鳴り渡るチャイムの音が二学期の終了を告げる。
 それぞれに配られた白い冊子――その名も通知表――に並ぶ数字に一喜一憂する時間もこれで終わりとばかりに、教室を飛び出していくのは笑顔、笑顔、また笑顔。
 終わりを告げるとは同時に、始まりを告げること。
 弾んだ面持ちで廊下を歩む彼らの心はすでに制服を脱ぎ捨てているに違いない。つかの間の休息は、それこそあっという間に過ぎてしまうから。

「龍太、メリクリ!」
「またねー、よいお年を!」
 クラスメイトたちを笑顔で見送った龍太は一人、まだ席に着いていた。両手で頬杖をついて見下ろすのは、机に置かれたひとつの包み。
 深い海を思わせる青に星の光を思わせる銀色。
 ギフト用に丁寧にラッピングされたそれは、まだ開かれていない。
「そんなに見つめてっと、そのうちプレゼントが逃げ出すぞ」
 冗談混じりにやってきたのは、直也。左肩にはカバンを掛け、首にはストライプ柄のマフラーを巻いて、しっかり帰り支度を済ませた格好だ。いつも不機嫌そうなしかめ面がお決まりの相手だが、こんな日にはその顔も心なしか弾んで見える。
「直也、これ開けちゃダメ?」
「ダーメ!」
 高い声と一緒に穂積の明るい笑顔が直也の肩越しからぴょこん、と飛び出す。
「ちゃんと三人で約束したでしょ。プレゼントを開けるのは明日! 25日の朝!」
「うん……」

 そう、それは一週間前からの約束。
 ちょうどクリスマス・イヴにあたる終業式の日、三人でプレゼントを交換しよう。でも、包みを開くのは25日の朝になってから。だって、世界中の子どもたちがサンタさんからのクリスマスプレゼントを開けるのは25日の朝と決まっているから。

 言い出したのは龍太自身だった。けれど、実際にこうして目の前にプレゼントが置かれていると、翌朝までの時間がたまらなく長く感じる。なんせ、きゅう、と腹の虫が鳴いて知らせてくれる時刻は、まだ24日の昼だ。
「まるでエサのあおずけをくってる仔犬みたいだな」
 こちらの顔を見下ろして、直也がおかしそうに目を細めている。その目で黒板の上の時計を一度振り返ったかと思うと、おもむろに左肩のカバンを掛け直した。
 その中にも、プレゼントがひとつ。
「んじゃ、俺もそろそろ行く」
「うん、また明日!」
「入倉、寝坊しないでよ」
「しねえよ、どうせ明日部活だし」
 じゃあな、と直也の後ろ姿がたちまち教室から見えなくなった。歩く足取りも心なしか昨日までよりも軽かったように思える。
 ぽつり、龍太はつぶやいた。
「風邪、ひかないといいけど」
「え?」
「直也。今日は向こうの友達と海に集まるんだってさ」
「へえ、楽しそう」
「うん、楽しそう……」
 うなずいて、龍太は目の前に立つ相手を見上げた。
「麻季は? ユカちゃんたちと約束ないの?」
「5時半からね。4時に帰れば充分間に合うよ」
「じゃ、それまで一緒しよ」
「そのつもり」
 笑顔でうなずく穂積の腕の中にも、プレゼントがひとつ。



