……いつまで待ちぼうけなんだろう。



   I'M A BECKONING CAT



「ありがとうございましたァーっ!」
 屋根を突き破りそうなほどに威勢のいい声が、体育館のうちにこだました。
 市川市立汐浜(しおはま)第一中学校。
 休日の土曜といえど、部活動が盛んなここでは朝から夕方まで快活な声が聴こえてくるのが常。
 地域の人々はその明るい声を耳に入れ、目を細め、近所の者と顔を合わせれば「今日も子どもたちは元気だね」と挨拶を交わし合う。
 しかし今年はその挨拶にもう一言加わるのが、これまでと違うところ。
「バスケ部はとうとうブロック予選を勝ち抜いたそうですよ」
「次は決勝トーナメント。それに勝てばいよいよ……」
 そうして期待に目を輝かせ、夕空の下悠々とそびえる校舎……の脇に建てられた体育館を振り返る。


 その体育館のうち。
「あ〜次は決勝トーナメントかァーっ!」
「あと2戦勝ち抜けば、全中だぜっ、全中!」
「俺たちが入った年にこんな快挙、鼻が高ェよなっ!」
「ベンチにも入れないやつが何言ってんだか」
「わははっ、言えてる」
 手に手にモップを持った1年生たちが、まさに破顔一笑の表情でコート拭きにいそしんでいる。
 それへ、ひとりの3年生が声をかけた。
「あー、モップ掛けは向こう半分だけやっとけばいいよ」
「え、いいんですか? 菊地主将」
「おう、これからちょいと遊んでいくから、残りは俺たちが片づけとく」
「遊ぶって……何するんですか?」
「おっと……お子様の1年坊には言えねーお楽しみだよ」
 にい、と口の端をつりあげ、いかにも楽しげな笑みを浮かべた菊地の顔を見て、とたんに後輩たちが目を輝かせた。
「もったいぶらないで教えてくださいよ!」
「だーめだめ。教えねー」
「先輩たちだけでずるいっス!」
「俺たちお子様なんかじゃないっすよっ!」
「菊地先輩〜」
「そんな顔したって教えねーって。ほらほら、しっかりモップ掛けとけよ。そういうところで手を抜くやつはゲームの中でも手を抜くんだ。自分たちがこれからの汐浜を背負って立つと思うんだったら、自分たちが使うコートくらいぴっかぴかにしとけ」
 その言葉に、今まで親犬に甘える無邪気な仔犬のようだった後輩たちの顔がぴりっと締まる。
「はいっ!」
 揃って返事するその顔を順に眺め、菊地も満足そうにうなずいた。
「よろしく頼むぜ。明日は半ドンで練習が短いんだから、今日以上に気合入れてけよ」
「はい!」
「モップ掛け終わったら、帰っていいからな。寄り道なんかすんじゃねーぞ」
「はい、おつかれさまっしたァー!」
「おう、おつかれ」
 一様に頭を下げる後輩たちへ軽く手を上げて別れの挨拶とし、菊地が背を向ける。
 そうして近づいてきたチームメイトへと、直也は手にしていたボールをひとつ、思い切り投げつけた。
「ずいぶんおエライこったな、キャプテン」
「くやしかったら代わるか? 俺はべつに譲ってやってもいいぜ、ナオ」
「いッ……てー…………」
 言葉と一緒にボールが投げ返される。その強さにしびれた指先を噛んで、直也は視線鋭く相手を睨みつけた。
 が、相手から返ってくるのはいつもの楽しそうな表情だけ。
「おうおう、仔猫が怒った」
「なっ……俺は猫じゃねえっ!」
「ほーら、逆毛が立ってきたぞ」
「コノヤロ……タツっ!」
 思わずつかみかかろうとしたが、体育館のあちこちから聞こえてくる笑い声に耳を叩かれて、はっとわれに返った。見れば、気のいい同学年の仲間はもちろん、まだ体育館に残っていた後輩たちも笑っている。その声音が一様に控えめなのは、先輩である自分へのせめてもの配慮なのだろう。

