心地よい温もりに誘われて、ついうたた寝をしていたらしい。肩先をよぎった寒気に身を起こすと、時計の針はいつのまにか二十分ほど進んでいた。
 この部屋も、今日から冬支度に入った。中央に置かれたミニ・テーブルはこたつ布団を重ねられ、気安く主の足を温めてくれる。
 昨日まではコートもいらないほどの暖かさが続いていたが、どうやら今夜はだいぶ冷え込んでいるようだ。レースのカーテン越しに見える藍色の景色が、昨日よりもよく澄んで見えた。
 恋次は立ち上がり、窓際に置かれたウッドデスクへと歩み寄る。手に取ったのは、卓上カレンダー。
「12月24日……クリスマス・イヴ、か……」
 つぶやいて、同じ机の上にあった携帯電話へとまなざしを滑らせる。
 ただそばにいてくれるのがうれしいから、と言われ、プレゼントもやったことがない。世間一般の恋人たちのようにこの夜を過ごしてみたいかと訊ねてみれば、昨日、彼女は言った。

『特別な日だから恋次くんに逢いたいんじゃない。恋次くんに逢えた日が、特別な日。だから、あたしには明日のイヴより今日が特別な一日だよ』

 その言葉に甘えて、今も彼女を一人にしている。
 気の置けない友人や、家族と楽しく過ごしているだろうとは思うけれど、自分の一言を待っているかもしれない、とも思う。文字、声、どちらで伝えるにしろ、たいした手間じゃない。そもそも、これを手間だと思うのなら、始めから彼女の気持ちを受け入れてはいない。
 卓上カレンダーを机の上に戻し、代わりに携帯電話を手に取った。着信履歴から彼女の名前を出そうとしたところ、それより先にケータイが唄い出した。彼女かもしれない、と思ったが、表示された名は彼女ではなかった。
「はい、もしもし」
『恋次? 俺、小田』
 同じ九条の生徒だが、友人と呼ぶには当たらない。相手は前・生徒会長の3年生だ。名乗る相手にうなずき返しながら、時計へと一瞥(いちべつ)くれる。時刻は午後9時半をまわっていた。
「どうしたんですか?」
 生徒会の仕事かと訊ねたが、そうではないらしい。もっとも、相手はすでに引退した身なのだから、当然だ。
『おまえ、今どこにいる?』
「部屋ですけど」
『じゃあ、ラジオ聞けるよな』
「ラジオ? はい」
『今すぐつけろ。セブンズ・ベイFM』
 小田に言われるまま、ラジオのチューナーを合わせる。ちょうどCMに変わったところだった。普段、ラジオをつけることはめったにない。この日のこの時間、どんな番組が放送されているのか、まるで知ってはいない。
『しっかり聞いとけよ。まあ、いやでも耳に入ってくるだろうけどさ』
「そんなにおもしろい番組なんですか?」
『俺は驚いた。だから、おまえも驚かせてやろうと思って』
「小田さんも今、家ですか?」
『車ん中。免許取れ立てで夜の海岸線走るの怖ェー……いッ』
 助手席に座る相手からつねられるか蹴られるかしたらしい。聞こえた小田の小さな悲鳴に、思わず恋次は笑みをこぼす。
「夏前から小田さんがやけに忙しくしてると思ったら、そのためでしたか」
『お、CM終わりそう。んじゃな、せいぜい、褒めてやれよ』
「は? 褒める? 誰を――」
 聞き返す途中で電話が切れた。小田の話はよくよく要領を得なかったが、ともかくラジオを聞いてみれば全てがはっきりするだろう。



     MAYBE TRUE



 CM明けのジングルが鳴る。
 と、なんともさわやかな男の声が聞こえてきた。

『はい、お待たせしました! では、皆さんからの反響が大きかったイヴ・イン・トーキョー≠ここでもう一度お届けします。いやあ、反響はあるだろうと思ってたけど、この短時間でまさかここまでとは、正直びっくりだよ、俺。始めからぜひもう一度って、要望がこんなに来るなんて』
『でも、あの場で一番感動してたのは、フレディだったよね?』
『それは否定しない』
『やっぱり』
『うん、だからこの反響にはびっくりしたけど、うれしい気持ちのほうが大きいかもしれない』
『ピュアな彼のイメージと、フレディさんの選曲がとてもぴったりで感動しました≠ニか、この東京に彼のようなピュアな男の子がいると思うと、じんわり心温まります≠ニか、ピュア≠ニいう言葉を使った感想が多いね。中にはこんなメールもあるよ。リュータくんのプロフィールを教えてください≠チて……』

