この時間が永遠に続けばいいのになんて、思わない。
秋の夕空は一瞬ごとにその色を変える。
「もうこんなに蒼(あお)くなってる……」
さっきまではあんなに綺麗な茜空だったのに、と。
吹きつける風の中、寿人はつぶやいた。
頬をなでるその冷たさが、自分はもう夜の世界へ足を踏み入れたことを教えている。腕の中の小さなブーケが身をすくめるようにちりりと震えた。
一歩、足を踏み出した先に、はらり、葉が落ちた。それを拾い上げ、もう陽光届かない西の空へと一度かざし、すぐに手を離す。はらり、落ち葉の行く先を見届けずに、寿人は再び歩き出した。
イルミネイションでにぎやかな通り。そこから少し離れただけのこの路地を行き交う人の姿はない。
路地を照らすのは欧州風に装飾された街灯。等間隔に並ぶ、無口な光と影。
目に映るそんな景色とともに、自分もまたひっそりと夕闇に沈んでいくのを感じながら、寿人は一人、歩いている。
と、その足を寿人が止めた。
家へと帰る道の途中、必ず通るなじみの公園の入り口に佇む人影がある。
一瞬、見間違いかとも思ったが、自分が彼女の姿を見違えるわけもないのだ、とかすかに苦笑を浮かべ、寿人はそっと呼びかけた。
「須賀さん?」
入り口に立つ街灯が降らす光の下で、栗色の髪がふわりと揺れる。
「よかった、会えて」
「俺のこと待ってたの?」
特に歩調を早めることもせず寿人が近づいていくと、制服姿の須賀がほんのり悪戯(いたずら)な笑みを浮かべてうなずいた。その腕に長さ二十センチほどの紙袋を抱いている。
「今日は、ね」
「べつに毎日だっていいのに」
寿人が言えば、くす、と笑みをこぼす。
「あ、それ、みんなから?」
須賀の視線の先にあるのは、小さなブーケ。
「うん。放課後、遠藤に呼び出されてさ……」
うなずいて、寿人は須賀へとブーケを差し出す。
これは、後輩たちからの贈り物。
「かわいい……花だけじゃなくて木の実もあって、ちゃんと秋っぽくなってるんだね」
小さな紅い実を指先でちょん、とつついて、須賀が穏やかに目を細める。
「何が欲しいですか≠チて、今年は前もって遠藤からリサーチされてたから驚きはしなかったけど、まさか部員全員からとは思わなかったから……」
びっくりした、と正直に告げれば、穏やかなまなざしに見上げられた。
「それだけ愛されてるってことでしょ?」
寿人は苦笑して、柔らかな髪をかきやる。
「俺の代のときには、前・部長の誕生日なんて祝わなかったよ」
ごめんね、と今度は薄茶の瞳に茶目っ気をにじませ、前・部長≠見下ろせば、返ってくるのもまた茶目っ気のにじむ笑みだった。
「あたしだって、間宮(まみや)先輩の誕生日は何もしなかった。おめでとうございますって言っただけ。カズが特別なんだよ。でも……」
「でも?」
「リサーチされてたって、じゃあ、綾井が自分で花束が欲しいって言ったの?」
そんなの綾井らしくない、と言いたげな須賀の言葉。そしてそれは決して間違いじゃないのだ、と寿人は再び苦笑して首を横に振った。
「ううん、俺は、後に残らないものがいいなあって言っただけ」
ほんの一瞬、目を丸くした須賀が、その一瞬後にはまた小さく笑う。
「それって、ひどい。でも――」
「俺らしい=H」
「うん……」
うなずいて、須賀が秋色のブーケへと視線を注ぐ。
季節を彩るアースカラー。
秋は、自分がどこに立っているのかを知る季節だ。何に生かされ、何に生きているのかを。
「ちゃんと飾ってあげてね」
「さすがに、もらってすぐに放り捨てるほど冷血な人間じゃないよ」
受け取ったのは単なるモノじゃないことくらいわかってるさ、と。
寿人は曖昧(あいまい)な微笑を浮かべた。
『綾井先輩、15歳の誕生日おめでとうございます。すごく迷ったけど、これ……俺からだけじゃなくて、ブラスのみんなからです。ただカンパしてもらうだけじゃなくて、ちゃんとみんなでどんなブーケにするか選んだんですよ。綾井先輩に喜んでもらえますようにって。みんな、先輩のこと大好きだから……』
「うれしかったよ」
「じゃあ、これも喜んでもらえるといいんだけど」
こちらを見上げ、須賀がそれまで腕の中に抱いていた紙袋をようやく差し出した。
受け取れば、ほんのりと温かい。
「……開けていい?」
うなずく相手の瞳に、またちらり、悪戯な色が混ざる。
「後に残らないものにしたよ」
銀色のテープをそっとはがせば、袋の口を開く前からふんわりと甘い匂いがこの鼻をくすぐった。そうして現れたのは、ひと目で手作りとわかる、香ばしい色のマドレーヌが三つ。
