求めないで。
そのひと言で世界は変わってしまうから。

でも、本当に願っているのはきっと、
この変わらない世界を変えること、なんだろう――。




WISHES TO THE LITTLE DEVIL



 昨夜の強風に雲は流され、空はたださわやかな一色に染まっていた。
「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いしますね」
「こちらこそ。ところで、その紙袋、もしかして駅前の?」
「ええ、初売り。すごい人でしたよ」
「あら、それじゃ私も早く行かなくちゃ。欲しい福袋があるのよ」
 にぎやかな声が路地のそこここに行き交っている。
 まだ中天には届かない太陽が、それでも眩しく感じるのはやはり新年≠ニいうおめでたい気分が手伝うからか。
 初日影( はつひかげ )に照らされた町は、何の不幸も悲しみもないように、ただただ明るく輝いている。



 昔ながらの商店街から道を折れ、下町の風情残す住宅街の一角。
 ひと目でその年季の程が知れる古めかしい門構え。
 梅田家。
 自室のベッドに転がり天井を仰ぐ恋次の表情には、外に広がる快晴の青空とは対照的に少しの憂いの雲が張りついていた。
 部屋の中央に置かれたこたつの上を横目で見やり、そこに所狭しと広げられたものを見やり、最後にその視線の行き着く先は左手に握られた携帯電話。
「音沙汰なしはそういう理由か……」
 口から吐き出したため息は、天井へ昇っていくこともなく自分の耳の横へと重く沈んで消えた。
「正月だってのに、元旦からかっこ悪いな、俺……」
 つぶやき、右腕で顔を覆う。ふさがれた視界の中でもう一度深く息を吐いたとき、トタトタと軽い足音とともに耳慣れている鼻歌が近づいてきた。かと思うと、それは止まることなくこの部屋のうちへと突き進む。
「ア・ハッピー・ニュー・イヤー! あ〜んど、はっぴぃ・ばーすでーぃっ!」
 ドアが開くのが先か、その声が先か、といった調子で勢いよくのぞいた顔は十四年来の幼なじみ、龍太だ。
「おはよーっ! ――あれ? 恋ちゃん、まだパジャマ? もう9時半だよ」
「……龍ちゃん、頼むからノックくらい――――っ!」
「れんじっ!」
 頼むからノックくらいしてくれ、と苦笑を噛みつつ身を起こしかけた恋次を再びベッドに沈めたのは、龍太の後ろから飛び出してきたひとつの小さな影。
「れんじ! おめでとっ! きょう、たんじょう日なんだろ? 16さいっ! すごいすごい!」
「あぁ……うん、ありがとう、慶太( けいた )」
「どういたしまして!」
 小さな太陽が、にっこりと無邪気な笑顔を咲かせた。
 つい今しがたまでこの部屋に漂っていた憂い雲が、ひと息に吹き飛ばされてしまったようだ。
 慶太は龍太の末弟である。年は離れているものの、その笑顔を見れば誰もが二人の血の繋がりを信じて疑わないだろう。それほどよく似た兄弟である。
 得意げに白い歯をこぼしている慶太を抱きかかえ、恋次はゆっくりと体を起こした。
「れんじ、ケーキ食べたか? おもち食べたか? プレゼントは、なにもらった? あっ、オレさっき、れんじのじいちゃんにお年玉もらったんだぞ! 500円もはいってた!」
 矢継ぎ早に質問を浴びせかけ、しまいには、すごいだろう、と小さなお年玉袋を見せびらかし、この膝の上で慶太が大はしゃぎだ。
 よかったな、とその頭をなでてやろうとして、恋次は思わずその手を止めた。
「……なんだ、この髪」
 龍太によく似てつやつやと美しかった慶太の黒髪が、今はきらきらと明るい色に染まっていた。
「おまえ、どうしたんだ? この髪」
「へっへー、かっこいいだろ? セカイで飛んでるライダーはみんなキンパツなんだぞ! だから、オレもキンパツにしたっ!」
「ライダー?」

 ……ライダーって、あのライダー?