 ……また、タツにのせられた。

 直也はこれ以上ないしかめ面で髪をがしがしかきやると、苛立ちをすべて吐き捨てるように深く息をついた。
 気を紛らわせようと、脇に抱えていたボールをコートに弾ませ、得意のドライブからレイアップでリングに置いてくれば、今度はその笑い声がたちまち感嘆のため息に変わる。
「さすが、入倉先輩……」
「なんであんな身軽に跳べんだ?」
「ドライブはめちゃくちゃ鋭いのに、跳び方は柔らかいんだよなー」
「あんな進入速度でいったら、オレなんかチャージングとられまくるぞ?」
「跳べても勢い余って壁に激突するのがオチだな。リングも相手も見る余裕ないって」
「うん、先輩ってシュートの後たまにありえない降り方してくる」
「ニャンパラリ?」
「わはっ、それそれ。あの身のこなしはやっぱりネコ科だろ……」

 ……聞こえてんだよ。

 ひそひそとやけに楽しげな後輩たちの会話には、直也もさすがに苦笑をにじませる。
 じっ、と視線をやれば、気づいた後輩たちが揃って愛想笑いになった。
「お、お疲れさまっす! 入倉先輩!」
「おう」
 いそいそとモップを手に走り出す彼らを、目を細めて見送った。

 ……あいつらとバスケやってられんのも、あと少し、か。

 これまでただがむしゃらにやってきたから、そんな感傷に浸っている暇もなかったけれど。
 ふと、思う。

 ……まだ、終わりたくねえな。

「おい」
 気づいたときには、彼らを呼び止めていた。
「……次も、勝とうな」
 振り返った皆が、揃って笑顔でうなずいた。
「はいっ!」
 やがて、体育館のうちは練習時間の熱もすっかり冷め、そこに残っている部員は直也を含め、6人だけとなった。
 菊地 竜也(たつや)のほかは、伊原 秋人(しゅうと)、佐伯 薫(かおる)、筒井 仁(しのぶ)、港 昇平(しょうへい)。
 簡単に言えば、いつものメンバー。気のいい同学年の仲間とは彼らのことだ。
「さてと、始めるか」
 菊地の声を合図に、全員がボールを手にフリースローライン付近へと集まった。
「ナオ、何がやりたい?」
「あ? じゃあ……久しぶりに、ドンじゃん」
「あのなー、せっかく1年が半面モップ掛けたのに、俺らがオールコート走り回ったら意味ねーじゃん」
「あ、そっか……んじゃ、ドリブル相撲?」
「時間かかるからダメ。今日は鬼ごっこな」
 今日のメニューはドリブル鬼ごっこだ、と問答無用に切り捨てられた。選択の余地など、はなからない。

 ……だったら、俺にわざわざ訊くなよ。

 ひく、と頬を引きつらせれば、相手から返ってくるのはやはり楽しそうな表情。その笑顔のまま、菊地がくるりと仲間の顔を見回した。
「いいよな」
「ウィース」
 反対する者は、いない。
 続いて、対戦相手を決めるじゃんけん合戦。
 うまく3ペアに振り分けが収まり、それぞれ鬼も決まったところで、菊地がボールを指先でまわしつつ再度声をかけた。
「負けたやつは罰ゲームでシューティング連続10本だぞ」
 先程、後輩たちには「遊んでいくから」とごまかしてはいたが、実際のところは違う。もっとも、気持ち的にもやっていることにしても、遊びに近いものではあるけれど、れっきとした居残り練習だ。
 そのことに気づいている後輩たちもなかにはいるらしい。学年の分け隔てなく仲のいいのが汐浜一中バスケ部の伝統とはいえ、こうして部活外の時間、その輪の中に入っていくのはやはり気持ちの上で少々のためらいがあるようだ。
 そして今日も、部活後の体育館にはこうして3年レギュラーの面々が顔を揃えている。
 が、その「遊び」の内容が今までとは少し違った。
「シューティング、たったの10本でいいのか?」
 そう疑問の声をあげたのは、直也。
「いつも20本だろ?」
 今日の練習は軽かったとも言えないが、特に重かったとも言えない。
 連戦続きだったブロック予選もひと段落し、決勝トーナメントが始まるのは来週から。それを思えば、その罰ゲームはいかにも軽すぎるだろう、と直也は首をひねる。
 しかし、そう言われることはすでに承知の上だったのか、菊地はただ笑うだけだった。
「いいんだよ、今日は、な」
「今日は?」
 そう言われるのは、これで二度目。とすると、先程の無用に思えた問答にもやはり意味があったのだろうか。そういえば「時間がかかるから」と菊地は言っていた。シューティングの数を減らしたことにも、つながっている。
 どことなく含みを持たせる相手の言い方に、直也はただ顔をしかめた。そのまま同じ輪にいる仲間を見回したが、皆は菊地の意図を理解しているのか、特に異議を唱えようとする者はいないようだ。