     MAYBE TRUE



 九条生御用達のファーストフード店で昼食を済ませて通りに出ると、陽はすでに傾いていた。まだ午後2時をまわったばかりだというのに、波長の長い太陽光線には夕方の色彩を感じる。
 街はさすがに賑わっていた。店々の入り口にはリースやツリーが飾られ、クリスマスソングが人波とともに通りを流れていく。電飾の輝きだす宵ともなれば、また違った顔の賑わいを見せるはずだ。
 そういえば、と龍太は西の空を肩越しに見やった。
 涼星学園はミッションスクールだ。となれば、きっと学園内には華やかな、それでいて厳かな装飾が今夜、煌(きら)めいているのだろう。相手は敷居の高い名門校とはいえ、せっかく毎日目と鼻の先に向かい合っているのだから、一度くらいはあの瀟洒(しょうしゃ)な校門のうちへと足を踏み入れてみたいものだ。
 そんなことを考えながら鼻歌混じりに歩いていた龍太は、ひとつの店の前で足を止めた。ショーウィンドウに三段重ねのケーキが飾られている。真っ白な生クリームに真っ赤なイチゴが敷き詰められて、見るからに甘酸っぱそうだ。
 そして、赤と白。この二色をまとうそのケーキは、世界中の子どもたちに幸せを運ぶあの人に似ている。
「こんなケーキ、慶が見たら大興奮だなー」
「龍太んちは家でクリスマスするの?」
「するよ。じゃなきゃ、慶がかわいそうじゃん。毎年、ケーキ買うのが俺の当番なんだ」
 幼い弟、慶太のためのケーキはすでに近所のケーキ屋に予約をしてある。帰りがてら、取りに行くつもり。今からきっと弟はケーキを待ちわびていることだろう。箱を開けてみせた瞬間の喜ぶ顔が目に浮かぶ。自然、頬が緩んだ。
「麻季んとこは? しないの?」
「うん、しなーい」
「健一は? ケーキとかチキンとか食べたがらない?」
「あいつ、ガールフレンドのおうちに呼ばれてるんだもん。せっかくのクリスマスなんだから姉貴は邪魔しないで≠ニか言って、まだ5年生のくせにちょー生意気! あのマセガキめ……」
 穂積が口を尖らせる横で、龍太はショーウィンドウに映る人波を眺めた。
「ガールフレンドかあ……慶もそのうちそんなこと言い出すのかな。りゅーたは邪魔しないでって……う、さびしい……」
「慶太くんはまだ5歳でしょ? 当分先のことだよ」
「うん……」
 当分先の話ではあるだろうが、想像したら本当に涙腺が緩んできた。忙しい母親に代わって幼い弟の面倒を見てきたのだから、かわいくて仕方ないのも当然で。
 親が子離れするときの気持ちもこういうものなんだろうか、とウィンドウの向こうからこちらを見返す情けない顔を見つめた。
「……行こっか」
 この明るい街角で、ため息なんて似合わない。どちらからともなく笑みをこぼし、再び歩き出す。

 途中、おいしそうな匂いにつられてワゴンのクレープをひとつ買った。熱々のチョコカスタードだ。さっそく頬張ろうとすると、すぐ隣で迷うらしい様子が目に入る。
「麻季は? 買わないの?」
「うーん……どうしよ……」
 買うか買うまいか揺れていた穂積は、三十秒後に結局は遠慮した。後で友達とクリスマスケーキを食べることを気にするらしい。
 龍太はそっと差し出す。
「はい、ひと口あげる。お先にどうぞ」
「いいの?」
「うん」
「ありがと!」
 ぱく、とうれしそうにクレープを頬張る彼女に、龍太は笑う。
「そんなに食べたいなら、買えばいいのに。俺がおごってあげよっか? 他人から買ってもらえば、罪悪感なく食べようって気になるだろ」
「ダメダメ、これ以上は危険! 甘やかすようなこと言わないでよ」
「やせがまん〜」
「いいの!」
 ふと、視線を感じた。後ろに並んでいた女子大生たちが、いかにも微笑ましいといった表情でこちらを見ている。
「かわいいカップルー」
「地元の高校生かな」
「中学生じゃない?」
 生地の端からこぼれ落ちそうなクリームをぺろ、と舐めて、龍太は歩き出した。もぐもぐとクレープを頬張りながら、人ごみを縫うようにして通りを進む。
「な、さっきの聞こえた?」
「うん、聞こえた」
 オープンカフェのゴミ箱へと包み紙を捨てるついで、隣を見れば穂積は小さく苦笑していた。
「こうして二人で歩いてたら、俺たちも恋人同士に見えちゃったりするのかな」
「知らない人が見れば、見えるんじゃない? 今日はイヴだしさ」
「そっか……でもさ、それって……」

心外だよね

 二人の声が重なった。
 見ず知らずの人の言葉に「心外」というのも、おかしな話かもしれないけれど。今の気持ちを表すなら、その言葉しか見当たらない。
「だって俺たちは……」
「だってあたしたちは……」

コンビじゃなくて、トリオだもん

「ね」
「ね」
 顔を見合わせて、同時に笑う。
「あーあ、しょうがないけどさ、やっぱり直也も一緒がよかったなー」
「……なんか、そこまで心情たっぷりに言われるのも、正直フクザツな気分になるけど」
「それって、直也にヤキモチ?」
 ちょっとね、と穂積が肩をすくめる。
「龍太が入倉と二人で遊んでるときに麻季も一緒がよかったなー≠チて、思うときある?」
「あるよ、もちろん」
 ただし、時と場合によっては。
 そんな余計なひと言を付け足せば、案の定、隣を歩む顔がたちまち素直なふくれっ面になった。
「どういう意味?」
「だってさ、男同士には男同士の会話があるんだよ」
「……ズルイ。それを言われたら、女のあたしは何も言えないじゃん」