 首を傾げてその兄を見やると、龍太はおぼんを手に立ったままひょい、と肩をすくめた。
「慶のやつ、少し前にテレビで観たスノーボードにすっかり熱上げちゃって、オレもライダーになる!≠チて、はしゃいでんの」

 ……ああ、そっちのライダーか。

 思い浮かべた正義の味方とは違ったようだ。
 この頃の兄、龍太が「ピーター・パンになるっ!」と目を輝かせていたことを思えば、弟はだいぶ現実的な夢を見る性分であるらしい。
「へえ、それで……」
「まだ板の一枚も持ってないんだけどさ」
「それはまた気が早いな」
「形から入るのは姉貴譲りだね、きっと」
 龍太の言葉に苦笑しつつ、恋次は今度こそ慶太の頭をなでてやる。
 今年でようやく6歳を迎えるその髪は、まだ細く柔らかい。

 ……子どもの髪って綺麗だよな。それなのに、もったいない。

 しかし、全身で喜びを爆発させている相手を前にそんな言葉は似合わないか、と思い直し、にこ、と微笑で見下ろした。
「かっこいいライダーになれるといいな、慶太」
「うんっ!」
 満開の笑顔でうなずき、慶太がぴょん、とこの膝の上から飛び降りる。そのままぱたぱたとフローリングの床を駆けて、部屋の入り口に立ったままの兄のもとへ。
 と、その途中で、思い出したように足を止めてこちらを振り返った。
「でも、オレ、れんじもかっこいいと思う……」
「え?」
「う、うぅんっ、なんでもないっ!」
 丸い頬をほんのりと赤く染め、ぶんぶんと勢いよく首を振り、慶太が兄の足にしがみつく。
「さ、恋ちゃんに挨拶も済んだし、慶は下でお雑煮もらってなさい」
「りゅーたは?」
「俺はもう少し恋ちゃんと話してるから」
「うん、わかった」
「走って転ぶなよ」
「うん」
 慶太は一度ちら、とこちらを振り返ると、ふにゃりと笑みに顔を歪め、部屋を飛び出した。その小さな背中を苦笑顔で見送った兄の龍太が、ようやく、とばかりに部屋の中へと歩み入る。
「改めまして、あけましておめでと、恋ちゃん。これ、おせちとおもち、もらってきたから一緒に食べよう! ……と思ったけど、こたつの上いっぱいだね」
「あ、ごめん。適当に片づけてくれていいから」
「相変わらず年賀状いっぱい来るなー、恋ちゃんは。こっちにまとめとくよ」
「うん、よろしく」
 恋次は立ち上がると、パジャマに着ていたトレーナーを脱ぎ捨て、クローゼットから出したTシャツとパーカを被り直す。着替えの途中、やけに背後が静かなことに気づいて振り返ると、龍太が一通の広げられた便箋( びんせん )をじっと見つめていた。
 こたつの角を挟んで、恋次はそっと腰を下ろす。
 はっ、と龍太が顔を上げた。
「あ、ごめん。見えちゃった、から……」
「いいよ、べつに。龍ちゃんに隠すことじゃない」
 なんでもない風を装ってはみたが、浮かんだ笑みは苦い色だった。目にかかる前髪をかきやり、龍太の目の前に置かれたままの封筒を手に取る。

 消印は12月26日。
 けれど、自分がこれを目にしたのは今朝。
 おそらく配達されたのは昨年内であったのだろうが、郵便受けの隅に忘れられたまま年を越し、年賀状と一緒にこの部屋に届けられたもの。

「ここ数日、全然連絡がつかないからおかしいと思ってたら、こんなオチだったとはな」
 ベッドに投げた携帯電話を肩越しに振り返り、今度は苦笑を隠さない。
「偶然が作った状況とはいえ、相当未練がましい男だと思われてるな、きっと……」
「…………」
「直接会うでもなく、電話でもなく、こうやって手紙に書いてきたってことは、俺とはもう関わりたくもないってとこか」
 他人事のようにつぶやいておせちの重箱へと箸を伸ばすと、体の脇に伏せて置いたその手紙を龍太の手が取った。短い文面へと目を通しては、長いため息を漏らす。そんな龍太の様子を視界の端に置いて、恋次は黙々とおせちを小皿に取り分けた。
 そこに書かれていた文面は、読み返さなくとも覚えている。


   『勇気がなくてごめんね。
    でも、もう恋次くんとは一緒にいられない。
    こんな私のそばにいてくれて、今までありがとう。
                       ……さよなら。
                             チエミ』

 