 ……俺だけ知らないってのか?

 腹の奥でわずかな苛立ちが頭をもたげる。
 それを知ってか知らずか、菊地がさらに明るい声を上げた。
「ほら、始めっぞ。まずはカオル vs シノブの幼なじみ対決!」
 フリースローサークルのラインにたった二人が、それぞれの表情で向かい合う。
「っしゃあ、今日は負けねーゾ、カオル!」
「はいはい。張り切りすぎるとまた空回るよ、シノブ」
 ぶんぶんと大きく肩を回して意気込む筒井を、慣れた調子で佐伯が軽くいなす。あっ、と勢いのあまりに前のめりになった筒井の手から、ぽろりとボールがこぼれ落ち、サークルの外へと転々と跳ねていく。
 そうして、あっさり勝負はついた。
「お疲れ、シノブ」
 くやしがって髪をかきむしる筒井の肩を、励ますように伊原がひとつ叩いて入れ替わる。
 向かい合う相手は小柄な港。
「シュートじゃかなわないけど、こっちならミナトには負けないからね」
「……手足の長いやつは得だよな。そのうえ、シュウは先読みもうめーもん。あーあ、どうせなら俺が鬼になりたかった」
「ほらほら、ミナト。チビの誇りで逃げきりゃいいじゃねーか」
「狭いところはキライなんだよ」
 ぶつぶつ文句を言う港を、嫌味のない顔で菊地が笑った。
 しかめ面の港を笑顔の伊原がじりじりと追い詰める。港は動かないのか、動けないのか、じっと伊原の顔を睨みつけているだけ。
 そうしてる間に、
「はい、タッチ」
 ゲーム前の伊原の宣告と違( たが )わず、本日2本目の勝負は決まった。
「やっぱり負けた……」
 しゅん、と肩を落として座り込む港の頭に、直也はぽん、と軽く手をやった。小柄な者同士、港の気持ちはよくわかる。
「俺が仇とってくる」
「おっし、ラストは俺たちだな。来いや、ナオ」
「むかつく面( つら )だな、おい」
 に、と口元をゆがめる菊地を、直也は仏頂面で見返した。そのままの表情でサークルに入り、真正面から対峙する。
 こうして向かい合うと、やはり自分の小ささを痛感する。港も小柄ではあるが、サイズだけ見れば一番劣っているのは自分だ。だが、小さいなりの闘い方はある。むしろ、本来鬼ごっこというものは、小柄なものの方にこそ分があるはずだ。
「がっちりつかまえてやるからな、ナオ」
「逃げ切ってやるよ」

