海に溶けゆく太陽が砂浜にひとつの長い影を映している。 空を流れる藍。 太陽から放たれた緋。 たゆたう波がその二色を混ぜ合わせ、少しずつ飲み込み、視界を染める色彩はしだいしだいに夜のそれへと移り変わる。夏よりも濃いと感じるのは空気が澄んでいるからだろうか。 直也はふと足を止めた。月は、どこだろう。冬、太陽が低いことは反対に月が高いことを意味するのだと聞いた。 見上げたところでそこに馳せるべく想いも特になかったけれど、なんとはなしに視線を頭上の空へとめぐらせてみる。その途中、ひとつの小さな輝きを見つけた。 「一番星……」 思わずつぶやいてしまったのは、自分もまた世間の多分にもれず、この夜の感傷に浸っている証かもしれない。 人知れず苦笑した。自分はクリスチャンでもない。もう枕元に靴下を飾って眠りにつく子どもでもない。なにより、 「柄じゃねえ……」 苦笑を噛み潰した口でつぶやいたそのとき、背後から呼ぶ声がした。 「ナオ! おまたせー!」 浜へと続く石段を伊原が駆け下りている。 薄闇の降り始めた時分、波打ち際からその人物の顔を見分けることはやさしくないが、この声を聞き違えるわけはない。今ここでたゆたう波のように穏やかで優しいその声を。 歩み寄れば、思ったとおりの笑顔があった。もちろん、歩み出す前からその表情が見えたわけでもなかった。それでも、声を聞けば相手がどんな顔で今いるのか、思い違えるわけはない。自信でも自負でもなく、それはただ当然のこととして。 たとえば、夏空に積乱雲を見れば夕立が来るとわかるように。西に夕焼けを見れば明日は晴天だとわかるように。 時間をかけてともに築いてきた「当たり前」の認識だ。 「タツはまだ?」 白い息を吐きながら伊原が訊ねてくる。 直也はうなずきながら、小さな笑みをこぼした。 「なに笑ってるんだよ、ナオ」 「シュウ、鼻の頭真っ赤。どっかの歌のトナカイみてえ」 「え、そう? どうりで鼻がツーンとすると思った」 左手の甲で鼻の頭をこすり、伊原は肩をすくめる。 今夜は冷えるね、と宵の空を見上げるその右手からほかほかと昇り立つチキンの香り。食欲をくすぐられて、たまらずこの腹の虫が騒ぎ出す。 聞きつけた伊原がくすっと笑った。 「先に食べてよっか」 「やめとく。タツがマジで怒るから」 「そだね、タツはマジで怒るね。でも、何してんだろ。早く来ないとせっかくのチキンが冷めちゃうよ」 「店が混んでんじゃねえのか?」 「んー、お店は関係ないと思う。タツは前々から用意してたもん」 「前々って、いつ?」 「10月の終わりくらい」 「それはまた気の早ェ話だな」 思わず吹き出した。 子どもからクリスマスプレゼントをねだられる父親じゃあるまいし。 「あ、正確に言えば夏からかな。お店に前もって頼んでおかないと、さすがに今の時期はそう簡単に手に入らないもんね」 「まあ、そうだな」 「毎年のことだから、お店のおっちゃんもタツが頼みに行く前からちゃんと分けて残しておいてくれてるみたいだけどさ」 「……ムダになったらどうすんだよ」 「ならないよ」 伊原が即答する。そうして腕の中にチキンの袋を抱え、微笑んだ。 「ムダになんて、ならないよ」 「…………」 反論はしない。それこそ無駄な言葉になるからだ。 言葉にしないからこそ伝わる想いが、時にある。 「混んでるといえば、ナオのほうが大変だったろ? ケーキ屋さん」 「ん? ああ、まあな」 「いいの残ってた?」 「それは見てのお楽しみだろ」 「ははっ、そっか。そうだよね」 無邪気な笑顔で伊原がうなずく。 それからしばし無言で佇んでいると、あっというまに夜の闇が駆け下りてきた。だが、時刻はまだ午後6時にもならないはず。 