 中学時代、二年間クラスメイトだった彼女。
 常に大人しげで物腰柔らかく、目立つ存在ではなかったが、話しかければ、その人となりを裏切らないはにかんだ笑顔がいつも返ってきた。こちらを見上げるときにさらりと肩の上で揺れる髪が綺麗だと思った覚えがある。とはいえ、在学中には特別親しく会話をする間柄でもなく、卒業後に連絡を取り合うこともそれまで一度としてなかった。
 偶然の再会は、初夏のある日。
 立ち寄った街の、静かな図書館で。

『……相田さん?』
『あ……恋次、くん……』
『久しぶり』

 見覚えのある横顔に声をかければ、あの頃と変わらないはにかんだ笑顔を向けられた。綺麗な髪は肩を過ぎるほどに伸びていて、それが離れていた間に流れた少しの時間を語っていた。
 そして、

『あの……あの、ね……恋次くん…………』

 しずしずと積み重なった想いを告げられたのは、ともに歩いたその帰り道。
 梅雨の走りの雨が奏でる音の中。
 
 あの日から、半年。
 
 
 ……さよなら、か。

 最後に会ったのは、クリスマスの前。
 別れ際、彼女がどんな表情をしていたのかも、自分がどんな表情をしていたのかも、今はもう定かではなかった。
「……恋ちゃん、フラれたの何人目?」
「……確か、2人」
「違うよ、チエミちゃんで3人目」
 3人、と指を三本立てて断言する幼なじみを、苦笑顔で見返した。
「よく数えてるな、龍ちゃん」
「だって、悔しいんだもん!」
「どうして龍ちゃんが悔しがる?」
「だって、俺、恋ちゃん大好きだもん! だから、恋ちゃんがこうやって誰かに見限られたりするのが、すっごく悔しい。結局、みんな恋ちゃんのこと何もわかってないじゃんか」
 だから悔しい、と皿の上のもちを睨みつける龍太。
 恋次はポットから自分と龍太の湯呑みに熱い茶を注ぎ、それを差し出しながらつぶやいた。
「チエミのことは悪く言わないでくれ。たぶん、俺が悪いんだ……」
「…………そうだよ、恋ちゃんが悪い」
 湯呑みを両手で包み込み、龍太もつぶやいた。
「好きでもない女の子と、なんでつきあうの?」
「……………………好きじゃないわけじゃ、ないさ」

 自分から求めたことはなかった。
 それでも、自分を好きだと慕ってくれるその存在を愛しく思わなかったことも、なかったはず。
 ただ……

「ただ、何かが噛み合わなかっただけ」
 そう、思っている。
 顔を上げると、龍太は険しい表情のまま、ずずーっと茶をすすっていた。
「そんなこと言ってたら、きっと恋ちゃんは一生噛み合わないよ」
「一生は困るな……」
 苦笑を噛みつつ龍太の小皿におせちを取り分けてやると、龍太は素直に受け取った。
「じゃあ、百歩譲って恋ちゃんがチエミちゃんのこと好きだったとしても、その好き≠チて、絶対チエミちゃんのそれとは量も質も違うと思う、俺。チエミちゃんも……ううん、チエミちゃんだけじゃなくって、ミヤコちゃんもアユミちゃんもそれを感じたから、結局は恋ちゃんから離れたんだよ」
「そうかもな」
「恋ちゃん!」
 湯呑みを置いて、龍太が大きな瞳にきゅっと憤りを込める。
 それを微苦笑で受け留め、恋次は肩をすくめてみせた。
「そんなに怒るなよ、龍ちゃん。せっかくの正月なのに」
「怒らせてるのは恋ちゃんだろ」
「俺は怒らせたくて言ってるわけじゃないよ」
「そりゃぁ、まあ…………」
 口ごもり、龍太が自分の髪に手をやった。指先で何度かその髪を梳いては小さなため息をこぼすと、やがて気を取り直すように箸の先で伊達巻をつつきながら、ちら、と大きな瞳をこちらへ向ける。
「……ごめんね、恋ちゃん」
「え?」
「だって……そりゃあ、いろいろ言いたいことはあるけど、でも、チエミちゃんにああ言われた恋ちゃんが、ちょっとでも傷ついてないとは思わないもん。さよなら≠チて言葉は、悲しすぎる」
 悲しすぎるよ、と一度は向けた瞳をすぐに伏せてしまう。まるで自分がそう言われたかのように肩を落とす幼なじみを見つめ、恋次はさらに苦笑を濃くした。
「龍ちゃんは相変わらず優しいな」
 からかわれていると思ったのか、龍太が、む、と口を尖らせる。それへ恋次はにこ、と微笑んでみせ、ゆっくりと熱い茶を喉に流し込んだ。
「さよなら≠チて、言われるほうがらく。言うほうがつらいんだ。優しい龍ちゃんならわかるだろ」
「でも…………でも、恋ちゃんだって悲しいだろ?」
「……そうだな、何回経験しても楽しいものではないな。ほら、栗きんとん、龍ちゃん好きだったろ。たくさん食べなよ」
 先ほど触れた慶太の髪のように、つやつやと黄金色に輝くそれを龍太の小皿へそっと移す。
 うつむいたままひと口含んだ龍太は、しょっぱい、とつぶやき箸を置いた。
「しょっぱい?」
 甘いはずだけど、と首をひねり恋次も栗きんとんをひと口含む。舌の上で溶けたその味は、確かに毎年食べている母の味。特に変わったところはない。
「やっぱり甘いよ、龍ちゃ…………ん」
 目を上げた先に龍太の顔はなかった。代わりに、もぞもぞとこたつ布団の中が忙しない。繊細で涙もろい幼なじみが布団の中にもぐって何をしているのか想像するのは、簡単なことだ。

