街路灯の下、吐く息が白い。凍りついたその結晶が、あの夜空まで届かないことが残念だ。
 立ち止まって星の瞬く夜空を見上げていると、そっと誰かに後ろからジャケットの袖を引かれた。
「一真くん、メリー・クリスマス」
「それ、今日何回目?」
「一真くんに言うのは初めてだよ」
 そんなこと訊くなんて一真くんのいじわる、と口を尖らせる目の前の女の子へ、ごめん、と素直に謝った。
「メリー・クリスマス、美冬(みと)ちゃん」



     MAYBE TRUE



 ご機嫌の直った彼女と並んで歩き出す。左の袖はまだ美冬の細い指につかまれたままだ。それを見下ろし、一真は微笑んだ。
「美冬ちゃん、上手くなったよね」
「え、ほんと?」
「うん、今日の『ジングル・ベル』すごくよかった」
「へへー、去年の一真くんの『ジングル・ベル』がすごく綺麗だったから。あんなふうに弾きたくて練習したんだ」
 奏でるピアノの音色と同じように、美冬の言葉は正直だ。好感が持てるし、微笑ましい。
「綺麗、だったかな」
「うん! キラキラしてた。本当にベルが鳴ってるみたいで。一真くんのピアノ聴いてると、いつもあたしも早くこの曲弾けるようになりたい≠チて思うんだ。一真くんはあたしの目標なの」
 にこ、と笑顔で美冬が見上げてくる。

 毎年、12月24日には先生が自宅にレッスン生を集めてクリスマス・パーティーを開いてくれる。そこでクリスマス・ソングを奏する役目が一人ずつ回ってくるのだ。
 去年が一真の番だった。曲目は特に指定されない。先生と相談して決める子もあるが、一真は自ら選曲した。それが、『ジングル・ベル』。数あるクリスマス・ソングの中でももっともポピュラーで、心弾む旋律だ。
 パーティーのために、誰かのためにと思って弾いたつもりはない。自分が弾いていて心地いいから弾く。けれど、その音を聞いて同じように心地よくなってくれる人がいるというのは、とても幸せなことかもしれない。年下のレッスン生が「目標だ」と言ってくれることも、励みになる。

「そういえば、一真くんは何もらった? プレゼント」
「あ、まだ開けてないや」
 トートバッグから取り出したのは、赤と緑、クリスマス・カラーのリボンの掛けられた包み。パーティーの最後に行われたプレゼント交換で引き当てたもの。プレゼントはレッスン生全員の持ち込みだ。
 こちらの手元を見つめる美冬が、なぜだか残念そうな顔をしているように見えた。
「もしかして、美冬ちゃん、これ欲しかった?」
「え? な、なんで?」
「なんか残念そうな顔してるから」
「えっ、いや、べつにこの顔はそういう理由じゃなくて!」
「……そう?」
「うん、そう!」
 美冬の言う「理由」とやらがよくわからなかった。けれど、やたらと大きくうなずく彼女が「それ以上は聞いてくれるな」と言っているようで、深く追求するのはやめておくことにした。
 包み紙を開くと、顔を出したのは手袋だった。もらう相手が男女どちらでもいいように、色は淡いグレー。甲の部分に白と水色で雪の結晶の柄が編み込まれている。
「俺、手袋だったよ。美冬ちゃんは?」
「あたしはマフラー」
「あ」
「あ」
 思わず歩く足が止まる。
 互いの目に映るのは同じ色、同じ柄。
「……一真くん、これってお揃い、かな」
「うん、たぶん。西村ブラザーズが持ってきたやつじゃないかな。いつもプレゼントはお母さんに用意してもらってるって言ってたから」
「あ、そっか」
 つい先程まで残念そうな顔をしていた美冬が、今は顔中に喜びの笑みを咲かせている。ちょうどマフラーが欲しかったのかもしれない。そこで一真は自分の手の中にあるものを見下ろした。
「これ、美冬ちゃんにあげるよ」
「え、どうして?」
「せっかく手袋がここにあるんだし、どうせならお揃いで着けたほうがかわいいんじゃないかと思って」
 はい、と笑顔で手袋を差し出したが、美冬が受け取ろうとする様子はない。じっとこちらの顔を見上げていたかと思うと、ふっと視線を斜め下へ落とした。
「一人でお揃いつけてもうれしくないし……」
 美冬がつぶやく。
 一真はきょとん、と手袋と美冬のマフラーを見比べた。彼女が急におもしろくない顔をする理由がわからない。
「え、と……ごめん」
 右手の指先で前髪を引っかきながら、苦笑する。
「俺、女の子のおしゃれとか、よくわからなくて」
「へ?」
 今度は美冬の目がきょとん、となった。
 一真は苦笑顔のまま続ける。
「かすみちゃんは好きな柄とか色とか、よく集めてるんだけど。女の子がみんなそういうわけじゃないもんな」
「…………」
「そういえば、美冬ちゃんって、手袋はいつもシンプルなの使ってるっけ」
「…………」
「……美冬ちゃん?」
 あ然とした表情の彼女を、小首を傾げて見返す。
 と、唐突に美冬が笑い出した。
「あははっ、そっか! そうだよね」
 くるくると表情の変わる美冬を前に、一真はただ目を丸くした。
 美冬は笑顔でしきりにうなずいているが、それは何に対する納得なのか、さっぱりわからない。それでも目の前の相手に笑顔が戻っただけよしとしよう。手袋はいらないようだから、自分がこのままもらっておけばいい。
 一真はそう納得して、再び歩き出した。