 窓辺に立って外を眺めていた恋次は、そこで思わず部屋の隅にあるオーディオを振り返った。
「……リュータ=H」
 名前だけなら、あまりに聞き覚えがある。

『あはは、すごいな。でも残念ながら、彼は街中で本当に偶然出逢った少年だから、僕らも何も知らないんだ。それこそ――』
『フレディ、ストップ! その先は』
『おっと、失礼。調子に乗ってしゃべり過ぎるな≠チて、ディレクターさんの目が言ってる。それじゃ、俺がしゃべり過ぎる前にアリスンよろしく』
『OK、それでは、われらがフレディのナビゲートでお送りするイヴ・イン・トーキョー=Bそれは一人の少年の天然純粋なクリスマス・ストーリー…………』




 
そのとき、少年は一人の少女と手を取り合い、雑踏の中を駆けていた。


 流れてくるのは、さわやかな男の声で紡がれていく何気ない日常の一ページ。
 ざわざわと寄せては返す人波、さざめく街の音。
 ふと覚えのある構内アナウンスが聞こえたような、と思った刹那、軽やかな足音が雑踏の中に響く。
 ナビゲーターは語る。


 北欧、フィンランドはラップランド、サンタクロース村。大画面に映し出されたおとぎ話の風景、幸せの使者を前に、僕らの心は躍(おど)っていた。
 大の大人が、つかの間夢見る子どもの心を取り戻したように。
 けれど、取り戻すのではなく、思い出すのではなく、常にその愛らしい心を胸に抱えたまま人は歩むこともできるのだ、とは知らずにいた。
 そう、この声が聞こえるまでは。

『うわっ? わわっ、ごめんなさ―――い!』

 闖入者(ちんにゅうしゃ)は、手を繋ぎ合った少年と少女。
 本物のサンタクロースをひと目見ようと集まった人々の輪の中から、文字通り転がり出てきた。すぐさま大事な女の子を少年が気遣う様子は微笑ましくて、ずいぶんかわいいカップルが現場に紛れ込んできたものだ、とこのときの僕らは思っただけだった。
 そして、そう思った僕らは再び「大の大人」の顔に戻っていたのだと思う。
 おそらくはしゃぎ過ぎだとでも少女にたしなめられたのだろう少年は、けれど恥じらうことなく、悪びれることもなく、まっすぐに顔を上げた。大きくて澄んだ瞳をしていた。

『だって、サンタさんだよっ? 俺、本物のサンタさん見たの初めてだもん! はっ、そうだ、トナカイ! 真っ赤なお鼻のトナカイさんは?』

 そのとき、一瞬にして僕らは少年の世界に引き込まれた…………



「…………」
 恋次は再びこたつの前に腰を落ち着ける。テーブルの上に両肘をつき、組んだ両手の指にそっと顎を乗せ、ラジオから流れてくるクリスマスのある風景にじっと聴き入った。
 不思議な感覚だった。友人でも恩師でも親戚でもない。まったく見ず知らずの男の声が、自分の誰より身近な幼なじみの姿を語り描いている。
 人が彼と出逢って、その世界に魅了されていく様とはこういうものか。
 十三年来の幼なじみである自分は、物心ついたときにはすでに彼がそばにいて当たり前の日々。始まったときからその「当たり前」の中にいるから、彼と初めて出逢うその喜び、驚きをいまさら知ることはできない。
 自分の知らないそれを軽やかに楽しげに語る男へと、しだいに湧き起こるこれは、羨望。


 ……少年は右手で少女の手を握った。少年は、左手でもう一人の友人の手を握った。そこには誰もいなかった。
 でも、少年の左手が動いたとき、そのあまりに自然な仕草に、僕は確かにそこに「彼」がいるような錯覚を覚えた。

『メリー・クリスマス』

 少年の口が、そう動いた。
 少年は綺麗な黒髪に、大きな瞳、体格は小柄。おそらく実年齢よりは一見あどけない。右隣の少女は少年とほぼ同じ背丈で、やはり綺麗な黒髪が肩で揺れている。活発そうだ。
 さて、左隣にはどんな少年が並ぶのだろう。僕はつい、そんなことを考えていた。思い浮かんだ少年像はあるけれど、それは僕の想像でしかない。口にするのはやめておこう。

『君、名前は?』
『龍太――あっ、ごめん! 俺、すごくお仕事の邪魔しちゃった、かも』
『いや、すごく素敵な話が聞けて、僕たちはとてもうれしかったよ。クリスマス・イヴの今日、君のような少年に出逢えて、本当によかった』

 それは、僕の本心だった。
 少年の登場は台本にない。これまでのサンタクロースとのやりとりの中で少年が語った言葉、それは全て少年の言葉だ。誰のお仕着せでもない。だから僕も、僕の言葉を伝えたかった。そして同時に、少年に訊いてみたいことがあった。