 ……龍ちゃんは、優しすぎる。

 精一杯の親しみと、わずかなおかしみに紛れて、ほんの少しの危惧( きぐ )が心の中を駆けて通る。けれど、今はそれに気づかないふりをする。そうして、栗きんとんの甘さをただ静かに味わった。
 そのうちに、布団にもぐっていた龍太がおとなしくなった。
「龍ちゃん?」
 髪の先だけ見えていたそこをそっとめくってみると、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……風邪ひいても知らないぞ」
 恋次はふっと笑うと、自分のベッドから軽い綿毛布を下ろし、こたつ布団の中の龍太の体にかけてやった。
「年が変わっても、龍ちゃんは変わらないんだな……」



 * * *



 龍太を部屋に残し、階段を下りている途中、玄関の戸がカラカラと閉まる音を聞いた。すりガラスの向こうにぼんやりと浮かんでいる色艶(あで)やかな姿を目にし、もう一人の幼なじみが来ていたことを知る。

 ……実月( みつき )。

 龍太の妹……そしてまた自分にとっては、その兄と同じく十四年来の幼なじみである少女。
 その艶やかな色が視界から遠のく前に、自分から背を向けた。顔を合わせずに済んでよかったと、自嘲の響きを含んだ独り言を胸にこぼし、板敷きの廊下を歩き出す。
「失礼します」
 客間へのふすまをそっと引き開けると、とたんににぎやかな熱気が迎えてくれた。
「おう、恋次」
「あら、恋ちゃん。おめでとう」
 沖本家と梅田家はこの町に沖本家が居を構えて以来、家族ぐるみで親交がある。正月ともなれば親戚のようにこうして集まり、互いの幸と信にかけて祝いの酒を酌み交わすのが常だ。
 すでに赤ら顔の龍太の父と、いつも明るい笑顔の龍太の母とに声をかけられ、恋次はその場へ静かに膝と手をついた。
「明けましておめでとうございます。ご挨拶が遅れまして……」
「あら、いいのよ。そんなこと」
「いつもウチのチビどもが恋次には世話になってるからな」
「いえ、龍ちゃんたちに世話になってるのは俺も同じですから」
「まぁ、そんな……しっかり者の恋ちゃんに言われたらかなわないわ」
 くすくすと笑いをこぼす龍太の母を前に、恋次は曖昧に小首を傾げる。それから、さりげなく部屋のうちを見回した。客間には二人以外の姿が見当たらない。たまたま皆が席を外したところに自分が居合わせたのか、と思う途中に龍太の父が訊ねてよこした。
「ところで、そのウチのチビ龍太はどうした?」
「俺の部屋で寝てます。昨晩、遅かったんでしょう? 起こすのはかわいそうなので、そのままにしておきました」
「まったく、元旦からあいつは恋次に甘えっぱなしだな。たまにはガツンと言ってやってくれ」
「はい」
 微笑んでうなずきながら、しかし、元旦からガツンと言われたのは自分のほうだな、と心中では苦笑する。
「それより、恋ちゃん、お誕生日でしょう。おめでとう。もうお年玉っていう年齢じゃないとは思うけど、お誕生日のお祝いの気持ちも込めて、これ……受け取ってちょうだいね」
 龍太の母が、すっと畳の上に置いたのし袋。
 しばし見据えた後で、恋次は頭を下げる。
「ありがとうございます。でも、来年からはお気持ちだけにしてください。そもそも梅田にはそういう習慣もないですし、俺もそう育てられましたから」