 ドリブル鬼ごっことは、その名のとおり、ドリブルをしながら鬼ごっこをするゲーム。じゃんけんで鬼を決め、30秒以内に相手にタッチすれば鬼の勝ち。反対に30秒相手に逃げられてしまえば、負け。ルールはいたって単純だ。だが、ゲームに使えるエリアはFT(フリースロー)サークル、それもサークルラインとFTラインの上だけ。ボールがサークルから飛び出してしまえば、それも即負けだ。素早さもさることながら、制限された足場の上でいかにボールを操り、またいかに相手の動きを読んで追い詰める(逃げ切る)ことができるか。

「負けねえ……」
 仲間うちでの「遊び」といえど、勝負事に負けるのはいただけない。その結果に罰があろうとなかろうと、結局自分はこうして戦うことが根っから好きなのだろうと思う。
 神経がすっと研ぎ澄まされていくのを感じながら、直也もまた知らず笑みを浮かべていた。



× × ×



 敗者に課せられた罰をそれぞれがこなし、菊地が手に持っていたボールをカゴへと投げ入れる。
 舞台に座り込んで菊地の罰ゲームを眺めていた直也は、ふと眉をひそめた。
「タツ? もうあがんのか?」
「おう、今日の練習はな。こっからは遊び≠セよ」
「は?」
 首を傾げているこちらの目の前で、伊原たちも忙しげにボールを片づけ始めた。
「ナオ、ボールちょうだい」
「お、おう……」
 言われるがままボールを投げ渡し、床の上へと身軽に飛び降りる。
 ガラガラと音を立ててボールカゴが倉庫の中に消えていくのを見送り、所在投げに髪をかきやっていると、つい先程までそこにいたはずの菊地の姿も消えていることに気づいた。
「あれ、タツ……は…………」
 振り返り、そう仲間へ声をかけようとしたはずが、そこには菊地どころか誰の姿もない。倉庫へカゴを運んでいった伊原も、なぜかこちらに戻ってくる気配がない。

 ……え?

 まさか、置いていかれたというわけではないだろう。帰るならそうと必ず一言声をかけてくれるはずだし、そもそも菊地は「ここからが遊びだ」と言っていた。
 そういえば、やけに蒸し暑い。気づいて見渡すと、すでにぴたりと閉じられた扉。見上げたバルコニーも窓は全て閉じられ、覆った暗幕がそよ、とも動く様子はない。
 漂う、違和感。

 ……遊びって、なんだ?

 深く眉根を寄せて考え出したその瞬間。

 体育館中の明かりが落ちた。



× × ×



 突然訪れた闇。

 射し込む光は一条さえない。
 風なく、音なく、外界と完全に遮断されたこの空間。
 あるのは、無言の闇だけ。
 それが視界だけでなく、じわじわと自分の中にまで染み込んでくるような心地がする。
 理由のない焦燥が、じわじわと腹の底から湧いてくるような心地がする。
 無音がこんなにも耳に痛いものだと、初めて知った。
 ごく、と鳴らしたのどがやけに大きな音をたてる。
「タツ……?」
 呼びかけた声は、情けなくかすれた。
 こんな声じゃ、たとえ相手がそこにいたとしても届かない。
 思い直して、胸に大きく息を吸いなおす。
 そうしてもう一度呼びかけようとした、そのとき、
「――――ッ!」
 今度はあまりのまぶしさに思わず目を閉じた。
 額に手をかざし、そろそろと目を開ければ、光は一点からやって来る。
 二階のバルコニーに設置されたスポットライトだ、とわかったのはそれから数秒後。
 今の今呼びかけた菊地の朗らかな笑い声が降ってきたからだ。
「なーに情けねー声出してんだよ」
 その声に、ほっとした。
 が、すぐに直也は顔色を変える。
 こちらからは当然強いライトの光が視界を遮るため、相手の顔は見えない。しかし、この闇に沈んだ体育館で唯一光を浴びている自分の表情はすべて、自分以外の人間に見えているということ。
 そう思い立った瞬間に、かっと頬が熱くなった。
 それを見透かしたように、また菊地の声が降ってくる。
「怖かったか? 仔猫ちゃん」
「な……タツっ! 何してんだよ!」
「今さら強がったって遅いぞ。さっきのタツ……≠チてやつは、ばっちり聴いてたからな。ついでに安心して泣きそうになった顔もしっかりもらったぜ」
「な、泣いてねえだろ!」
「だから、泣きそうになった顔って言ってんじゃねーか」
「べ、べつに泣きそうになんか、なってな――」
「ナオの弱点新たに見つけちゃったな。おまえら他校にはバラすなよ。試合中にわざわざ停電なんてさせられたら、たまったもんじゃねーからな」
 菊地の言葉に、四方から笑い声が降ってきた。