冬の昼間はつかの間だ。 「ホワイトクリスマスにはなりそうもないね」 見上げた空に雲はなかった。それこそ、一片(ひとひら)さえも。 「俺たちにはそのほうがいいだろ」 「うん、そうだけど。残念がってる人もいるんじゃないかなーと思って」 その言葉に、直也は隣に立つ友人の横顔を見やった。残念がっているのは口に出した本人のように思えたから。 そういえば、聞いてみたことはなかった。 「……そういうやつが、いるのか?」 「え?」 「だから……」 雪の舞い散る聖なる夜をともに過ごしたいと思う相手。大切な存在が。 そうはっきりと言葉にはできずに勝手な沈黙でごまかしてみたが、伊原はすぐに察してくれたようだ。 「つき合ってる子?」 「ん……」 「いるよ」 さらりと告げられた。 「でも、だからって一緒にクリスマスをどうこうってわけでもないよ。だいたい、クリスマスって恋人と過ごす日じゃないみたいだし……さっきのは、単に季節っぽいことを言ってみようかなーって、思っただけだよ。でも、まさかナオの口からそういう話が出てくるとは思わなかったけどね」 ナオのほうこそどうなの、とからかってよこす友人の肩を軽く小突いた。相手は楽しげに笑うだけ。 と、もうひとつの笑い声が頭上から降ってきた。 「俺も思ってなかったぜ。まさか俺のいないところでナオがそんなおもしろい話してるなんてよ」 「タツ!」 見上げれば、コンクリートの堤から菊地の笑顔がのぞいている。 「これもサンタクロースの魔法ってか?」 「遅ェよ、タツ」 「悪い。ギリギリまで部活抜けらんなくてさ。みんなどうせ予定もないんだから、こうしてバスケしてるほうがいい≠ニかって、やたら張り切ってんだ。よっと……」 ひょいっと菊地が堤の上へよじ登ったかと思うと、そのまま身軽にこちら側へと飛び降りる。足元が砂浜でなかったらできない芸当だ。ここはそれまで菊地が立っていたアスファルトよりもさらに低い。高低差はけっこうな数字になるだろう。 「さ、余計なやつらが来ないうちに、さっさと始めようぜ」 なんせ世間はクリスマス・イヴだ。波音をBGMにロマンチックな夜を過ごそうとやってくる恋人たちがあるかもしれない、と肩をすくめ、菊地が海へと歩き出す。右腕に抱えた大きな袋からはいくつもの細長い筒や棒が見えていた。 直也も伊原も、それぞれ約束の品を手に菊地の後に続く。 一歩一歩砂を踏みしめ進み、やがて三人の足が止まったのは波打ち際の手前。 時にいたずらっ子の顔を見せる波も届かないほどよい距離に、ひとつの岩がある。いつからここにあるのかは知らない。物心ついた頃にはすでにここにあった。この浜へ来れば、いつでも変わらず顔を合わせる相手。自分たちにとっては、いわばもう一人の幼なじみのようなものかもしれない。 子どもたちが並んで座るのに都合よく平らかなその岩の上へ、伊原と二人、手の中の荷物を置く。しゃれたクロスなどはないが、もとより格好などは気にしない。包み紙を広げてチキンやケーキを並べればそれで充分。 伊原が目を輝かせた。 「あ、ケーキかわいい! おいしそう!」 「ケーキっつーか、タルトだけど」 「いかにもクリスマスって感じじゃなくていいよ」 「プレート外してくれって言ったら、店員がすげー不思議そうな顔してた」 「あはっ、だろうね。イヴにケーキ買いに来てそんなこと言う客はいないよね」 菊地だけは一人、前方へ。抱えていた袋をおもむろに置き、細長い筒を取り出すと、よくならした砂の上へ丁寧な手つきで立て始めた。少しの距離を隔ててもう一本、さらにもう一本、と次々に浜には円筒が立ち並ぶ。 「できたぜ」 「僕たちもできたよ」 「んじゃ、始めっか」 菊地からぽん、と放られた百円ライターを手に、浜に立てられた筒の前へと歩み寄る。