『OK、リュータ。せっかくだから、初めて逢ったサンタクロースに何か訊きたいことは?』

 少年は一度きょとん、と僕を見返すと、すぐにその大きな瞳を輝かせて考え始めた。
 このとき少年の頭を、心を駆け巡ったものはなんだったのだろう。僕はわくわくしながら少年の言葉を待った。
 少年は目を閉じた。何かを思い出したように。思い出したその何かを、ゆっくりと愛(いつく)しむように。
 再び目を開けたとき、少年はなぜか、どこか心もとない表情をしているように僕には見えた。

『サンタさん……』

 そして少年の口から出てきた言葉は、僕の想像をはるかに超えていた。

『あなたは幸せですか?』


 サンタクロースがこの問いに何を返したのか、僕は知らない。僕の五感は全て少年に注がれていたからだ。
 数秒後、少年が安心したように、それはうれしそうに笑うのを見て、なぜだか僕は泣きたくなった。唐突に、僕は自分が愛されていることを知った。

 誰に?
 家族に?
 恋人に?
 友人に?
 サンタクロースに?

 ……いや、世界に。


 リュータ、この街のどこかにいる君へ、心からこの言葉を贈ろう。

 MERRY CHRISTMAS.

 君に逢ったこの日、今なら心からそう願える気がする。
 世界が平和でありますように。
 皆が心安らかに眠りにつき、心朗らかに目を覚ます一日でありますように。
 そんな日常が、どうか永久(とこしえ)でありますように。

 MERRY CHRISTMAS――





 ナビゲーターの声が余韻を残して消え行くと同時に、それまで川のせせらぎのように静かに流れていた音楽が少しずつ大きくなる。男の声に神経を向けていたからか、その音楽がいつから鳴っていたのか、まったく気づかなかった。
 曲名もわからない。英詞だから、何を歌っているのかもはっきりとは聞き取れない。クリスマス・ソングではないようだった。
 クリスマス・イヴという日のために選ばれた曲じゃない。
 これはクリスマス・イヴというこの日に出逢った少年のために選ばれた曲だ。
「…………」
 曲の途中だったが、ラジオを消す。
 軽やかな足音が廊下から聞こえてくる。ひとつ深く息を吐いている間に、足音はこの部屋の前で止まった。
「恋ちゃん、いい?」
「どうぞ、龍ちゃん」
 テーブルに肘をつき、変わらぬ姿勢のまま応える。
 開いたドアから顔をのぞかせた幼なじみは「あ、こたつ出てる」と無邪気に喜んだ。角を挟んで直角に向かい合って座ると、遠慮なくこたつの中へ足を伸ばす。風呂上りらしい。乾かしたばかりの髪からシャンプーの香りがした。
「風邪ひくぞ」
「大丈夫、ちゃんと乾かしてきたから」
「慶太、喜んでた?」
「うん! 大喜びでケーキ二切れ食べてたよ。風呂ん中でも大はしゃぎだったし」
「サンタクロースには何をお願いしたんだろうな」
「さあ? それは父さんの役目だから」
 笑顔で肩をすくめた龍太が、そこでおもむろにメガネの奥の大きな瞳を輝かせる。
「なあ、恋ちゃん?」
「ん?」
「今日さ、俺さ……なんと、サンタさんに会ったんだよ!」
 まるで、この世の幸福を独り占めしたような笑顔。こたつの上に身を乗り出すそんな相手を、恋次は穏やかな微笑で見返した。
 あれ、と龍太が首をかしげる。
「恋ちゃん、びっくりしてない……本物のサンタさんだよ。サンタさんとしゃべったんだよ、俺!」
「うん、ごめん。もう教えてもらった」
「誰に? あ、麻季か!」
「いや……フレディ」
 ナビゲーター役の男は、確かそう呼ばれていたと思う。
 すると、龍太が目をまん丸にした。
「恋ちゃん、フレディさんと知り合いっ?」
「……残念ながら、俺の知り合いに英名を持ったやつはいないよ」
 思わずこみ上げた笑いに肩を揺らしていると、龍太はまだ不思議そうな顔をしている。
 事のあらましを語って聞かせれば、ようやく小さくうなずいた。かと思うと、今度はくやしげに唇を尖らせる。
「ちぇっ、恋ちゃんのことびっくりさせようと思ったのに、残念! 俺のほうがびっくりしちゃった」
「ラジオ聞いたときは俺だってびっくりしたよ」
「それはラジオに俺のことが出てきたからびっくりしたんだろ? 俺が恋ちゃんを驚かせたかったことは違うもん」