 ……なんだ、みんな上にいたのか。

 どうやら皆二階に上っていたらしい。それがわかってもう一度心がほっとしたものの、この「遊び」の意図がまったく知れない。ただ自分を驚かせようとしただけというのなら、悪趣味もいいとこだ。それに、いくらそこにいるとわかっていても、顔が見えないのはいやだ。温もりを感じられないのはいやだ。
 一人は、いやだ……。
「タツ、いいかげん降りて来いよ!」
 そう声を張り上げたが、返事はなかった。
 そして再び体育館に闇が満ちる。
 けれど、さっきまでのライトが残像となってまぶたの裏に残っているせいか、不思議と真っ暗だという感じはしない。

 ……それにしても、タツのやつ、俺をおちょくってんのか?

 恐怖が去ると、今度は苛立ちがやってきた。
 明るい光の下で顔を見たら、一番になんて言ってやろう。そんなことを舌打ちしつつ考えていると、

 パンパンッ!

 突然の音の襲来に、心臓がひっくり返るかと思った。


 ――そして、唐突に光が満ちた。



× × ×



 あまりの驚きに、今度は声も出ない。
 この視界に、光と一緒に何かがひらひらと降ってくる。
 天井のライトに照らされ、それはきらきらと星のように、いや、太陽を浴びて輝く噴水のしぶきのように舞っている。赤、青、黄、緑、橙、藍、紫…………七色に輝きながらひらひらと空中を彷徨っている。髪の上に、肩に、この手のひらにふわりと着地する。
 そうして初めて、今しがたの音がなんだったのか、この光の正体が何なのかを知った。
 長い紙テープが指先に絡み付いている。
 これは、クラッカーの中に入っている紙吹雪。

