再び歩き出す。 途中の四つ辻を左に折れ、小路(こうじ)を少し歩いたところに見えるエンジュの木。青々として風にそよぐその葉陰で足を止め、まなざしを上げれば、梢の向こうに一つの窓がある。 「龍ちゃん、ちゃんと勉強してるかな……」 そっとつぶやいたそのとき、ふいに目の前の勝手口の戸が開いた。 「あら――」 恋ちゃん、と呼ばれる前に、恋次は己の唇にそっと人差し指を添える。 すぐに察した龍太の母が声をひそめて笑った。 「そうね、恋ちゃんがここにいるなんて知ったら、あの子テスト勉強そっちのけで飛び出してきちゃうわ」 「龍ちゃん、ちゃんと勉強してますか?」 「とりあえず、お昼ご飯を食べた後はずっと自分の部屋にいるわよ」 「おばさんはこれからお買い物ですか?」 「ええ、商店街まで」 「お気をつけて」 「ありがとう。恋ちゃんも気をつけて帰ってね」 「はい。あ……」 「どうしたの? 恋ちゃん」 「おばさんに一つ頼みたいことがあるんですけど……」 「恋ちゃんがわたしに頼み事?」 まあ、何かしら、と顔を喜々として輝かせる相手に、恋次はカバンから取り出したものをそっと差し出した。 「これを、龍ちゃんちの笹に下げてもらってもいいですか?」 「……もちろん」 一瞬の間の後で、龍太の母がいつになく穏やかな笑顔でうなずいた。 「やっぱり自分で下げるわけにはいかないのかしらね。そこの縁側の軒下に飾ってあるんだけど……」 「できれば龍ちゃんに内緒にしたいんです」 梅田のしきたり云々には触れずにそう理由を話せば、龍太の母にいつもの茶目っ気が戻る。 「わかったわ、任せておいて! っとと……」 トン、と誇らしげに自分の胸を拳で叩いて、あわてて声をひそめる龍太の母だ。 「それじゃ、よろしくお願いします」 頭を下げて歩き出すと、今度は反対に呼び止められた。 「恋ちゃん」 「はい?」 「……あの子を愛してくれてありがとう」 これまで、何度言われただろうか。初めこそ戸惑ったものだが、今では毎日交わす何気ない挨拶のようにそれは優しく耳になじんでいる。 恋次は微笑んでうなずいた。 「……こちらこそ」 と、そこに、 「あ、恋ちゃん!」 誰より聞き慣れた声が降ってくる。 見つかっちゃったわね、と龍太の母が苦笑顔で肩をすくめた。 「おかえり! 今日も暑いから喉乾いただろ? ちょっと待ってて、今、麦茶持ってってあげる!」 「いいよ、どうせ俺んちもすぐそこなんだから」 けれど、こちらの言葉が最後まで届く前に、二階の窓から見えていた頭はもう引っ込んでいた。 「あの子が出てくる前に、急いでこの短冊つけちゃうわね」 「お願いします」 庭へと駆けて行く龍太の母。その後ろ姿は、まるで楽しい悪戯(いたずら)をする少女のよう。 見守るエンジュの枝葉が夕風に吹かれてさらさらと揺れる。 ここからは見えないが、縁側に飾られた色とりどりの七夕飾りも、今、優しい葉擦れの音を奏でながら揺れているのだろう。 「おまたせ、恋ちゃん! ……あれ? 今、ここに母さんいなかったっけ?」 「おばさんなら買い物に行ったよ」 嘘ではない。庭へまわって笹に短冊を下げた後は、そのまま表の門から買い物へと出かけたはずだ。 「ふぅん? 恋ちゃん、母さんと何話してたの?」 「龍ちゃんはちゃんとテスト勉強してますかって」 「してたよ! 俺、お昼ご飯の後から今まで一歩も部屋の外に出てないもんね」 そう得意げに話す龍太の頬には、教科書を枕にしていた痕がくっきり残っていた。 思わず小さな笑みをこぼし、恋次は麦茶のコップを受け取る。 「何か困ってることないか? わからないところがあったら、教えてあげるよ」 「大丈夫。恋ちゃんは生徒会もやってて忙しいんだから、自分のテスト勉強くらい一人でできるよ」 「そう?」 「うん、それに今夜は……だもんね。昼間のうちにいっぱい勉強しとくから、恋ちゃんは心配しなくて大丈夫だよ」 任せといて、と胸を張る龍太に、わかった、と恋次は素直にうなずいてみせた。 「麦茶ありがとう。おいしかったよ」 「うん、それじゃね」 「龍ちゃん」 「んー?」 「今夜、晴れるといいな」 振り返った龍太が満開の笑顔でうなずいた。 「うん!」 涼しい夕風に吹かれながら見上げた空は茜空。 西から流れてくる雲はひとかけらさえない。 空は、どうやらこれから訪れる特別な時間を祝福してくれるらしい。 ……あのときも、こんな風が吹いてたような気がする。 