 幼い頃から誕生日プレゼントや誕生パーティーなどといったものとは無縁。それは自分が元旦生まれだからでも、家族に祝う気持ちがないわけでもない。
 ただ、そういう「家」なのだ。

 ひた、と見つめると、龍太の母は少し迷うそぶりで髪に手をやった。
「……そう……そうね、恋ちゃんがそう言うなら」
「お願いします。俺も龍ちゃんたちにプレゼントあげてないので……」
 自分だけ受け取るのは心苦しいから、と頬に苦笑をにじませ言うと、ころころと高い声で龍太の母が笑う。
「あの子たちに気を遣うことなんてないわよ。ウチの子たちは恋ちゃんといられるだけで、毎日誕生日みたいにはしゃいでるんだから」
 そう言ってひとしきり笑うと、穏やかなまなざしをこちらへ向け、優しい声音で言い足した。
「恋ちゃんのお誕生日にこんなことを言うのもなんだけど、これからもあの子たちのことをよろしくね。仲良くしてやってちょうだい」
 恋次はうなずき、畳の上ののし袋を手の中に収めた。
 そこに、縁側の障子戸が引き開けられた。
 姿を見せたのは、父、誓次( せいじ )。少し白いものの混じった漆黒の髪に、切れ長の目。和服のあわせを軽く直しながら、ちら、とこちらへその目を向ける。
「明日は忙しいぞ、恋次。今頃下りてきたのでは門下生に示しがつかないな」
「……明日のことならちゃんとわかってる。俺が何年この家の子どもでいると思ってるんだよ、親父」
 わざとらしい口答えに、父はただ片眉を上げる。座布団へと腰を落ち着け、ひと口温( ぬる )い茶をすすってから、ようやく笑みを見せた。
「今日で16歳か……」
 早いものだな、とつぶやき、湯呑みを戻す。
「恋次」
 呼ばれ、恋次は父へとまっすぐに視線を向けた。
「今まで以上に、日々、礼の心にとくと励め」

 この日、このときに、父から与えられる言葉は毎年変わらない。けれど、一つ一つ年を重ねるごとに、その言葉の意味もまた重くなっていくことを肌で感じるようになったのは、いつからだったろう。
 目をそらすことはできない。父からも、自分自身からも。

「はい」
 膝の上で軽く拳を握り、頭を下げる。
「……っかー、カタイなあ。毎年のことながら、カタイよ、誓ちゃん。一人息子だってのに、たまにはただ優しく誕生日おめでとう≠フひと言くらい、言ってやれないのかい」
 龍太の父がお猪口( ちょこ )に並々と注いだ酒をぐっとあおる。呑みすぎよ、と隣でいさめる声には耳も貸さず、代わりに傾けるのが渋い風合いの、とっくり。
「ほら、呑め呑め誓ちゃん。明日からはお客さん相手、のんびりできるのも今日くらいなんだろ? ぐいっといきな、ぐいっと」
「酒が明日に残るとまずいんだ」
「何を言う。外を見てみろ。お天道様はあんなところでぴかぴかしてるぞ。こんな酒が明日に残るわけがあるもんか。さ、ささ、呑め、誓ちゃん」
「年は明けても相変わらずだ、祥( しょう )さんは」
 苦笑しながらも素直に酌を受ける父を眺め、恋次は誰にともなくそっと頭を下げると、立ち上がり、部屋を後にした。