まずは一人、一本。しゃがみ込んで、手の中の小さな火をそっと導火線へ近づける。 「せーの!」 三人同時に、火を移す。 しゅっ、と音を立てて、小さな火が勢いよく駆けていく。砂の上を駆けたその火は、やがて夜空をも駆け上り、輝く光の花を咲かせた。 微笑ましいほどの小さな花。 だが、瞬きすら惜しいほどに次々と色を変える輝き。 この花火は自分たちからの祝福のつもりなのに、こうして降り注ぐ光を見上げていると、まるで自分たちが祝福されているかのように思えてくる。 「……喜んでるかな」 七色に吹き上がる光の噴水を見つめ、伊原がつぶやいた。 直也はうなずく。 「喜んでるよ」 「そうだよね。あー、なんか叫びたくなってきた。叫んでもいいかな」 「おう」 無邪気な笑顔で、伊原が夜空へと想いの限りに声を放った。 「ハッピー・バースデー!」 ハッピー・バースデー。 俺たちの海。 俺たちの汐浜。 知ったのは中2の夏だった。 いつものように皆で海で泳いだ帰り、伊原がふと公園の出入り口で足を止めた。 『シュウ? どうした』 『ねえ、ナオは知ってた? 僕、今初めて知ったよ』 『は?』 伊原が足を止めたのは石碑の前。これまで特に気にも留めずに通り過ぎていたそれを、伊原はじっと見つめている。 なんのことだろう、と菊地と二人、並んで伊原の視線の先を目で追うと、そこに彫られていたのはここ汐浜地区の造成、および臨海公園完成の日。 つまりは、この海の始まりの日。 『……シュウが今何を考えてんのか、俺わかる気がする』 『ナオ、さすが』 その年から数えて、今年で三度目。 湯気を立てるチキンにかぶりついて、菊地が笑う。 「はたから見りゃあ、男三人が浜辺でチキン食って、ケーキ食って、花火で騒いで……かなりしょっぺークリスマスだろうな」 「それはそれでいいじゃん。今日がただのクリスマス・イヴでも、僕たち同じことしてたと思うよ。ね、ナオ」 「おう――あちっ」 口をつけたコーヒーが、思いのほか熱かった。火傷(やけど)した舌を夜風に冷ましてもらいながら、次々と吹き上がる光の噴水を眺めやる。 伊原の言うとおり、今日がただのクリスマス・イヴでも自分たちはこうして、同じ場所で同じことをしていただろう。この海の誕生日なんてのは、口実に過ぎないのかもしれない。それでも「メリー・クリスマス」を祝うより、愛する海に向かって「ハッピー・バースデー」と叫ぶほうが何百倍も自分たちらしい。 そして、来年もきっと同じようにこうして過ごせるなら、それでいい。 「おっし、どんどん打ち上げようぜ! 店のおっちゃんが今年はいつもより奮発してくれて、まだまだ残ってんだ」 「あんまり派手にやって、今度こそ通報されても知らねえぞ」 昨年の今日はまだ十五。中学生が夜遊び、火遊びをしているから、とあやうく補導されかかったのだった。 そんな苦い思い出も、菊地がいつもの飾らない笑顔で笑い飛ばす。 「そしたら、俺たちは生粋(きっすい)の汐浜っ子です≠チて、言やあいいんだよ。この海には生まれたときから世話になってるから、誕生日を祝わずにはいられないってよ」 青臭いガキの台詞だと、それこそ笑われるだろう。 でも、菊地の言葉が気に入った。 生粋≠フ汐浜っ子。 そう、だからこの海の色と匂いが骨まで染み付いていたって、おかしくない。 青くて、かまわない。 ハッピー・バースデー。 俺たちの海。 俺たちの汐浜。 世界中の子どもたちが夢見るおとぎ話なんて、ここにはひとつもない。 ただここに、十年後も百年後も青い海がありますように。 12月24日。 そう願う、夜。 |
→MAYBE TRUE 2/5→ |