 ……そう、か。
 今日って6月23日……

「やっとわかったかよ」
 指に絡んだ紙テープを解いていると、菊地の声が今度はすぐ近くで聴こえた。
 振り返る間もなく、手が髪に触れる。どうやら紙吹雪を払い落としてくれているらしい。すぐ目の前を、青のカケラが過ぎていく。
「ナオ」
 柔らかな声に呼ばれてそちらを見やれば、伊原の笑顔があった。続くようにして、佐伯、筒井、港の三人も歩いてくる。
 倉庫の奥にはそういえば分電室に続く階段があったな、とそこでようやく直也は思い当たった。
 伊原たちはこちらのすぐ前まで歩いてくると、ぴた、と足を止める。そうしてなにやら後ろ手に持っていたものを差し出した。
「誕生日おめでと、ナオ」
「……おう」
 かすかにうなずくと、礼くらい素直に言えないのか、と菊地の苦笑混じりのつぶやきが後ろから聞こえる。
 直也は一度そちらを睨みかけ、しかし菊地のその言葉はもっともだ、と息を吐いた。再び、正面を仰ぎ見る。
「ありがとな……」
「うん」
 伊原がにっこり笑ってうなずいた。
「開けてみて。これ、僕たちからだよ」
 促されるままに包みへ手を伸ばす。それをそっと開いていく途中で、けれど直也は手を止めた。顔を上げて振り向けば、菊地が目をきょとん、とさせる。
「なんだよ、ナオ」
「シュウたちからってことは、タツも入ってんのか?」
「あたり前だろ。なにつまんねーこと気にしてんだよ」
「名前だけ、とかじゃねえよな」
「……何が言いたいんだよ」
 菊地がはっきりと眉根を寄せる。
 と、伊原たちの笑い声に背中をくすぐられた。
「大丈夫だよ、ナオ。ちゃんと5人で割り勘にしたから」
「キャプテンの名を笠に着て気持ちだけ……なんてことはやらせてないから、安心していいよ」
「そうそう。遠慮せずに受け取れ、ナオ」
「そうだゾ。なんたって年に一度の誕生日なのだ!」
 伊原に続いて佐伯が、港が、筒井が、これでもか、とばかりにはやし立てる。
 それならいいけど、と菊地の顔を斜めに見やれば、相手の眉間にはさらに深いしわが刻まれていた。
「ナオ……おまえ、俺のことをそんな男だと思ってたのか」
「思ってたんじゃねえ。思ってるんだよ」
「なんだと〜?」
 部活後のひと時とは反対に、菊地がつかみかかってきた。上から首を抱え込まれ、わしわしと乱暴に髪をなでまわされる。
「うだうだ言ってねーで、さっさと開けやがれっ!」
「わ、かったよっ……わかったから……」
 離せ、と振り払おうとしたが、強情な菊地の手はなかなか解けない。仕方なく窮屈な格好のままプレゼントの包みを破ることにした。
 開けるまでもなく中身の見当はついている。いや、そうだったらいいな、というわがままな願いが心の端にあった。その見慣れたメーカーのロゴが散りばめられた袋を見た瞬間から。
 ……ただし、その願いものは少々値が張る。
 わざわざ菊地を怒らせるようなことを口に出して訊いてみたのも、それがゆえ。これで中身がまるで違っていたら、それこそ悪趣味な質問だったかもしれないが……くどいくらいに伊原たちが話していた様子から察するに、おそらく見当違いということはなさそうだ。
 そうして袋の中から顔をのぞかせたものを見て、心が躍( おど )りだす。
「うれしそうにしちゃって、まあ……」
 こちらの首を抱え込んだままの菊地の手が、頬を軽くつねってよこす。
「ナオのこの顔を見れただけ、よしってことにしてやるよ」
 ありがたく受け取れよ、ともうひとつ頭を叩き、菊地の温もりがすっと離れた。
 そんなに顔に出てたのか、と直也は頬をさすりつつ、また仲間たちへ向きなおる。
「サンキュ……」
「あててみて」
「お、おう……………………こんな感じだけど」
「うんっ、似合う!」
 満開の笑顔で伊原がうなずく。後ろで佐伯たちもうなずいている。
 直也はついまた顔が緩みそうになるのを必死で堪えた。その表情を見られないようにと、わざわざ顔の前で大きくそれを広げる。
 幼い頃から憧れ続けているリアルバスケットボールの世界。
 そこに羽ばたく勇者の名が刻まれたレプリカユニフォーム。

 ……覚えてたのか、シュウ。

 以前、試合帰りに通りかかったショップの店頭に飾られているのを見つけ、思わず足を止めたことがあった。触れることもせずにただじっと眺めていただけだったが、そんな自分を隣で伊原もただ穏やかに眺めていたことを思い出す――。
「……明日の練習で、着る、から」
「うん! 着て着て!」
「そんなの着て部活に顔出したら、また1年の白木あたりが入倉先輩、そのレプリカどうしたんですか! どこで買ったんですか!≠チて、くっついて離れねーぞ」
「ああ、シロはナオにべったりだからなー。なんせ、こないだの試合、ナオの大活躍見て興奮しすぎて熱出したくらいだから」
 苦笑顔の菊地の忠告に、港が深々とうなずいた。
 と、
「それだけナオのバスケに惹かれてるんだよ」
 伊原の言葉に、思わず直也は目を見張る。
 伊原は港へかけた言葉のあとで、一度ちら、とこちらへ視線を向けると照れくさそうにふわりと微笑んだ。
 そこに菊地の乾いた笑い声が響く。
「ま、シュウがそう言うんだからそうなんだろうよ」
 くっくっと笑いを噛みながら、伊原の背中をひとつ叩いた。
「どういう意味だよ、タツ」
 よろけながら伊原が訊き返せば、菊地はさらにおかしそうに顔をゆがめる。
「だって、今の白木、ガキん頃のシュウにそっくりだもん。おまえもナオにひっついて離れなかっただろ」
「それは……」
「だろ? おもちゃ貸してやったり、お菓子分けてやったり、ナオの気を引こうと懸命だったよな」
「へえ〜、そうなんだ!」
 菊地の語る昔話に、佐伯たちが興味を引かれたように身を乗り出した。
 佐伯、筒井、港の3人は中学からの友人。小学校時代のことも、ましてやそれ以前の自分たちのことは知らないはず。それぞれの幼友達同士が中学で知り合い、そうしてできたこの仲間だけに、お互いの幼い頃の話には興味があるのも当然というわけだ。
「それで?」
 にわかに目を輝かせた筒井が振り向く。
 しかし、直也は曖昧な笑みでうなずくだけだった。