 * * *



 台所からは母の包丁の音が聞こえてくる。
 カラカラとガラス戸を開けると、待っていたとばかりに声が飛んできた。
「恋次、上の棚からラップを取ってくれる? ちょうど切れちゃったのよ」
 母さんじゃ届かないから、と背を向けたままの相手に、恋次はふっと笑みをこぼして近づいていく。
「よく俺だってわかったな」
「足音ですぐわかるのよ」
「そ……はい」
 ありがとう、と微笑む相手にラップを手渡し、近くに据えられたテーブルの椅子へと腰を落ち着ける。
「おばさんから、お小遣い頂いた」
「お礼は言ったの?」
「梅田の家に生まれたからにはな」
「そういう言い方はよしなさい」
 言葉ではいさめながらも、母の表情は明るく茶目っ気にあふれている。
 恋次はテーブルの上で頬杖をつくと、なんとはなしに台所をくるりと眺めやった。目に見える食材が普段と多少違うことをのぞけば、特に変わったところはない。まな板に向かう母の横顔も、昨日と変わりない。

 ……新年といったって、ただ一夜が明けただけだよな。

 365分の1が過ぎただけ。
 それが、これからも続いていくだけ。
 それなのにたった一夜を特別に感じたがる気持ちは、自分にはわからない。

 ……俺と龍ちゃんは、全然違う。

 幼なじみといえど、感じることはまるで違う。
 いや、龍太たちが誕生日を祝う気持ちはわかるし、喜びに目を輝かせたその顔を見るのは好きだ。自分のただひと言でこんなに喜んでくれるのならば、いっそ毎日が龍太の誕生日ならいいのに、とくだらないことを考えたこともある。

 ……ほんと、くだらないな。

 自分自身につい苦笑していると、気配を感じたのか、母の背中が振り返った。
「何を一人で笑ってるの?」
「いや……俺、元旦生まれでよかったな、と思ってさ」
「え?」
「だって、皆に言ってもらえるから。おめでとう≠チて」
 意味は違えど、言葉は同じ。
 受け取り方しだいで、自分が万人に祝ってもらえるような錯覚すら覚える。
「恋次……」
「べつに皮肉を言っているつもりはない。梅田の家に生まれた以上はそれを受け留めるし、この時世、定まった道があることには、それこそ感謝だってしてる。礼の道からそれるつもりもない。ただ……」
「……ただ?」
 母がそっと続きを促した。
「ただ、与えられた恵みに感謝することには慣れていても、俺、誰かにそれを与えることには向いてないみたいだ……」

 彼女( チエミ )が自分から離れていったのは、だから。
 確かに好きだったのに、と今思うのはずるいだろう。
 そばにいたこの半年、きっと彼女が自分から得られたものは少なかったに違いない。
 自分が与えたものは恵みでも温もりでもなく、寂しさだけだったに違いない。
 彼女は自分に求めたものがあったろう。
 けれど、自分が彼女に何かを求めたことはない。
 もとより、歯車の向きが違っていたのだ。

 この心中の声が聞こえたわけではないだろうが、じっとこちらの顔を見つめていた母が静かにうなずいた。
「そうね……自分でそう感じるのなら、きちんと考えなさい。それがあなたの道の邪魔になることはないはずよ」
 穏やかに微笑んで、またまな板へと向き直る。
 その背中を見て、ふと先ほど玄関先で見た姿が脳裏をよぎった。ガラス越しに見た艶やかな紅い色。一夜が明けて変わったことといえば、幼なじみのその姿かもしれない。
「そういえば、実月来てた?」
「来てたわよ。でも、今日はお友達と初詣に行く約束があるんですって。せっかくお着物で来てくれたのに、あなた全然下りてこないんだもの。綺麗だったわよ、実っちゃんの晴れ着姿。本当に織姫様みたいで……」
 顔を合わせずに済んでよかったと、先程には思ったはずが、今はほんの少しの未練に、ちり、と胸の奥が灼かれたような心地を覚えた。それを全て吐き出すように、深く息を吐く。
「……織姫、か」
「彦星とめぐり逢えるのはいつかしらね」
 くす、と笑いをこぼして振り返る母に、恋次はただ苦笑を返す。自分から彼女の名前を口に出したとはいえ、正直なところ、いつまでもそんな話をされてはたまらない。
 と、そこに実に間合いよく近づいてくる足音があった。
「春花(はるか)さん、何か手伝うことあるかしら? あら、恋ちゃん、ここにいたの」
 廊下から覗いた顔は龍太の母。
 たった今思い浮かべていた相手とよく似た笑顔。
「龍ちゃん、下りてきました?」
「それが、まだなのよ。まったく困った子ね」
「それが龍ちゃんのいいところですから」
 笑って、恋次は椅子から立ち上がった。