「これ、焼きたて?」
「うん、だから冷めないうちに会えてよかった」
「でも、今日水曜だよ。水曜は7限まで授業あるって、言ってなかったっけ」
須賀の通う九条高校は、毎週水曜だけ7時限授業。一時限ごとの授業時間は6時限授業の日と比べ五分短いが、それでも7時限目が終わるには午後4時を回るという。それから帰宅していたのでは、菓子を焼く時間も、ましてやここで自分を待つ時間もなかったはずだ。
「7限目はホームルームだもん。今日は担任の先生が風邪で休講だったの」
そんなことより、と須賀がにっこり微笑んで言った。
「誕生日おめでとう、綾井」
淡い光に浮かび上がる、綺麗な笑顔。
肩の上で揺れるふわふわの栗色の髪は、この3月まではまっすぐだった。
自分と違う制服に身を包んだ相手をしばし見下ろし、寿人はうなずいた。
「……うん。ありがとう」
今度は曖昧じゃない微笑で。
「須賀さん、もう少し時間ある?」
「うん、平気」
それなら、と微笑んだまま寿人は言う。
「一緒に祝ってよ」
*
二年ぶりに並んで腰掛けたブランコがギシ、と軋(きし)んだ音を立てた。
「須賀さん、太った?」
「それって、失礼」
「冗談だよ」
笑って、紙袋から取り出したマドレーヌを一つ、隣へ手渡す。それから、たった今自動販売機から買ったホットミルクティーの缶を一本。
マドレーヌを膝の上に置き、ミルクティーの缶を両手で包んで、須賀がうれしそうにつぶやいた。
「あったかい……ありがとう」
寒風の中、すっかり赤くなった須賀の頬を眺め、寿人もまたつぶやいた。
「それはこっちの台詞(せりふ)だよ」
ぽつり、誰にともない調子のそのつぶやきは、残念ながら彼女の耳には届かなかったらしい。
「何か言った?」
「……ううん、何も」
そっと顔の前へミルクティーの缶を差し出せば、須賀も同じように缶を持ち上げた。
そうして、
「じゃあ、改めまして……誕生日おめでとう、綾井」
「ありがとう」
コツン、缶と缶が軽やかに響き合う。
ミルクティーの熱が、体の中心を温めながら流れていく。
ひと口頬張ったマドレーヌは、ミルクティーにも負けない優しい甘さだった。
「おいしい」
「ほんと? よかった」
「なんか、懐かしい味がする」
「懐かしい?」
「前にさ、家庭科の調理実習で作ったクッキーをくれたことあったろ。須賀さんが中2のときだったっけ」
「あれはあげたんじゃなくて、綾井が勝手に食べたんでしょ」
「へへっ、そうだっけ? ……あれも、おいしかったよ。このマドレーヌ食べたら、思い出した」
に、と瞳を細めて、マドレーヌをもうひと口。
甘いプレゼントをゆっくり味わいながら見上げれば、いつのまにか低い空に星が一つ、瞬(またた)いている。
冷たい空気の中で、その光はきりり、澄んでいる。
「そういえば、綾井、もう志望校決めた?」
「うん、そんなの一年前からとっくに決まってるよ」
え、と隣で小首を傾げる須賀。不思議そうにこちらを見上げる瞳が、ぱちり、瞬(まばた)いた。
それを見下ろし、ふ、と寿人はかすかに笑う。
「俺、須賀さんのその顔、好きだなあ」
「え?」
その顔って、どんな顔? と。
風に揺れる栗色の前髪の下で、綺麗な瞳がまたぱちり。
「その、まばたき」
君が目を閉じるその一瞬が、好き。
こうして隣に並んで、一緒に甘いものを食べて、なんてことない会話をする時間は心地いいけれど。
このまま時間が止まればいいのになあ、なんて思わない。
この時間が永遠に続けばいいのになんて、思わない。
絶対に叶わないことだと、知っているから。
流れ続けるから、それを人は時間≠ニ呼ぶのだろう。
この言葉が生まれた遥(はる)か遠い昔から、人は間にしか生きられないと知っていた。
現在は、過去と未来の間。
今年は、去年と来年の間。
今日は、昨日と明日の間。
だから、今日はただ今日であればいい。
今は、ただ今であればいい。
流れ続ける時の間にいるからこそ、君が目を閉じるその一瞬が、好き。
14歳だった昨日の俺でもない。
15歳と一日の明日の俺でもない。
今しかいない俺をその綺麗な目で切り取ってくれたら、それだけで、たぶん、生きていられる。
……ううん、たぶん≠カゃなくて、きっと。
空で、星が瞬く。
隣で、君が瞬く。
今日は、15回目の誕生日。
End.
HAPPY BIRTHDAY DEAR HISATO !!
2011.11.28