梅雨と夏の入り交じったこんな季節の狭間には、いつも思い出す。 初めて一緒に七夕飾りを作った日、龍太が最初に短冊に書いた願いを。 れんちゃんがしあわせでありますように 幸せの意味もまだよくわからなかった幼い日、ただそれは何より人を笑顔にしてくれるものと聞いて、真っ先に願ってくれた。 龍太が願うのはいつでも、みんな≠カゃなくて、その人≠フ幸せ。 それがひいてはみんな≠フ幸せへとつながっていくのだと。 今になってわかった気がする。 世界が平和でありますように。 世界のみんなが笑顔でいられますように。 そんな普遍を願う心もいつだって、始まりは身近なところにいる誰かへの想いなのだ、と。 教えてくれたのは、ただあの日の龍太の願い。 人は決して一人で生かされているのではない、と。 茜空に一番星が輝き出す。 その煌めきに導かれるように歩いていると、ふいに着信を知らせる携帯電話の低い振動音が夕風の中に響いた。 「もしもし」 『恋次? 俺だけど』 「ああ、入倉。穂積(ほづみ)も一緒?」 『おう。これから二人で夕メシ食ってから、そっち向かうけど』 「夕飯ならうちで食べればいいさ。たいしたものは出せないけど」 『いいよ。恋次の家でなんて緊張するし、俺、そんな和食の作法なんて知らねえし……』 「……どこかの高級料亭と勘違いしてないか?」 『と、とにかく、メシのことは心配しなくていいから。それより……本当に俺たちも行っていいのか? 今までずっと二人だけで祝ってきたんだろ』 「いいんだ。入倉と穂積にもぜひ一緒に祝ってあげてほしい。テスト中に非常識だとは思うけど」 ……龍ちゃんにも、知ってほしいんだ。 『恋次がそう言うなら、俺たちはかまわねえけど』 「悪いな」 『別に悪かねえよ。ダチの誕生日を祝ってやりたいのは当然だろ』 「……ありがとう」 『ちょうどいいや、俺も穂積も友達んちでテスト勉強するって名目で出てきてんだ。龍太んとこ行くまで勉強教えてくれよな。じゃあ、8時頃そっちの駅に着くと思う』 「うん、わかった。迎えに行くよ。それじゃ」 龍太にも、知ってほしい。 高校に進学して新しい出会いに満ちたこの年だからこそ、龍太に感じてほしい。 龍太が周りの人間の幸せを願うように、周りの友人も龍太をちゃんと想っていることを。 人は、決して一人で生かされているのではないことを。 そこまで考えて、人知れず苦笑を噛んだ。 ……そんなこと、言われなくたって龍ちゃんは無意識に知ってるだろうけど。 そう、十年前のあの夜も――。 『どうしたの? れんちゃん』 『龍ちゃん、星がすごくきれいだよ』 『あ、ほんとだ! わあ……』 『明日はまた雨がふるみたいだから、どうしても今日龍ちゃんに見せてあげたくて……』 『あ、もう0時すぎてるから、今は7日の七夕だね。ありがとう、れんちゃん。おれ、こんなきれいな誕生日プレゼントもらったの、初めて! トクベツな夜になったよ』 十年前のあの夜、ただ美しい星空を龍太に見せたくて、夢中で家を抜け出して町を駆けた自分も、きっと同じ。 ただ、自分も龍太を想っていることを伝えたかっただけ。 この世界で自分たちが一緒に生きていることを感じたかっただけ。 ふと、思う。 織姫と彦星。 年にたった一度の二人の逢瀬を人が願うのも、同じなんだろうか。 そこに、大切な人を想う自分を重ねるからだろうか。 龍太が星に願うのは、いつも誰かのため。 ならば、代わりに自分が龍太のために願おう。 それならば、欲する−願う−なかれ≠ニ梅田の心を今に残してきた先人たちも許してくれるかもしれない。 たとえ、そう考えるのは都合が良すぎると叱られるとしても。 『今夜は……だもんね』 ……そう、今夜だけは。 7月7日まで、あと数時間。 龍太の16歳の誕生日まで、 トクベツな夜≠ワで、あと数時間。 月並みで平凡だけれど、心からの願い。 短冊に託したその願いが、どうかあの星々に届くといい。 ……これが、俺からのせめてものプレゼント。 |
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龍ちゃんが幸せでありますように 恋次 |
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End. |
HAPPY BIRTHDAY DEAR RYUTA !!
2014.07.07