 12月の東京は晩秋から初冬への移行期間だろうか。つい昨日まではコートもいらないくらいの暖かさが続いていたが、今日の夕暮れの澄んだ空気は冷たく冴えている。
 隣を歩く少女は、名前に冬を抱いている。
「美冬ちゃんの季節が始まるね」
「……一真くんは、冬って好き?」
「好きだよ。これから冬が始まるなあっていう、今くらいが一番好きかな」
「…………」
 左腕に美冬の腕が絡みついた。
「どうしたの?」
「いつもの場所まで、こうして歩いていい?」
「寒い?」
「うん、寒い」
「じゃあ、急いで帰ろう」
「ううん、急がなくていい」
「でも、寒いんでしょ?」
「一真くんとこうしてれば寒くない」
「え、と……わかった」
「うん」

 その数分間、美冬は黙っていた。
 けれど、その横顔はどこか満足げに夜空の星を見つめていた。
 別れ道の十字路で、どちらからともなく足を止める。

「次に美冬ちゃんと会うのは、来年だね」
 年内のレッスンは先週で終わっている。ほかのレッスン生とこうして顔を合わせるのも、今年はこの日が最後だ。しばらく美冬とこうして並んで歩くこともないと思うと、名残惜しい気もした。こんな妹がいたらかわいいだろうな、と美冬を見るたびいつも思う。
「来年のいつ?」
「え?」
「一真くん、来年は受験でしょ? 次にレッスンに来るのはいつ?」
「あ、そうだね……」
 一ヵ月後の今頃は受験シーズン真っ只中だ。気分転換にピアノに触れることはあっても、のんびり練習している時間はないだろう。
「え、と……早くて一月の終わり。一般も受けるとなれば、二月の終わりかな」
「入る高校決まったら、教えてね」
「うん」
「あたしも一真くんと同じ高校に行くんだ」
「それはどうかな……」
「え、だ、ダメ?」
「俺、男子校しか受けないから」
「え、嘘!」
「――なんて、冗談だよ。それの反対」
「反対ってことは、やっぱり男子校……」
「や、そうじゃなくて……」
 都立の共学しか受けるつもりはないから、と言ってやれば、美冬は心底ほっとしたようだった。
「なんだ、よかった……一瞬、よけいな心配までしちゃった……」
「よけいな心配=H」
「ううん、なんでもない!」
 えへら、と見るからに愛想笑いを浮かべて、美冬がするりとこの腕から離れた。
「一真くんならきっと大丈夫だよ。がんばってね」
「ありがと。暗いから気をつけて帰りなよ」
「うん。またね!」
 美冬が家路へと駆けていく。その背中が見えなくなるまで見送った。

 路地を歩けば、クリスマスに彩られた街の音は遠い。嘘のように静かだ。だが、それは耳にであって、目には充分すぎるほどに賑やかな景色が程なく映る。
「あ、佐藤さんち、今年はトナカイがいる」
 玄関先に置かれたツリーはもちろん、ベランダから屋根から電飾に覆われた家。いったいどれくらい電気代がかかるんだろう、なんて無粋な考えは、今夜だけは頭の中から締め出しておこう。宵闇にあふれる光を眺めていると、まるで自分がフェアリーテイルの一幕に立っているような、そんな夢心地にさせてくれるから。
 冷たく吹き付ける風の中、パーティーで美冬が奏でていた『ジングル・ベル』を小さく口ずさみながら歩いた。