 * * *



 台所を出ると、にわかに楽しげな声がこの耳を叩いた。
 そちらへと縁側を歩み、視線をめぐらせれば、慶太が庭の池をのぞきこんでいる。
「おーい、こっちだよー」
 池に向かって手を叩いては、水中の鯉( こい )を呼んでいるのだろう。
「あ、でてきた! おっきい! ほら、みてみて、じいちゃん!」
「そいつは三郎だな」
「さぶろー? じゃあ、あっちの白いやつは? さぶろーより、もっとおっきい!」
「あれは福助( ふくすけ )だ。この池の大将だよ」
 無邪気にはしゃいでいる小さな姿の横には、今だその身でこの梅田の家を支えている祖父がある。
 並ぶ二人を包む和やかな時の流れに、自然この口元もほころんだ。柱に背を預け、板敷きに腰を下ろし、しばしその緩やかな時に身を任せてみる。戸を開け呼び込んだ風はしびれるほど頬に冷たいが、心地いい。
 と、軽い足音が背後に近づいてきた。

 ……龍ちゃんだな。

 足音でわかる、と母の先ほどの言葉を今は実感する。振り返れば、思っていたとおりの相手の笑顔があった。
「あ、恋ちゃん、ここにいた」
「お目覚めか、龍ちゃん」
「ほっとくなんてひどいよ」
「気持ちよさそうに寝息たててたからさ」
「それより、恋ちゃん、こんなところに座ってどうしたの?」
 隣にすとん、と腰を下ろして龍太が訊ねてよこす。
 それへ、恋次は微笑を浮かべたままうなずいた。
「いい景色だ、と思って」
「いい景色?」
 首を傾げた龍太がこちらの視線を追って、すぐに二人の姿を見つけたようだ。
「あー、慶、じいちゃんにべったりだろ。ごめん」
「いや、じいちゃんも喜んでるから。慶太のこと、実の孫にしたいくらいだろうな」
「え、じゃあ、俺は?」
「龍ちゃんのことなんて、俺よりかわいがってただろ」
「そうかも……あは、なんか懐かしいな。慶のこと見てると、昔の俺たちを思い出す」
 大きな瞳を笑みに細めて、龍太が膝を抱える。そのまま前に後ろに重心を傾けながら、ぽつ、と呼びかけてきた。
「ね、恋ちゃん」
「ん?」
「16歳の誕生日、おめでとう」
「……龍ちゃんにはもう言ってもらっただろ」
「何回言ったっていいだろ。一度のおめでとう≠カゃ、俺の気持ちには足りない」
 たったひと言では表しきれない、と龍太のまっすぐな視線に、恋次は思わず目を見張る。
「不思議なんだよなー。これだけ長くずっと一緒にいたら、言葉なんかにしなくてもわかりあえると思うし、わかりあえてると思うんだけど……それでも、言葉にしないと落ち着かないっていうか。だけど、言葉だけじゃ足りないっていうか…………なんか、なんかね……」

 今でも一日一日、恋ちゃんのことを好きになっていく感じ。

 龍太が満開の笑顔を咲かせる。
「そう思ってるのは、俺だけじゃないけどね。今日の慶だって見ただろ? 母さんだって、恋ちゃんと顔合わせた後はいつもウキウキしてるし、父さんは恋ちゃんを見習え見習えって、いつも俺に言うし……さしずめ恋ちゃんは、沖本家キラーだね」
 ぴっとこちらの鼻の頭を指し示し、にひ、と白い歯を見せる龍太に、たまらず恋次は吹き出した。
「沖本家キラーって、なんだよ……」
 一度腹の中で踊りだした笑いの虫は、なかなか治まらない。くっくっ、と肩を揺らしていると、ほんとだよ、と龍太が大きくうなずいた。
「父さんも母さんも、俺も、慶太も、実月、も……毎日恋ちゃんのこと好きになって、恋ちゃんの顔を見れるのが嬉しいと思ってる」
 毎日だよ、とまっすぐな瞳で見上げてくる。その視線を受け留め、胸の奥をくすぐられたような心地になった。
 毎日が特別だ、と。
 一日を想う龍太の気持ちが、ふわりとこの心に入り込んでくる。反論なんて、できやしない。