 一歩先を、うつむきがちの穂積が歩いていく。
 一歩後ろを、笑顔の龍太が歩いていく。

「でもさ、俺と直也はほかのどんな女の子より、麻季と一緒にいるのが好きだよ」
「…………」
 返事はないけれど、声はきっと届いている。ショーウィンドウに映る横顔が、うれしそうだったから。
 と、同じウィンドウの端に、ちらっと何かがよぎった。
「あ!」
 龍太は足を止めて勢いよく振り返る。人が多くてよくはわからないが、路地の奥に赤と白が見える。その赤と白を囲うように人垣ができていた。
「麻季、行こう!」
「へ?」
 すぐに駆け出したが、ついてくる足音がない。龍太は引き返し、驚いた顔の穂積の手をとって、再び駆け出した。
 人ごみの中を手をつないで走るのはやさしくないが、そんなことを言っている場合じゃない。すれ違う人にぶつかるたびに謝りながら、目指す場所へと駆けた。
「りゅ、龍太……急にどうしたの?」
 息も切れ切れの穂積に訊ねられて、ようやく龍太は足を止める。
「ほら、最高のクリスマスプレゼント!」
 ぴょんぴょん飛び跳ねながら示すそこに、赤と白。
 人垣の向こうに見えるその人は、確かにこの夜の幸せの使者。
「え、サンタさん……?」
 まさか本物、と穂積もとたんに目を輝かせた。
「うんっ、フィンランドのラップランドからって書いてあるもん!」
 車の乗り入れが禁止された通りにブースのような囲いが作られ、中にはヘッドフォンをつけた三人の男女がマイクの前に立っている。出張のラジオステーション、だろうか。
 そして、この場の中心で人々の視線を一身に受けているその人。もちろん、どこかの客引きなんかではない。北欧の政府公認の「本物」のサンタクロースだ、とパネルに書いてある。ただし残念なのは、彼がいるのは大きなモニターを介した電波の向こうであるということ。
「さすがに今日この日に日本に来てるわけはないか」
 穂積が苦笑した。
 だが、龍太にはそんな友人の苦笑も目に入らなかった。確かに肌でその存在を感じられないのは残念。でも、今こうしてサンタクロースを見ている、その喜びのほうが何十倍も何百倍も大きい。残念さとうれしさ、どちらか一方の感情を選ぶとしたら、うれしいほうがいいに決まっている。
「すごい……」
 見ているだけで人に安心感を与える恰幅(かっぷく)のいい丸い体に、やはり丸くて穏やかな碧(あお)い瞳。見事に波打ち輝く白いひげ。「本物」のサンタクロースだ。
「すごいすごい……すごい! けど、よく見えない!」
 穂積の手を握ったまま、龍太は見学者の列の前方へじりじりと足を進めた。
 もっと前へ、できるだけ近くで見たい。
 もう少し、もう少し……よし、あとちょっとで一番前に出られる、と勢い込んだ瞬間、近くにいた誰かの足に思わず蹴つまずいた。
「うわっ? わわっ、ごめんなさ―――い!」
 手をつないだままの穂積と二人、派手に転がった。巻き込んだのが彼女だけだったのが、せめてもの救い。
「イテテ……」
 思い切りアスファルトについてしまった両手の埃をぱんぱんと払う。
 隣では穂積が顔を真っ赤にしていた。
「麻季、大丈夫?」
「大丈夫だけど恥ずかしいよ。龍太ってばはしゃぎ過ぎ!」
「だって、サンタさんだよっ? 俺、本物のサンタさん見たの初めてだもん! はっ、そうだ、トナカイ! 真っ赤なお鼻のトナカイさんは?」
 アスファルトに座り込んだまま大型モニターを凝視すれば、たちまち笑い声が沸き起こった。くるくる天から舞い散る雪のように、たくさんの笑い声がこの場の空気に染み込んでいく。
 そのとき、目の前に大きな手のひらが差し出された。赤い袖が見えた。そして、幼い頃にずっと夢見ていた優しい笑顔があった。
「え……?」
 サンタクロースが手を差し伸べてくれている。自分にひとつ、隣の彼女にひとつ。
 モニター越しのはずなのに、そうと頭ではわかっているのに、思わずその手に向かって自分も手を伸ばした。温かい手に、触れた気がした。
『大丈夫かい?』
 サンタクロースの口から出てきた「言葉」は理解できなかったが、通訳の人が日本語で伝え直してくれる。ブースの中にいたうちの一人が、通訳だったらしい。マイクを通してその人の声が聞こえてきた。けれど、たとえ通訳されなくてもサンタクロースの「想い」はきっと、理解できただろう。
 だから、あえて日本語で言った。
「ありがとう……」
 Thank you. じゃ、借り物の自分のようで。そうじゃない、本物の龍太の想いを今、届けたかったから。
 サンタクロースはにっこりと笑ってくれた。
 立ち上がると、再びサンタクロースの手が動いた。なにやら「下」と伝えたいらしい。
「え? あ……」
 見下ろしたそこに、ひとつの包みがあった。深い海を思わせる青い包み紙に、星の光を思わせる銀色のリボン。それはついさっきまでこのカバンの中に入っていたものだ。転んだ拍子に、カバンの中から飛び出したらしい。
「あはは、ありがとう! 道に落としたなんて言ったら、直也に怒られちゃうな」
 拾い上げ、ぺろりと舌を出してみせれば、サンタクロースが訊ねてきた。もちろん、通訳つきで。
『ナオヤというのは、友達かい?』
「うん、そう! すごく大切な……直也と麻季と俺と、最高の友達なんだ」
『そのプレゼントはナオヤから?』
 こっくり、龍太はうなずく。
「直也から俺に、俺から麻季に、麻季から直也に。三人でプレゼント交換したんだよ」