 帰りついた家の窓から、暖色の灯りがもれている。先生の家を出たのが5時半過ぎだったから、今はもう6時をまわっているだろうか。
「かすみちゃん、帰ってるかな」
 ケーキとチキンを買って待ってるから、と今朝の姉は言っていた。
「ただいま」
「おかえり、カズ」
 玄関のドアを開ければ、明るい声が返ってくる。姉の声ではなかった。でも、よく知っている声だ。スニーカーを脱ぐ途中でリビングへと顔を向けた。
「ノリちゃん?」
「お母さんがアップルパイを焼いたから、お届けついでにお邪魔しちゃった」
 笑顔で肩をすくめるのは、同じ町内に暮らす二歳上の従姉(いとこ)、範美(のりみ)。相変わらず栗色の髪がふわふわと揺れてかわいい。
「全然お邪魔じゃないよ。高校に入ってからずっとノリちゃん忙しそうだったし……会えてうれしい」
 ゆっくりしてってよ、と歓迎の言葉をかけたところで、キッチンから姉の香澄(かすみ)が顔を出した。
「カズ帰ってきた? あ、おかえり。もう準備できてるからね」
「うん、ただいま。すぐ降りてくるよ」
 手洗いうがいを済ませ、二階の自分の部屋に荷物を置いてからリビングへ。
 ガラステーブルの上には熱々のチキン、ラザニア、サンドイッチ、マッシュポテト、サラダにフルーツの盛り合わせ、シャンパン用のグラスが所狭しと並べられている。
「おいしそう」
「ケーキが最後に待ってるからね。食べ過ぎないでよ」
「このラザニア、母さんの手作り? 心配しなくても全部食べられるよ」
 そのためにパーティーでも軽くつまむ程度にしておいた。おかげで美冬には毎年のように「一真くんって小食だよね」と言われているが、実際はそうじゃない。
「おばさんは、ほんと料理が上手だもんね」
 範美も隣で目を細めている。
「あ、かすみちゃん。ケーキはちゃんとブッシュ・ド・ノエルにしてくれた?」
「それは見てからのお楽しみ」
 シャンパン片手の香澄に続いて、母がやってくる。これで全員。四人でテーブルを囲めば、早くも笑顔がこぼれてくる。
 グラスの中で、姉が注いでくれたシャンパンが煌(きら)めいて弾けている。
「俺はノリちゃんもいてうれしいけど、ノリちゃんちはいいの?」
「いいの、いいの。今頃、二人で恋人同士みたいに乾杯してるんだから」
「へー、相変わらず仲良しだね。母さん、うらやましいんじゃない?」
「さっき、お父さんから電話があったもの」
「え、父さんから? こんな開演直前に?」
 壁の時計を一度振り返り、それから母の顔を再び見やった。うなずく母はうれしそうだ。

 父は出張中。職業柄、この時期は毎年のように地方へ出ている。家族全員でクリスマスケーキを囲んだ日を思い出そうとすれば、あれがいつだったのか、確かなことがすぐにはわからない。
 それでも、毎年イヴの夜にはサンタクロースはやってきた。25日の朝、目覚めればちゃんとプレゼントが枕元の靴下に入っていた。だから、サンタクロースの存在を信じて疑わなかった。トナカイのそりで自由に夜空を駆け回れるサンタさんなら、煙突のない家の子どもにプレゼントを渡すことだって簡単にできると、幼いながらに一生懸命考えていた。11歳まで本気でそれを信じていたなんて、今では恥ずかしくて友人には言えないけれど。幸せな子どもだったと、思う。
 それに今宵の父は、ほかの世界中の父親たちと同じなのだ。サンタクロースになるのだ。プレゼントの届け先は愛息子・愛娘ではなく、不特定多数の人々だけれど。そんな人々にまちがいなく幸せな時間を贈る男のことを、息子として誇りに思う。

「……公演が都内だったら、俺も観に行くのにな」
 そうつぶやいた息子を、母はただ微笑んで見ていた。
 何を言われても照れくさいから、何も言われないことにほっとする。今はただ、自分がそうつぶやいたことだけをちゃんと知っていてくれれば、それでいい。
 サンタクロースの息子がサンタクロースになるのかどうかは、今も、数年後もわからないけれど。
「ねえ、カズ?」
 隣の範美が意味ありげな顔で訊ねてきた。
「うちの高校、受けるんだよね」
「うん、受けるよ」
「うちしか受けないって聞いたけど、本当?」
「うん、本当」
 受験しようと考えているのは、範美も通っている地元の都立高。その一校きりしか考えていない。
「1月の自己推薦と、ダメだったら2月の一般と、二回」
 でも、ほかの高校は受けない。
 そうはっきり言えば、向かい合う香澄が小さく苦笑した。
「まあ、カズの成績なら九条は大丈夫だと思うけど、たいていは滑り止めも一校くらい受けとくよね?」
「だって、俺、どうしても九条に行きたいから」
 グラスの中で弾けて踊る泡を、じっと見つめる。

 どうしても。
 いや、九条でなくちゃ、ダメなんだ。

 ふと顔を上げると、範美の穏やかなまなざしがあった。
「待ってるよ。カズがまたあたしたちの後輩になる日を、ね」
 あたしたち。
 その言葉が、耳にひどく甘く優しかった。
 自分を待ってくれているのは、範美一人じゃない。
「……待ってて、ノリちゃん。きっと合格するから」
 それから――
 声には出さず、一人の名前を心で呼ぶ。

 待っててください、綾井先輩。

「それじゃ、メリー・クリスマス!」
 グラスとグラスが触れ合って、優しく響きあう。
 キャンドルを映して揺れるシャンパンは甘い。ノン・アルコールのはずなのに、窓辺で輝くツリーを眺めていると酔っ払いそうな気分になる。
 こんな夜なら、願いも星に届くかもしれない。

 待っててほしい、と言った。
 けれど、今の自分はサンタクロースを心待ちにする幼い子どもに戻ったよう。待っているのは、自分のほうだ。

 明日の朝には会えなくても、数ヵ月後に訪れる春の日にはきっと会えますように――。


 飲み下したシャンパンが、体の中で弾けて歌っている。




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MAYBE TRUE 5/5



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