 ……やっぱり、龍ちゃんはすごいな。

 自然と頬にあふれてくる笑みを隠さず、恋次はうなずいた。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
 満足げに髪を揺らしてうなずく龍太の姿は、先ほどの慶太とそっくりだ。そう思ってまた踊りだしそうになる笑いの虫を腹の奥でぐっと抑え、そっと名前を呼んだ。
「龍ちゃん」
「ん?」
「俺と歯車、噛み合うと思う?」
「今さら、何言ってんの。じゃなかったら、俺、今ここにいないよ」
 何のためらいもなく返ってくる言葉に、また胸の奥をくすぐられる。
「……そうだよな」
「それと……」
 言いかけて、今度は少しためらうらしい。その様子に、え、と聞き返すと、
「うん……それと、さ……たぶん、すぐ近くにいるよ。恋ちゃんに決してさよなら≠言わない女の子」
 明るい空を見上げ、龍太が言った。
 誰、とは言わない。だが、龍太の言わんとするところを察するのはたやすかった。なぜならそれは、これまでずっと考えまいと自分自身に言い聞かせてきたことだったから――。
「…………そうかもな」
 ただ、つぶやく。今は、それ以上は考えない。
 そうして、隣で龍太が見上げる同じ空を、見上げた。
 明るい新春の空。
 ただ一色に染まった空から降り注ぐ陽射しの眩しさに、思わず目を閉じる。
 目蓋の裏につかの間映った笑顔は、いつのものだったろう。

『恋次くん』

 優しい声音で、いつもはにかんだ笑みを向けてくれた彼女( チエミ )。その笑みに押し隠された感情や言葉はきっと、おそらく数え切れなかったろう。ただただ穏やかで優しくこの身のそばに在ろうとしてくれた。
 そんな彼女との記憶を手繰り寄せようとすれば、少し胸が痛む。その痛みに、どこかホッとしている自分がいる。そんな自分をまた、せせら笑う自分がいる。
 本当に失ったと嘆く想いがそこにあるのか、と。

 瞳を開け、見下ろした己の両手。

 彼女の穏やかな温もりなどそこに覚えているのか、と。
 欲したこともないくせに。
 飢(かつ)えたこともないくせに。
 言ってみろ、その手の中にあるものは、なんだ?

「あっ、恋ちゃん。羽根つきしよーよ! 羽子板、蔵の中にまだある?」
 龍太が立ち上がった。
「ほらほら、恋ちゃん!」
 見上げた、幼なじみの笑顔。
 手を引かれて、立ち上がる。
 降り立った庭土が、香る。
「羽根を落としたら、顔に墨だかんね。いい? 恋ちゃん」
「りゅーた! オレもやる! オレもやる!」
「じゅ・ん・ば・ん! まずは俺と恋ちゃんから!」
 眩しく響く、幼なじみの声。
 誘われて思い返す、己の声。


『……与えられた恵みに感謝することには慣れていても、俺、誰かにそれを与えることには向いてないみたいだ……』


 青空を流れる寒風。
 初日影に照らされ光る、瓦屋根。
 揺らめいて輝く池の水面( みなも )。
 ここに在る、自分。


 ……感謝ならしてるさ。

 そう、感謝ならしている。いつだって。

 ……だから、願うんだろ。


 そう、
 都合がいいことを承知で願うなら、この年、どうか彼女に安らぎと微笑みを。
 いつもそばにいてくれる幼なじみ( 彼ら )に、たくさんの幸福を。
 そして……



 梅田恋次、16歳。

 願うはこの年、この手に、まだ見ぬ渇望を。





End.
満を持しての、バースデー恋ちゃん編でした。
でした、が……あれ、なんか黒い?笑

龍ちゃん編のあとがきにて『恋ちゃん編とも対になってます』というようなことを書いたのですが……実際に対にして眺めると、恋ちゃんがとても黒く見えてしまうのは気のせいだろうか。
いや、龍ちゃんのピュアさが際立つのだということにしよう(自己完結?)

本編以前の時間軸だから、というのはもちろんあるんですが、いつも大人びている恋ちゃんに隠れた「子ども」の部分を(少しですが)描けて、チコリ的には満足している一編です(*'-'*)







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