 今日はクリスマス・イヴ。
 だけど、もう十六になった俺たちはサンタさんからのプレゼントはもらえない。
 だから、自分たちでプレゼントをあげようよ。

「いつもそばにいてくれてありがとう。大好きだよ≠フ気持ちを交換しようって……」

 せっかく出逢えた三人だから。
 特別じゃない出逢いなんて、ないんだ。

 右手で穂積の手を握る。
 左手で、今はここにいない直也の手を握る。
 サンタクロースが優しい笑顔でうなずいた。
「Merry Christmas」
 カタカナじゃない、カタチだけじゃない、本物のその言葉を初めて聴いた。
 穂積の手を握る右手に、少し力を込めた。
「麻季、メリー・クリスマス」
「うん……メリー・クリスマス、龍太」
 サンタさんのようには言えない。でも、ちゃんと本物の想いは届けられたと思う。
 左手にも、そっと力を込めた。
「メリー・クリスマス、直也」
 小さくつぶやいたとき、ブースの中の男性が訊ねてきた。
「君、名前は?」
「龍太――あっ、ごめん! 俺、すごくお仕事の邪魔しちゃった、かも」
 そもそもこのステーションがどこの局なのかも、どんな趣旨のもとに作られる番組かも、パーソナリティの顔も名前も知ってはいないけれど。
 そんな思いがつい顔に出ていたのか、相手は楽しげに笑った。
「いや、すごく素敵な話が聞けて、僕たちはとてもうれしかったよ。クリスマス・イヴの今日、君のような少年に出逢えて、本当によかった。ほら、みんなもそう思ってるみたいだ」
 ほら、と男性に促されて辺りを見渡せば、そこにあるのは笑顔の輪。そこからクリスマスベルのように優しい拍手が聞こえてきた。
「OK、リュータ。せっかくだから、初めて逢ったサンタクロースに何か訊きたいことは?」
「え、えーと……」
 サンタクロースに訊いてみたいこと。

 ――世界中の子どもたちのお願いを叶えてあげるのは大変でしょう?
 ――サンタクロースのお父さんもサンタクロースだったの?

 それから、それから……

 子どもの頃から胸に描いてきた疑問がいくつも頭の中を駆けめぐる。けれど、いつしか思い浮かぶのは幼い日の自分自身になっていた。
 25日の朝、枕元に置かれたプレゼントを見つけた瞬間のあの喜びが、幸せが、この胸いっぱいにあふれ出す。

「サンタさん……」

 訊きたいことは、決まった。

「あなたは幸せですか?」






MAYBE TRUE 4/5



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