 そうだ、龍太にとっては「本物」といわれるサンタクロースをその目で見て、言葉と想いを交わし合ったことが驚きであり、この上ない喜びなのだ。そのときの自分を他人がどう評価するかなんてことには、興味がない。
 試しに訊ねてみれば、龍太自身は番組の放送について何も知らないらしい。もちろんラジオも聞いていないという。さながらイヴのトーキョーに舞い降りた天使のように自分が描写されていたことを知ったら、どんな顔をするだろう。

「恋ちゃん」
 龍太は呼び声と同じく穏やかな表情をしていた。
「俺さ、今日サンタさんに訊いてみたんだ。あなたは幸せですか?≠チて」
 知っている。そのときの龍太の声もしっかりと耳にしている。あの男――フレディの感嘆の声とともに。
 だが、あえて何も言わずに今は龍太自身が発する声に耳を傾けた。
「だって、世界中の子どもたちに幸せを配ったら、もしかしたらサンタさんの幸せ、空っぽになっちゃうんじゃないかと思って…………でもさ、サンタさん、俺の問いかけにちっとも迷わないで、うなずいてた」
 恋次は静かに龍太の顔を見つめる。
 フレディが言っていた、見ていると泣きたくなる笑顔を、今、自分も見ているのだろうか。
「それからさ、サンタさんが言ってたんだ。前に同じことを訊かれたことがあるって」
「……え?」
 思わず聞き返した。
「ちょうどこのとき、マイクの調子が悪いとかでスタッフさんがバタバタしてて、通訳さんが直接俺のとこに来て、俺と麻季だけに話してくれたんだけどね……」
 フレディも知らない、もちろんラジオでも語られることのなかった「その先」の話を、龍太が語る。


『数年前、私に同じことを訊いた少年がいたよ。彼も日本人だった。私はうれしかった。ああ、日本には優しい子がいるって。
 日本だけじゃない、世界中にたくさんのすばらしい子どもたちがいる。そんな子どもたちが喜んでくれたら、笑ってくれたら、配り届けたよりもたくさんの幸せを私は子どもたちから与えてもらえるんだ。
 きっと、サンタクロースは世界で一番の幸せ者さ』



「サンタさんは、そう言ってた」
「……うれしそうだな、龍ちゃん」
「そりゃ、そうだよ。サンタさんからもらうだけじゃないんだって、わかったんだもん」
 少し風が出てきたらしい。窓ガラスがカタカタと鳴った。
「今夜はよく晴れてるから、明日の朝は寒そうだな」
「恋ちゃん、明日学校?」
「うん、10時から来年の打ち合わせ」
「あ、俺も10時に学校で約束してるから、一緒に行こう!」
「約束? ……ああ、入倉たちと」
 そう、と満面の笑みで龍太がうなずく。
 今日交換し合ったプレゼントを明日、互いに持ち寄って見せ合うらしい。穂積へのプレゼント選びには、龍太の妹である実月(みつき)とともに一日つき合わせられたものだった。
「麻季、喜んでくれるかな……」
 テーブルに両手で頬杖をついて、ぽつり龍太がつぶやく。
「龍ちゃんには入倉からだっけ? あいつ、何を選んだんだろうな」
「物はなんでもうれしいよ。その時間、俺のこと考えて、探して、選んでくれたんだもん」
 それだけでうれしい、と瞳を細める幼なじみへ、恋次も穏やかに微笑んだ。
「穂積だって、同じだよ」
「……あ、そっか……そうかな……そうだといいな」
 笑顔でうなずく龍太を前に、ああ、そうか、と恋次もまたうなずいた。フレディが語っていたように、唐突に気づかされたことがある。

 この家には赤々と燃える暖炉はもちろん、煙突もない。クリスマスツリーを飾ったこともなければ、家族でクリスマスケーキを囲んだこともない。それこそ、サンタクロースからのプレゼントなど一度ももらったことはない。
 12月24日は、自分にとって365分の1の日常でしかなかった。
 けれど、世界中の子どもたちに幸せを配ることがサンタクロースの役目なら、自分も確かにその恩恵に浴(よく)していたのだ。

『この街のどこかにいる君へ……』

 先程ラジオから流れていた声が、今また耳の奥で蘇る。
 龍太は今、ここにいる。
 自分の目の前に。
 そして――

「龍ちゃんと一緒に登校するの久しぶりだな」
「あ、そうだね」
 普段、家から学校までの道のりはまったく別々だ。
「電車の中で何しよっか」
 まるで遠足にでも出かけるような龍太の口ぶりに、思わず小さく吹き出した。
「……龍ちゃん」
「なに? 恋ちゃん」
「いや………………なんでもない」



 ――そして、明日。
 12月25日(クリスマス)の朝、
 いつもの笑顔の君に逢えたなら、
 きっと、それがサンタクロースからの贈り物だったと信じて疑わないだろう。




END.

A MERRY CHRISTMAS TO YOU !




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