 ――あの頃のことを話そうとすれば、必然的に思い出す顔がある。
 常にそばにあったその笑顔を語らずに、あの頃流れていた時間を説明することなんて、できない。
 輝く亜麻色の髪。
 緑がかった薄茶色の優しい瞳。

「まあ、たしかにナオがバスケやってなかったら、俺たち友達にはなってなかったかもな」
 菊地の声に、ふと現在の自分を呼び戻された。顔を上げれば、先程までとは違い、ただ穏やかに懐かしんでいる顔がそこにある。
「シュウも俺も、ナオがバスケやってるのを見て近づいてったのは事実だしよ」
「あの頃はバスケやってる同じ年頃の子どもなんて、近所にほかにいなかったしね」
 伊原も懐かしそうに目を細めている。
「僕、ナオがバスケやってなかったら、今こうしてバスケやってないもん。それは絶対言い切れる」
「は、言うな、おまえも」
「タツだってそうだろ」
「さあな。俺はバスケ以外でもやってく自信あるぜ」
「そういうことを言ってるんじゃないよ」
「じゃあ、なんだよ」
「ははっ、シュウとタツはずっとそんな感じだったんだ」
 顔を見合わせ言い合う二人を、佐伯たちが笑いをこぼしながら眺めている。
 そんな仲間を見て、つい、言葉がこの口からこぼれ落ちた。
「…………俺は、バスケしかできない……」
 菊地と伊原が同時に振り向いた。
「それでいいじゃねーか」
「だから、僕たちナオのそばに来たんだよ」

 ナオのバスケが僕たちを呼んだんだよ――。

 にっこり笑う伊原の隣で、菊地がまたもにやり、と口元をゆがめた。
「そうだな……さしずめ、ナオは招き猫ってとこか?」
 その言葉に、たまらず伊原も、佐伯たちも短く吹き出す。
「ま、招き猫……って」
「ご、ごめ……ナオ。笑っちゃいけないけど、笑っちゃう……」
「タツ……」
 じっと睨み上げれば、菊地はそのままの表情で見下ろしてくる。それからひょい、と片手を猫の手のように丸め、顔の横へ掲げてみせた。
「ほら、ナオ。やってみろ」
「…………」
「ほらほら、ニャオ♪ って鳴いてみろ」
「…………じゃねえ」
「は? 何? 聞こえねーよ」
「俺は猫じゃねえっ!」
 たまらず叫んでつかみかかれば、ひょい、と軽くかわされる。勢いのまま前へつんのめったところを、後ろから腕をつかまれ、また頭をわしわしとなでられた。
「わかってねーな。睨むんじゃねーっての。しかめ面した招き猫があるかよ」
「だからっ、俺は猫じゃね――つーか、いちいちガキに言うみたいに頭なでんなっ」
「おまえがガキだからだろ」
「ガキじゃねえ!」
「そうやってすぐムキになるのが、ガキだってんだよ」
 言葉とは裏腹に相手は楽しそうに笑っている。
 この場を見守る仲間たちも同じように、笑顔がそこに並んでいる。

 ……そうだ。
 バスケをやっていたから、こんなにあったかい仲間ができた。
 気づくと周りにはいつも温かい笑顔がある。
 もう、一人じゃない。

「ナオ」
「……なんだよ」
「これからも、さっきみたいに笑ってろ」
 その短い一言に、なぜか胸が熱くなった。
「……タツ」
「なんだよ」
 知らず呼びかけていたけれど、何も言葉にはならなかった。
「……………………なんでもねえ」
「そっか」
 ふっとおかしそうに息をもらし、菊地が離れていく。
「さーて、ちゃっちゃと片づけようぜ」
 そう言い終らないうちに、すでに伊原たちは床の上に散った紙吹雪を集めている。
 直也は手に持ったままだったプレゼントを元の通りにしまうと、伊原と並んでそのきらきらと輝くカケラたちを拾い集めた。
「ナオはいいのに」
「黙って見てられるかよ」
「ありがと」
「……それはこっちのセリフだ」
 髪をがしがしかきやり吐き捨てれば、視界の端で伊原がふわりと微笑んだ。
「いつか……」
「え?」
「うん、いつか、さ……本当にそのユニフォームを着てナオがバスケしてるの見れたら、うれしいね」
 思わず、手が止まる。
「……それはまた果てしない夢だな」
「そうかな」
「遠いだろ」
「そんなことないよ。僕にとってはすごくリアルだよ。ナオなら、戦える。僕は、ナオのバスケが好きだよ」
 モップ取りに行ってくるね、と少しずつ遠ざかる伊原の背中を見送り、直也はふと天井を見上げた。
「…………俺の、バスケ……」

 高い高い天井。
 そこからまぶしく降り注ぐ光。
 どれだけ跳んだなら、それをつかめるだろうか。


『ナオ、おれ、いつか日本一になるんだ!』

『おれとナオが組めばだれにも負けないよな』

『そんでいつか、世界に乗り込んでやろうぜ』


 耳の奥に、懐かしい声音が響いた。
 いつもなら胸が痛いはずのその声も、今だけはそよ風のように優しく過ぎていく。
 笑っていたら、自分のバスケをやり続けていたら、一度は離れた笑顔もまたこっちを見てくれるだろうか。

 来週から、決勝トーナメント。
 勝てば、全中。
 さらに勝って、勝って、勝ち進んで……
 日本一を手土産に待っているのも悪くないかもしれない。

 ……俺も同じ歳になったよ、キヨ。
 
 初めて会ったときから、いつも自分の一歩前を歩いていた。
 誕生日だって一歩先。
 いつもいつも、自分は追いかけている。
 でも……きっと、会える。
 ここで戦い続けていれば、きっとまた、会えるだろう。
 だからその日まで、滑稽な招き猫にでもなんでもなってやる。

 ……それで、キヨが俺の隣に戻ってくるなら。

 もう二年も待ちぼうけ。
 でも、もう少しくらい、待てる。
 まだ、信じていられる。



 入倉直也、15歳。

 本当の戦いは、これから――。



End.
ナオ、中学生編です。
キヨを失くしたことに気づく、ほんの一週間前のお話。

補足になっちゃいますが、この仲間内でナオのことを「仔猫」とあけっぴろげにからかうのは、タッちゃんだけです。
愛のないイジリはただのイジメになってしまうので、みんなのナオへの愛をわかりやすく前面に出したら、ちょっと……予定以上に甘くなりました。笑

ちなみに、この時点での身長差は次の通りです。
タツ(174)→カオル(170)→シュウ(169)→シノブ(165)→ミナト(162)→ナオ(161)
高2のナオ(172)は、タッちゃんの中3のときの身長に届いてないのか……あ、ちょっときゅんときた☆笑





inserted by FC2 system